yoga school kailas

ウパーヤとプラジュニャー

 ウパーヤとは方便と訳される。これは仏陀や菩薩が、人々のさまざまな性質、長所、欠点、条件に応じて、最適な法を与えていくことを意味します。

 たとえば同じ食物が、ある病人にとっては薬となり、ある病人にとっては毒となるように、教えも条件に応じて与えられなければならないわけです。

 そしてその背景には、慈愛(マイトリー)と慈悲(カルナー)があります。
 本当は全ては空なので、苦しんでいる衆生も本当は苦しんでいないともいえるのですが、とはいえ、その苦しみの幻影の中にいる衆生をほうっておくことができず、仏陀や菩薩は、慈悲によって、ウパーヤの行をなすのです。

 また、個人の修行においても、ウパーヤはプラジュニャー(空を悟る智慧)と対比されます。
 本当は全ては絶対的な空なのですが、現実的にそれを悟れていない自分がここにいるので、この相対的世界の中で、概念的なウパーヤの修行に励むのです。

 たとえば大乗仏教の六つのパーラミターの修行で言えば、最後の智慧のパーラミターが智慧の道であり、最初の布施・戒・忍辱・精進のパーラミターがウパーヤの道であるといえます。禅定のパーラミターはウパーヤの道ともえますが、ウパーヤとプラジュニャーをつなぐものともいえるでしょう。

 どの段階の修行においても、ウパーヤとプラジュニャーのバランスを保つことは大変重要です。

☆修行の初期において
・ウパーヤに偏った場合・・・真理の心髄の微妙な部分を認識できず、教えを観念的にとらえらて過ぎてしまい、失敗する。
・プラジュニャーに偏った場合・・・そもそもウパーヤの行をしっかり行なわなければ、プラジュニャーは認識できない。しかし自分で作り上げたプラジュニャーのイメージに酔うことによって、魔境に陥る。
※しかしどちらかといえば、ウパーヤに偏ったほうがましである。

☆中級の修行者において
・ウパーヤに偏った場合・・・プラジュニャーを悟るにはウパーヤを捨てなければいけないこともあるが、自分が努力して積み上げてきたウパーヤに執着することによって、結局プラジュニャーを悟れず、本末転倒となる(プラジュニャーを得る手段だったはずのウパーヤが、プラジュニャーを得る障害となってしまう)。
・プラジュニャーに偏った場合・・・徐々に現われてきた真のプラジュニャーの片鱗に執着することによって、カルマの法則やこの世の相対的な法則を無視しがちになり、結局は修行が進まず、器も広がらず、低い段階の無色界などに陥ってしまう危険性もある。

☆上級の修行者において
・ウパーヤに偏った場合・・・輪廻に束縛され、智慧を見失う。
・プラジュニャーに偏った場合・・・ニルヴァーナに束縛され、慈悲を見失う。

 よって修行者は、鳥の両翼のように、この二つのバランスを保たないと、至高の領域に飛んでいくことはできないのです。

 バランスを保つといっても、どちらも半分ずつ持つという意味ではありません。どちらも円満に完全を目指すということです。

 ウパーヤとプラジュニャーがそれぞれ完全になり、その二つが合一した状態が、輪廻にもニルヴァーナにも住しない最高の状態(無住処涅槃)です。

 言語学的にはウパーヤは男性形、プラジュニャーは女性形なので、密教ではよく男性のイダムが方便、女性のダーキニーが智慧を象徴し、その両者の合一によって智慧と方便の合一を表現しています。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする