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カルマ・ヨーガの真髄


バガヴァッド・ギーター 第三章 カルマ・ヨーガ

◎カルマ・ヨーガの真髄

【本文】
アルジュナが言いました。
『ジャナールダ(クリシュナ)様!果報を求める行為よりも智性を磨くほうが良いとおっしゃるのがあなたのお考えなら、
なぜ私に、このような恐ろしい戦いをせよ、とおっしゃるのですか?ケーシャヴァ様!
あなた様が矛盾するようなことをおっしゃるので、私の心は今とまどっております。
そうぞ私にとって最善の道をひとつだけ、はっきりとお示しください。』

至高者は言いました。
『無垢なる者よ!私はすでにこの世で真理を体得する二つの行法を説いた。ジュニャーナ・ヨーガは哲学的思索を好む者のために。カルマ・ヨーガは活動を好む者のために。
 行為を避け、何もせずにいたとしても、人はカルマから解放されるわけではない。
 また形だけ出家したからといって、サマーディの境地を達成できるわけでもない。
 どんな人であろうと、一瞬たりとも何もせずにじっとしていることはできない。
 なぜなら、人間は生来の性質(グナ)により、どうしても何かをせずにはおられなくなるからだ。
 また、一方では行動の諸器官を抑制しながら、他方では心を感覚の対象に向けている者は、またおろかな偽善者と呼ばれよう。
 それとは反対に、心の感覚を制御し、何事にも執着せず、行動の諸器官を動かす人は、おお、アルジュナよ! まことに秀でた人と言われよう。』

 はい、まずジュニャーナ・ヨーガっていうのは、簡単に言うと、「これでもない、これでもない、のヨーガ」といわれます。「これでもない、これでもない、のヨーガ」ってどういうことかっていうと、ヨーガの言葉で言うと真我ですが、真我とは何かと。この追求。ね。それにおいて、「これでもない、これでもない」なんだね。
 つまり私の肉体は私の真我ではない。あるいは感覚も真我ではない。心も真我ではない。あるいは目に見える様々な現象や物質も真我ではない、っていう感じで、我々のこの迷いの世界で経験する様々なものを否定していって、最終的に現れる、心の本質をみたいなものをつかむヨーガ、これがジュニャーナ・ヨーガですね。
 そうではなくて、もう一方のヨーガ、これはカルマ・ヨーガ。
 ジュニャーナ・ヨーガっていうのはこの世の現象そのもの、あるいはカルマ動きそのものも含めて否定しているわけですが、カルマ・ヨーガっていうのはそうではなくて、この世での活動を肯定し、その中で悟りを得ていかなきゃいけない。
 この二つの、一見矛盾するようなヨーガがあるわけだね。でもこれはどちらも矛盾するものではない。
 で、そのカルマ・ヨーガの真髄について、これからクリシュナが説いていくわけですね。

『行為をせずに、何もせずにいたとしても、人はカルマから解放されるわけではない。
 また、形だけ出家したからといって、サマーディの境地を達成できるわけでもない』
と。

