yoga school kailas

王のための40のドーハー

気高きマンジュシュリーに礼拝いたします。

マーラの力に勝利せし者に礼拝いたします。

風が吹くと
静かな水面が波やうねりに変わるように
王はさまざまな思いを集める
サラハとして見えるものの上に

指で目を押すと、愚か者は
一つの灯りを二つだと見るように
見るものと見られるものは分けられないのに
二つのものとして現われる

たとえ家の中に多くのランプが灯っていても
目の見えない者にとっては、そこは暗闇のまま
生来の智慧はもともとすべてに行きわたり、すぐ近くにあるが
無智のために、常に遠い

あまたの異なる河があるが、それらはすべて一つになって大海に至る
あまたの偽りがあるが、ただ一つの真理がそれらすべてに打ち勝つ
あまたの暗闇があるが、ただ一つの太陽が昇るとき、それらはすべて消え去る

雲の塊は海の水を集め、地はその雨を吸う
海の水は減るが、その分、空の水は増え
空の水が落ちたときには、地と海の水が増える
全体的には、常に減ることも増えることもない

勝利者(ブッダ)は、完璧さに満ちている
それは比類なき自然の性質のような、生来の完璧さ
すべての生き物は、ここより生まれ、ここに死す
しかしそれは、存在でも非存在でもない

真の至福をあきらめ、感覚的刺激の喜びを求めて
あなたは他の道をとる
あなたの口の中にある、至福の甘露を飲め
すぐに飲まねば、それらは消え失せる

人間はその知性によって、苦しみを作る
無智な動物たちには、そのような苦しみはない
浅はかな知性を持つ者は、この世のものに強くとらわれ続けるが
真の智慧ある修行者は、空の甘露を飲む

けがれた排泄物の臭いに執着する虫は
ビャクダンの純粋な香りを不潔だと思う
同様に、無智という汚物の中で、輪廻の香りに執着する者は
ニルヴァーナの純粋な喜びに背を向ける

牛の足跡に溜まった水も
やがて蒸発し涸れ尽きるように
本来完璧な心の上に溜まった、経験へのとらわれという無明も
やがては涸れ尽きる

塩辛い海の水を
雲は汲みあげ、甘く変える
ゆるぎなき利他の心は
この世の毒を、甘露に変える

すべての言葉を超えたとき、そこには苦しみはない
すべての思考を超えたとき、それは至福そのもの
雷雲は恐怖を呼び起こすかも知れないが
そこから落ちてくる雨は、地の実りをもたらすように

最初にも最後にも同様に何もない
はじめにも、中間にも、終わりにも、とどまるところはない
絶え間ない概念によって、めぐる思いは二元となり
それゆえに、空と慈悲も二つとなる

ミツバチは知る
花の中に蜜が見出されんことを
輪廻もニルヴァーナも捨ててはいけない
無智な者が、それをいかに知るか

鏡を覗く無智な者が
そこに映った映像を、自分の顔だとは気付かぬように
真理を拒む心も同じ
多くの真なきものを頼りとする

花の香りには形がないのに
それははっきりと広がりわたる
形なきありのままの存在も、それと同じ
マンダラの輪は知られている

冬の風に震え
柔らかい水面は、氷となる
概念に乱されて
形なき心の本性は、氷のように固くなる

存在そのものの本質には何の欠陥もない
それは、輪廻とニルヴァーナのどちらにも染まることはない
それでも、最高の宝石が泥沼の中に置かれるならば
その輝きは、知られることはない

無智が明確であるとき、叡智は不明瞭である
無智が明確であるとき、苦しみは明確である
このように、新芽は種子よりあらわれ
新芽より枝葉はあらわれる

心の本性を、一つ、または多数であると錯覚して分析するならば
心の本性の光は捨てられ、この世に溺れてしまう
彼は眼を開けて、燃え盛る地獄の火の中を歩む
このような者に、慈悲以外の何を持つことができようか

