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アーナンダマイー・マー(1)

 アーナンダマイー・マーは、1896年4月30日、東ベンガルのケーオーリアという小さな村で生まれました。そこは当時もイギリス統治の影響がそれほど強くなく、またイスラム教徒の多い地域でしたが、イスラム教とヒンドゥー教は友好的な関係にありました。その地域のイスラム教徒の多くはヒンドゥー教の低いカーストからの転向者だったので、ヒンドゥー教的な雰囲気を多く残していました。彼らイスラム教徒の中には、ヒンドゥー教のカーリー女神の強い信仰者たちも多くいました。

 アーナンダマイー・マーの父は、ビピン・ビハーリー・バッターチャーリヤという名で、名門のブラーフマナ階級の出身でした。彼の日々の大部分の時間は、宗教的行為に費やされていました。特に彼は、神への賛歌を歌うのが好きでした。また、聖地巡礼などで長期間家を留守にすることもしばしばでした。

 アーナンダマイー・マーの母は、モークサダー・スンダリーという名で、過去に多くの賢者を輩出した家系の出でした。彼女も夫とともに、神への賛歌を歌うことを好み、また自らも賛歌を作り、それはその地域でとても人気の高い賛歌となっていました。

 この二人の最初の子供である女の子がわずか9ヶ月で亡くなり、その三年後に、アーナンダマイー・マーは生まれました。彼女が生まれる直前、母のモークサダー・スンダリーは、神や女神の夢を、頻繁に見たといいます。

 アーナンダマイー・マーの幼名は、ニルマラー・スンダリー(汚れのない美しさ)と名づけられました。

 その後、四人の弟と二人の妹が生まれましたが、父親の収入は少なく、家族は貧しさの中で生きなければなりませんでした。そのため、子供たちは満足に学校教育を受けることができず、ニルマラーは合計で二年足らずしか学校に通うことができませんでした。
 しかしその短い期間においてニルマラーは、学校の教師を感動させたと言います。なぜなら彼女は、あまり勉強時間がないはずなのに、いつも教師の質問にすらすらと答えるということが続いたからでした。ニルマラーが長いこと学校を休み、久しぶりに学校に出てきたときでさえ、ニルマラーが教師のあらゆる質問にすらすらと答えるので、教師は驚いていたのです。
 実はニルマラーは実際に勉強時間は少なかったのですが、偶然に勉強したわずかな部分を教師が質問するということが続いたのです。また、勉強したことがない箇所を質問をされると、学んだことのない単語が頭に浮かび、すらすらと答えるということもよくあったそうです。

 こういう感じだったので、実質的には彼女はほとんど学校教育を受けていないに等しい人でした。後に聖女と尊敬される彼女の鋭い智性は、まるでラーマクリシュナのように、まったく学問によらずに内側から湧き出た純粋な智性なのでした。後に彼女はこう言いました。
『誰かが本当に神だけを望むならば、彼は心で神の本を読むことでしょう。印刷された本に何の用がありましょうか。』

 

 幼いころからニルマラーは大変陽気だったので、周りの人々から、『ハーシ・マー(微笑みの母)』とか『クシール・マー(幸福の母)』などといったあだ名で呼ばれていました。
 正統なヒンドゥー教の家系の出で保守的なニルマラーの母は、ニルマラーがイスラム教徒と交わらないように気をつけ、イスラム教徒に触れた後は沐浴して浄化しなければいけないと考えていましたが、ニルマラーは気にせずにヒンドゥー教徒もイスラム教徒も関係なく楽しく交わっていたので、毎日何度も沐浴させられるはめになっていました。
 また、キリスト教の宣教師たちがケーオーリアー村に来たとき、ニルマラーは彼らを訪ね、彼らの誠実さと信仰心に大いに感動しました。ニルマラーはキリスト教の賛美歌を歌うのも大好きでした。

 ニルマラーは正式な宗教教育は受けませんでしたが、インドの子供たちは通常、周りの大人たちを観察し、日々やるべきことを吸収し、自然にさまざまな儀式などを行なえるようになっていくのです。ニルマラーも小さいときから、父に祈りの詠唱を学び、父の宗教儀式に毎日熱心に参加するようになりました。

 ニルマラーは小さいときから、普通の子供ではないことを示すいくつかの兆候を見せていましたが、両親はその重要性をあまり理解していませんでした。

 たとえばある日、彼女は何気なく母親に尋ねました。

「お母さん、私が生まれたすぐ後に、チャクラヴァルティさんが私たちを訪問しませんでしたか?」

 母は非常に驚きました。ニルマラーが生まれて数日後、チャクラヴァルティという人が実際に家にたずねてきていたのです。もちろん、そのことを誰もニルマラーには教えていないはずでした。それは明らかにニルマラーが、出生のときから鮮明な意識を完全に有していたというひとつの証明です。

 またニルマラーは時々、トランス状態に入りました。
 またあるときは植物と話をしたり、あるいは目に見えない存在と話をしているのが見られました。

 しかし両親はこれらについて過度に驚いたり注目したりはしていませんでした。これらの例は時々見受けられるだけであり、またニルマラーのすばらしい陽気さと愛らしさは、それらの奇行を補って余りあるものだったからです。

 また、ニルマラーの何かに対する信義の心は、本当に注目に値しました。
 たとえばあるとき、ニルマラーの親戚がニルマラーをシヴァ寺院に連れて行ったとき、ある用事のために、ニルマラーに、寺院の前で待っているように言ってそこを去りました。
 しかしその親戚は、ニルマラーのことをすっかり忘れてしまい、数時間以上がたってしまいました。親戚が気づいて寺院に戻ったとき、『ここで待っていなさい』と言って去ったまさしく同じ場所に、ニルマラーがまだじっと座っているのを発見したのでした。

 また幼いころ、こんな事件もありました。ニルマラーには、貪りが強く、激しい性質の祖母がいました。ある日、ニルマラーが4歳か5歳のころ、ニルマラーは祖母のために、凝乳が入ったポットを持ってきました。それは、ポットのふちまでいっぱいに凝乳が満たされていました。貪りの強い祖母は、ニルマラーが、余った凝乳を自分ももらえることを期待して、ふちいっぱいまで凝乳をついで来たのだと思い、非常に腹を立てました。そしてニルマラーを強くしかり、お前には凝乳をやらないと言いました。するとその瞬間、何もしていないのにポットにひびが入り、すべての凝乳がこぼれ落ちてしまったのです。祖母はそれから二度と、その不思議な孫娘に、凝乳を与えないなどと言うことはありませんでした。

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