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「すべてを捧げものに」

◎すべてを捧げものに

【本文】
 誰であろうとわたしに信と愛をこめ、一枚の葉、一本の花、一個の果物、あるいは一椀の水を供えるならば、
 わたしはそれを真心のこもった供物として、喜んで受けるであろう。

 君が何をしようと、何を食べようと、何を供養しようと、何を人に与えようと、どんな修行苦行をしようと、
 クンティー妃の息子よ! すべてをわたしへのささげものとするがいい。

 そうすれば君は善悪をもたらすカルマの絆から解放されるだろう。
 また離欲と放棄の心をしっかり持つならば、君は完全な自由を得、わたしのもとへとやってくる。

 はい。これはさっき言った話ですね。このカルマに支配された人生の中で、普通はこのカルマの中で「ああ、これは良かった」「ああ、これはもう苦しい」――こういうふうにわれわれは心を動かし、さらにカルマを積み、もう、がんじがらめになって生きていくような運命があるわけだけど。そのカルマの流れの中にあって、すべての経験をこの絶対者へのささげものとするわけです。
 まだその段階では、カルマから解放されているわけではない。いろいろやらなきゃいけないこともあるし、あるいは現象としていろいろ生じると。でもそのすべての経験、すべての喜び、あるいは喜び以外のものも、すべて供物と考えるんだね。「何をしようと、何を食べようと、何を供養しようと、何を人に与えようと、どんな修行苦行をしようと」ね。あるいはここには書かれていない、あらゆる行為すべてだね。それを至高者へのささげものと考える。そうしたら、カルマの絆から解放されますと。これは最初に言った、カルマ・ヨーガの考え方だね。
 つまりカルマ・ヨーガの考え方っていうのは、「行為の中に非行為を見」という表現が前の方の章であったけども、結局われわれがカルマに束縛される理由というのは、行為の結果に執着し、あるいは行為の結果に心を動かすからなんだと。そういう思想があるんだね。
 成功を喜び、失敗を苦しみ、あるいはこうなったらいいなと願い、こうなって欲しくないなって心配し、あるいは過去のことを振り返って喜んだり苦しんだりしていると。これによってわれわれはどんどんカルマの世界に結びつけれられる。
 そうじゃなくて、カルマによって生じるいろんな出来事を、ただ淡々とこなし――淡々とっていうのは、何も考えないでこなすという意味じゃなくて、ここでも書かれているように、すべてを神へのささげものとしてこなし、そこには何の執着もしない。何の執着もしないっていうのは、喜んだりしちゃいけないっていうんじゃないんだよ。喜んでもいいんだよ、別に。例えば、何かおいしいものを食べる機会があったと。「ああ、おいしいな」と。「おいしい、おいしい、これを供養します」と。これはこれで全く構わない。でも次の日食べられなかったと。「え? ちょっと昨日食べたのに何で食べられないの?」と(笑)。これでカルマに結び付けられます。
 じゃなくて、「今日は食べない日なんですね」と。全く構わないと。「この空腹の状態を供養しましょう」と。こういう感じで、なんでもかんでも供養するんです。一切にとらわれない。喜びがきたらそれはそれでいいし、苦痛がきてもそこで苦しまない。それはそれでこれも喜びですと。
 だからもうちょっと積極的な言い方をすると、「すべてを喜びとする」といってもいいかもしれない。すべてが神の愛によってもたらされたものなんだから、喜びとするんです。すべてに無になるんじゃないんだよ。すべてにただ何も反応せずに、ロボットのように生きるわけではない。逆に、すべてが神の愛なんだから、「こんなものいただいていいんですか」と。「ありがとうございます」と。「供養します」と。で、苦しみがやってきたら、「いや、本当に私は愛されています」と。「ありがとうございます」と。自分の理解の範囲内でいいんだけども、そういうふうに考えて、すべてを喜びとして神に供養して生きると。この人はカルマに支配されません。百パーセントできたらね。
 もちろん実際問題としては、われわれはその真似事から始めなければいけない。今この話を聞いて、百パーセントそれができるわけがない。だから真似事からなんだね。本当は苦しいんだけども、真似事として、「いや、神の愛だ」と――こういうところからはじめる。あるいは、ちょっとはできるかもしれない。ちょっとはそういうふうにできるんだけども、でもすぐ忘れて、また喜んだり苦しんだりの中に入ってしまう。で、また思い出してやり直すと。こういうところから始めるんでいいんだけどね。

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