◎堕落と改革の繰り返し

 インドの宗教界というのは、とてもおもしろいと思うのは、常に堕落と改革を繰り返しているんだね。
 例えばお釈迦様というのは、ある意味で当時のバラモン教といわれる、インドの宗教界における、大改革者だったわけですね。
 お釈迦様は決して、古い宗教全体を否定したわけではない。
 例えばお釈迦様の仏典で、「バラモン」という題名の仏典がいくつかあるんだね。で、これでお釈迦様がどう言っているかというと、「真のバラモンとは」ということを説いてるんです。バラモンていうのはつまり、仏教以前の、土着のヴェーダとかを信じる宗教家達の僧のことだけども――例えばお釈迦様の経典で、こういう経典があります。
 古の、つまり遥か昔の、偉大なバラモン達は、こうこうこういう素晴らしい生き方をして、悟りを開いていたと。しかし徐々に徐々にバラモン達が、王族とくっつき、王様の機嫌をとるために、いろんな儀式を行ったり、あるいは自分の財産を増やす為に、王様の懐に入ったりすることを始めるようになり、どんどん堕落していったと。よって、今のバラモンは真のバラモンではない。真のバラモンとはこうだ!――という教えを説くんです。
 だから決して、過去の宗教を全部駄目と言ってるんではなくて、古のバラモンていうのは本当は素晴らしかったんだけど、今のお前達はなんだ!――って言っているわけだね(笑)。そういう意味で否定してるんです。
 よってそこで、「私が教えを説こう」と言って、バーッと説いた、生きた教え。つまりその当時死んでたわけだね。その当時ヒンドゥー教っていうかバラモン教は死んでいた。死んでいたところに、お釈迦様が現れて、生きた教えをガーンッて説いた。それが、お釈迦様の仏教なわけだね。
 もちろんお釈迦様は自分の教えを仏教とは言っていない。お釈迦様は、「サッチャ」と言ってるね。「サッチャ」っていうのは「真理」ということです。つまり「私は真理を説こう」と。「サッチャを説こう」と言って、バーッと真理を説いた。
 で、お釈迦様はそういう形で現れて、多くの弟子を解脱させ、素晴らしい救世主だったわけですが、その数百年後、歴史的に言うと、アショーカ王っていう王様がいて、アショーカ王という人はインドを統一した最初の王様だった。で、全インドの王となって、最初は仏教の反対者だったんだけど途中から仏教に改宗して、全インドの王が仏教に改宗したから、インド中が仏教になったんだね。一時だけどね。で、仏教ってすごくみんなから尊敬されて、僧侶達もすごく楽になったって言うのかな。つまり仏教の僧っていうだけで、敬われるような人になっていった。
 しかしそれによって堕落が始まった。ここでいう堕落っていうのは、怠けたり、お金を求めたとかそういう昔のバラモンみたいな堕落ではなくて、僧院にこもって――つまり本質的な真理の探究よりも、言葉を追い求め、あるいは衆生への慈悲よりも、自分の悟りだけを求め、――っていう世界に入っていった。
 で、このように凝り固まって堕落し始めた人たちを、また内部否定し、立ち上がった人達が、後に大乗仏教と呼ばれる人なんだね。
 ただもちろん大乗仏教自体にも悪い部分もある。だからどっちがいい、悪いじゃないんだけど、ちょっとこう腐りかけた、僧院で凝り固まり始めたグループを、「いや、そんなんじゃだめなんだ」って人たちがバーッと現われた。

◎出家とは捨てること

 で、ヒンドゥー教っていうか、ヨーガの世界ね、ヒンドゥー教のヨーガと仏教も同じような感じなんです。
 例えば仏教が言葉ばかりを追い求めてた時代に、ヨーガは徹底的にヨーガの行法とか、あるいは実践的な教えをどんどん打ち出して、それによって民衆がそっちの方に流れていった。で、そこで仏教の人たちは目を覚まされて、「いや、おれ達はそんな文字ばかりを追いかけてる場合じゃない」と言って、また実践的な教えに目覚めて、どんどん仏教の聖者も出るようになったとか。
 こういう感じで、堕落とそこからの改革をインドでは繰り返してきた感じがあるね。
 で、ここで書いてあるのも、さっき言った、一部のね、仏教徒達が過去に陥った堕落と同じで、単純に社会から出離して、僧院にこもって、何もしないと。で、ただ出家という形をとると。あるいは現代では、西洋の人達もそうだけど、例えば西洋人というのは――欧米というのは、おそらく日本以上にチベット仏教とかヨーガが流行っています。もう全然比較にならないくらいブームがあると。で、そのチベット仏教とかあるいはヨーガの世界に憧れて、――私もいっぱい出会ったけどね、例えばリシケシとかに行くと、サードゥ風の衣をまとった、大きな体の欧米人が歩いてたりする。あと仏教もそうだけどね、青い目の僧侶とか、ぽちぽちといると。
 で、彼らはもちろん本当にそれで悟る人もいるだろうけども、そうではなくて、例えば、そのような出家の雰囲気に自分をおくことによって、それが一つのゴールになっちゃうんだね。つまり、東洋のそのようなエキゾチックな出家っていう状態に身を置くことによって、自分はもう悟りを得たような気持ちになってしまう。
 でも出家っていうのはもともと捨てる事だから。あらゆる自分の概念とか、もちろん物質も含めて、観念も含めて、すべて投げ出していかないといけない。でもそうじゃなくて、出家っていうのが一つのステータスみたいな感じになってしまってる。で、出家の生活に入り、そして社会と接せず、で、なんかこう、難しい顔して座ってれば悟るような感覚に陥る人がいる。
 もちろんね、それが今全部悪いって言ってるんじゃないよ。本質を間違ってなければそれで悟る人もいるわけだけど、そのような、例えば、イメージというか、その中に入ったからって悟るっていうもんではない。

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