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ダッタートレーヤ・ジャヤンティ

 今日はシヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーの三神が合一した姿のアヴァターラ、ダッタートレーヤの誕生日とされる日です^^

『ああ、王よ。私は鋭き理性によって、多くのものを自分の師と見て、智慧を学び取り、自由な心境で世界を放浪しているのです。

 私は「大地」から、自分は他の生き物に踏まれても、彼らは神の意に沿って動いているのだと考え、決して心を乱さないという誓いを聞き、人はこの事実を悟って、自分のダルマから外れないようにすべきだと学んだのです。
 また敬虔な者ならば、「山」から、自分の行動はすべて利他の思いからなすべきであり、自分がこの世に生まれてきた理由も、ただ他者への奉仕のためだと学び、また、「木」の弟子となることで、他者に役立って生きることを学ぶべきなのです。

 修行者は、生命の維持のためのみに食物などを求める「風(プラーナ」のあり方にならって、必要最小限のもので満足すべきであり、決して感覚を喜ばせるもので自分を甘やかすべきではありません。しかし自分の判断力が飢餓によって損なわれないようには注意すべきであり、また言葉や心が感覚の楽しみへの欲望で乱されないように努めるべきだともいえるでしょう。
 さらに「風」が何にも執着しないように、ヨーギーは種々の性質を持つ対象の間を自由に動きながらも、何の影響も受けず、何にもとらわれるべきではないでしょう。
 また「風」は種々の香りを運びつつもそれらとは別の存在であるように、ヨーギーは物質的な身体に入って様々な属性(細い・太い、美しい・醜い、弱い・強いなど)を与えられても、心を真我に固定して、それらの属性に影響されないようにすべきなのです。

 「空間」は、動不動のすべてを貫いても、何にも制限を受けないように、修行者は肉体という衣をまとっていても、常に遍満するブラフマンと一体であり、自分の本体である真我は何にも影響されないと知るべきなのです。
 空間は、風に動かされる雲とは何の関係も持たないように、グナから生じた火や水、地でできた肉体とは、真我は何の関係も持っていないのです。

 聖者は「水」のように澄み渡り、心は穏やかで、思いやりを持ち、すべてを浄化してくれるでしょう。そして人々はそんな彼の姿を見て、また彼の身体に触れたり、彼を賛美することで、自分たちも浄化されるのです。

 ヨーギーは「火」のように光輝に満ちて、修行の栄光で輝き、力に満ちあふれて、自分の腹以外に器を持たずに、真我と一体となっており、いかなるものを食べても影響されないでしょう。
 そして火のように、あるときは人の目から身を隠して、あるときは人々の前に姿を現し、祝福を求める者たちにあがめられて、供養する者の過去と未来の罪を燃やすのです。
 火は、それが燃える薪の形となって現れるように、すべてに遍満される主も、ご自身のマーヤーが生み出した、高等な、または下等な身体の中に入って、それらの姿となって顕現されるのです。

 時の力で生じる「月」の満ち欠けは、月そのものには生じず、月の相だけに関係するように、認めがたき動きをなす「時」によって生じる、誕生から始まり死に至る六つの段階は、肉体だけに生じるものであり、真我とは関係していないのです。

 火の中に炎があらわれては消えようと、火そのものは少しも変化しないように、奔流のように過ぎる時の流れは、絶えず生と死を人にもたらしても、真我には影響を及ぼさないのです。

 「太陽」は水分を吸い取っても、その水に少しも執着しないように、ヨーギーは感覚の対象を享受しても、少しもそれらに執着せず、時に相応しくそれらを捨てるのです。
 理解の低い者の目には、反射する媒体(水が入った器など)に太陽が映るや、それはその容器の中にあると見えるように、本質的にはただ一者である真我も、様々な衣(肉体)をまとうや、肉体を自分とみなす者には、それは別々にあると見られるのです。

 人は誰にも過度の愛情を抱くべきではありません。もし過度の愛情を抱くなら、彼はいつかは嘆く羽目になるでしょう。
 人間の身体は、解脱を得ることができる、たぐいまれな恩寵といえるのです。せっかくその身体を得たのに、家庭に執着し続ける愚かな者を、賢者は、一度上った高台から再び落ちた者だとみなすのです。

 ああ、王よ、賢者は、感覚器官による苦楽を追い求めるべきではありません。
 聖者は自分からは何も求めず、自然に手に入った食べ物だけを、その多少に関わらず、おいしくともまずくとも、ただそれだけを口にすべきでしょう。
 食べ物が手に入らないときには、無理にそれを求めようとせずに、食べ物を与えてくださるのは神であると信じて、何日も食事を摂らずに、忍耐強く暮らしていくのです。
 また彼は、健全な身体と心、感覚器官を持っていても、利己的活動をなそうとせず、意識はしっかりと目覚めて神を思うべきでしょう。
 深くて静かな澄み切った海のように、賢者は物静かで、威厳をそなえているでしょう。そして底知れぬ深さを持ち、誰にも支配されずに、時間と空間にも影響を受けず、好き嫌いの感情にも心を乱されません。
 川の水が流れ込もうが流れ込むまいが、海はそれによって満ち足り干上がったりはしないように、賢者は望むものを得ようと得まいと、そのことで喜んだり悲しんだりはせず、心はいつも主ナーラーヤナに帰依しているのです。
 
