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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(2)

◎完全菩薩道

 はい。で、今日は、今読んでもらったところの最後の方に出てきた「サマンタバドラの行と願い」って出てくるね。まあこれが今日、最初に読んだものと関係してくることなわけですが。この「サマンタバドラの行と願い」に関しては、実際の実践面の話です。まあここではちょっと名前が出ているだけですけども、これはね、利益があるところなんで、ちょっとだけね、ここだけ突っ込んでいきましょう。
 で、この「サマンタバドラの行と願い」の詞章みたいなものは、これも『華厳経』の詞章ですけども、このサマンタバドラの行願賛っていうところに、バーッて書かれてるね。これもちょっと読んだだけでは分からないかもしれない。分かんないかもしんないけども、でもまあなんとなく分かるよね。
 この「サマンタバドラの行と願い」っていうのは、簡単に言うならば、つまり完全菩薩道です。完全菩薩道っていうのは、さっき言った、例えば「この世には原子の数ほどの仏陀の浄土がありますよ」と。「いや、その原子の数ほどの浄土の、さらにその中の原子にも仏陀の浄土がありますよ」と。それはさっき言ったように、単なる段階ではなくてタイプでもあるんだね、タイプ。例えば皆さんも知ってのように、如来にもいろんな如来がある。あるいはいろんな菩薩がある。それはわれわれの心のいろんな要素やあるいは救済される側のいろんな要素に応じた、さまざまな世界が展開されているわけですね。で、いつも言うように小乗っていうか自分の幸福だけ目指すんだったら、とにかく『ヨーガ・スートラ』でいうような「心の働き止めちゃえばいい」と。心の働き止めちゃえばニルヴァーナに至ると。これでオッケーなんだけど、大乗、菩薩道っていうのはそれでは駄目だと。つまり、みんなを救わなきゃいかんと。で、このみんなを救わなきゃいかんっていうのも、いつも言うように中途半端な智慧や、中途半端なわれわれの力では、当然ただの机上の空論に終わってしまうんですね。じゃあ悟ればいいのかと。もちろん悟れば、悟らなきゃいけないのは最低条件です。で、今言ったように、あらゆるタイプの、あらゆる原子の数ほどの仏陀の浄土の経験をし尽くすと。極め尽くすと。ね。もちろんそれにはものすごい時間がかかる。だからここで「カルパの海を」とかね、あるいはその、「海のようなカルパを経て」とか書いてあるわけだけど。それに対して、なんていうかな、全く躊躇せずに覚悟を決めるっていうかな。
 でもここで書かれているのは、分かると思うけど、ある段階を超えると、われわれは空間と時間から解放されます。ということは、そのものすごい、数字にもできないような、果てのないような時間も、まあ、あってないようなもんである。瞬間にも終わるともいえるし。あるいは空間的にも、今、さっきから言っている、世界の原子ほどの浄土っていうのも一瞬で経験することも可能である。まあだからちょっとこう、ある領域を超えた段階から、われわれのその概念的知性では及ばない世界に入っていくんだけど。でもその及ばないながら、それはそれでオッケーみたいな感じでちょっと話を進めているのが、この大乗仏教とか密教の、あるレベル以上の話になってくるんですね。
 まあそれはいいとして、とにかく、そのあらゆる世界、あらゆる仏陀の境地、あるいはあらゆる仏陀の智慧、あるいはあらゆる仏陀の力。これを――何度も言いますよ――極め尽くす。ね。それを自分の願いとすると。これがまあ簡単に言うとですよ、ここでいうところの「行と願い」ね。
 実際にはその、「具体的にじゃあ日々どうすればいいんですか?」っていうものでよく「サマンタバドラの行」っていうのがいわれるんですね。これはまたあとで勉強しますけども――その前にもう一回ちょっと今のところを言うとね、結局のところね、結局のところっていうか、さっきも言ったけど、仏教経典って膨大にあるんですね。特に大乗仏教の経典って膨大にある。で、これは、経典もそうだしその解説である論書もたくさんあって。で、はっきり言うとこれね、煩瑣、つまりその、無駄に多いです。逆にヒンドゥー教とかの方が結構まとまってたりする。ヒンドゥー教の経典もたくさんあるけども、まあでも結構重要なのはまとまっているんですね。例えば『バカヴァッド・ギーター』なり、あるいは『バーガヴァタム』とか、あるいはいくつかの『ラーマーヤナ』とか、あるいは『ラーマーヤナ』のさまざまなパターンとか、あるいは『マハーバーラタ』とか、いくつか重要経典ってまとまってて。で、そこに、なんていうかな、もちろん何度も言うように、言葉で表わせない真理をいろんな角度から表わそうとするんだけど、でもあまり言い過ぎるのもしょうがないんで、非常にこうコンパクトにまとめているんですね。
 だから仏教経典はちょっと言い過ぎているような感じがするね。わたしからするとね。だからちょっと、例えば今言った『華厳経』からいったってね、もし皆さんが『華厳経』全部読もうとしたら膨大な量です。『法華経』も膨大な量だし、あるいは、もちろん『般若経』っていうのはたくさんあるけども、膨大な量ですよね。その一つ一つの解釈とかあるいは論書とかを読んでたら――まあ実際に昔のインドとかチベットのお坊さん達はそれを一生かけて学んだわけだけどね。つまり学僧っていって、その学問僧たちはそれを学んだわけだけど。まあわれわれにはそんなことをする時間もないし、必要もないと思うね。

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