幸福にキスすることを熱望し
無智なる者は、それこそが究極であると言う
それは、我が家を離れて女の家の戸口に立ち
彼女に肉欲の喜びの物語を尋ねているようなもの

風が躍動する、空という家
わざとらしい行ないが、さまざまな喜びを生み出す
空から悪に転落する
圧倒され、ヨーギーは気絶する

燃え上がる炎に、ギーと米で
ささげ物を作るブラフミンのように
ハム字から不死の甘露を滴らせるならば、経験が生じる
リアリティをつかまえること、それは至福の経験への道

ある者たちは、間違った方法によって炎を頭頂に上げ
その舌で、小さな快楽を味わう
この積み重ねは、彼らを完全に情緒不安定にするが
彼らはプライドを持ち、自らをヨーギーと呼ぶ

単なる名前や概念にすぎない内的体験、それらを彼らは、高い意識であると主張する
「たとえ何に縛りつけられても、それ自身で解放する」と彼らは言う
宝石の価値を知らない無智なる者は
単なる緑色のガラス玉を、エメラルドであると思いこむ

真鍮を金と思いこむように
自分の体験を、究極の完成へ導く道だと考える
それは、夢の体験にとらわれるようなもの
心身を無常だと説きながら、その喜びを永遠のものと呼ぶ

エヴァムの文字により、意志は達成されると彼らは考える
四つの瞬間を分類することによって、四つの印は示される
それらのいくつかは、自然発生的なあらわれの経験によって示される
鏡に映ったものに執着してはならない

惑いのなかで、鹿は走る
蜃気楼を水と見間違えて
同様に、無智なる者たちは、渇愛を癒すことなく死んでいく
鎖につながれたまま、それらを究極だと考えて、快楽を追いかける

心の集中観察は、相対的な真実
心が集中観察から解放されるとき、無心となる
完全な無心を得たとき、これこそ最高の成就である
友よ、あなたはこれを知るべきである。

心の集中観察から解放された心は、サマーディに至る
ただそれは完全なる、苦悩の浄化
泥沼から生まれた蓮華が、泥にけがされないように
仏性を持つ心そのものは、輪廻のけがれにけがされることはない

心の集中観察は、この世のすべては幻影であるということを確定させてくれる
世俗的思いを超えて、この瞬間に心を集中し、不動に瞑想せよ
心の正しい認識によって、無智は縛りあげられる
そこにおいて自我意識の生起はなく、智慧は自然にとどまる

この空の心は、本質的に不動であり、非生起
それは形を持つ実体として現われることはない。誤った思いを放棄せよ
心そのものの中に絶えずとどまり、ただ深い瞑想だけを行なうべし
思考がなければ、そこに欠点はなく、精神活動から自由になり、瞑想に安らぐ

知性、心、そして意識において、まさしくこれは本質なるもの
多様にあらわれる全世界において、まさしくこれは本質なるもの
見るものと見られるもののすべてにおいて、まさしくこれは本質なるもの
とらわれ、渇愛、嫌悪、そして菩提心においてもまた、まさしくこれは本質なるもの

霊的無智の暗闇に灯されるランプ
精神的なカテゴリーを分けることで
思考の欠陥は捨てられる
「とらわれのないこと」の本質を熟考せよ

否定されず、作られず
とらえられず、思いもおよばない
無智な者は、精神的なカテゴリーによって縛られる
本質は分けることができず、全くの純粋

「空」を、一元であるか二元であるかと追求して、あなたはそれがどちらでもないと知る
その認識を通して、衆生は自由になる
光輝と不動を認識して、瞑想せよ
まさにそれを目指し、私は不動の心をとらえる

幸福にあふれる王国に到達し
そして、心の本性を見ることによって、心は広大になる
あなたはその王国を歩いていくが
心の本性から離れることはない

生来の喜びはダルマカーヤ。サンボーガカーヤは喜びの種
そして優れた葉が生えてくる
何もどこへも広がらなければ
たとえようのない至福は達成される

そこにとどまっている者は、衆生に利益を与えるが、真実には実在しない
それでも、衆生のために、彼らはそこにとどまる
とらわれ、しかも究極的にはとらわれていないもの、それがカーヤの形
空とあらわれは分けられない

それは、輪廻の泥沼に執着する豚のようなものではない
あなたが一旦、完璧な心を悟るなら、どんな誤りがあるだろうか
このように修行する者の誰も、何にも影響を受けることはない
どうして彼が、過ちに束縛されようか

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