 主のマーヤーに他ならぬ女性を見るや、感覚器官を制御できない愚かな男性は、彼女の仕草や動きに心を惹かれて、炎の中に落ちていく蛾のように、自分から地獄の暗闇へ落ちていくでしょう。
 主のマーヤーで作られた、金の装飾品や着物、そして女性の身体を見るや、愚かな男性はそれらに心を魅了されて、それらを楽しもうと考え、識別の力を失い、蛾と同じように自滅してしまうのです。

 托鉢修行者は、朝食のために托鉢で集めた食べ物を、決して夕食や翌日のために蓄えるべきではありません。彼の手だけが器であり、腹だけが貯蔵庫であるべきなのです。彼は決してミツバチのように食べ物を蓄えるべきではないのです。もし蓄えるならば、彼はその食物と共に滅んでしまうのです。

 サンニャーシー(出家修行者)は、たとえ像であっても、足でさえ女性には触れるべきではありません。もし触れたなら、彼は雌象に誘惑されて人間に捕まる雄象のように、愛欲の思いに束縛されてしまうでしょう。
 賢者ならば、自分にとっての死そのものである女性を、決して求めるべきではありません。

 けちな者が苦心して集めた財産は、彼自身は少しも楽しまずに、布施をすることもなく、蜂蜜職人に蜜を奪われるミツバチのように、他の人がそれを奪っていき、さらにその者から別の者がそれを奪っていくでしょう。
 家長が楽しみのために苦心して集めた財産は、まずはサンニャーシーに最初に供養するべきでしょう。

 森に住むサンニャーシーは、決して低俗な歌を聴くべきではありません。
 鹿から生まれた聖仙リシュヤリンガは、女性たちの下品な踊りや演奏、歌を楽しんだために、女性の手に操られるおもちゃとなってしまったのです。

 何であれ、それを愛しいと思い、所有したいと思うことが、その人にとって悲しみの原因となるのです。この事実をよく悟り、何をも所有しようと思わぬ者は、永遠に続く幸福を味わうことができるのです。

 私は名誉も不名誉も感じずに、妻や家や子供に対する気遣いもありません。私は内なる真我にのみ喜び、真我の祝福を楽しみながら、幼子のように世界を流浪しているのです。
 ああ、王よ、この世ではただ二種類の人だけが、不安や憂いを持たずに、幸福に満たされて生きるのです。その一人は何の企みも持たぬ無邪気な子供であり、もう一人は三グナを超えて主を悟った者なのです。

 人は安定した座法を保ち、プラーナーヤーマをおこなって、離欲とヨーガを実践しながら、心を一つの対象に集中させるべきなのです。
 かの唯一者に心を集中するなら、カルマの汚れは徐々に除かれていき、サットヴァは強まり、ラジャスとタマスは抑制され、燃料がなくなって火が消えるように、ついには深いニルヴァーナの中に吸収されるのです。
 一心不乱に矢を作る職人は、王の行列がそばを通っても気づかないでしょう。同じように、真我に心を集中させてこの境地に至った聖者は、自分の内と外で何が起ころうとも、それらにとらわれなくなるのです。

 聖者は住まいを持たずに、ただ一人で世界をさまよい、決して油断することなく、心の中の洞窟に身を寄せるべきなのです。
 滅ぶべき定めにある肉体を持つ人間にとって、家を建てることは全く無意味であり、多大な苦しみが伴うのです。

 唯一者であられる主ナーラーヤナは、カルパの終わりに、カーラ(時)というご自身の力を用いて、かつてご自分がマーヤーで創造した物質宇宙を破壊されるのです。
 主ご自身の力である三つのグナが、同じく主の力であるカーラ(時)によって平衡状態に戻ると、その後には、原初の真我(アーディプルシャ)だけが存在するのです。
 そのお方は、解放された魂にとっての最高の目的地であり、ケーヴァラ(絶対存在)と呼ばれているのです。そしてそのお方は、何にも制限を受けることのない、広大な祝福の海であられるのです。
 主はまず最初に、誰の手も借りずに、三グナよりなるマーヤーを刺激して、宇宙の活動原理としての「糸」を創造されたのでした。
 この宇宙はこの糸に貫かれて、魂はこの糸によってこの世に束縛され続けるのです。
 蜘蛛が口から網を吐きだし、それと戯れ、最後にはそれを飲み込むように、主は自らの内から宇宙を創造して、それを維持し、最後にはそれを破壊されるのです。

 魂の目的を叶えることができる、人間というこの素晴らしい身体を、何生もの後でやっと手に入れたなら、賢明な者であるならば、その肉体が滅びるまでに、解脱に向けて懸命に努力すべきなのです。感覚の楽しみなどは、どんな生き物の身体でも味わうことができるのですから。
 私はすべての執着と自己中心的な思いを捨てて、離欲の思いを培い、智慧の火によって真我に自分を確立して、世界を自由にさまよっているのです。』

 ――ダッタートレーヤ

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