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「解説『至高のバクティ』」第3回 「バクティ」③(2)

 はい、で、その「カルマヨーガやジュニャーナヨーガやラージャヨーガなどよりも優れている。なぜなら、それらのヨーガの到達点が、バクティそのものだから」と書いてありますが、これにはそうだな――二つぐらいの意味があるかもしれません。
 二つの意味っていうのは、一つはまず――じゃあ例えばジュニャーナヨーガ――ジュニャーナヨーガの到達点というのは、さっき言ったブラフマンの境地、ジュニャーナの悟りというわけですけども、つまりこれは何かというと、前も言ったけど、ブラフマンの悟りっていうのは、「これではない、これではない」――つまり否定の世界なんですね。「これではない、これではない」っていうのは、いわゆる分析によって、哲学的な論理的分析によって、私達が――例えば仏教でいうと四念処とかも入るわけですけども、自分の肉体であるとか、あるいは自分の心であるとか、あるいはわれわれの外界に見る、さまざまな執着してしまうような対象であるとか、あるいは五感で感じられるさまざまなもの――これを論理的に否定していくんですね。「これは実体がない」と。「ここには何の実体もない」と。
 これは例えば、仏教でもそういうのが得意で、そういう例えば空の哲学とかいっぱいあるよね。ナーガールジュナとかも、そういうことばっかりいっぱい書いてますけども。もう本当にそうなんだね。これは別に皆さん、追求する必要はないけども。
 哲学的にこの世のいろんなものを正確に表現しようとすると、何か矛盾が出てくるんです、この世のものは。「あれ?」って感じて(笑)。「あれ? あれ? あれ?……」って感じで矛盾が出てくるんだね。そうだな……例えば「永遠ってあるんだろうか?」と。「それともすべては無常――終わるんだろうか?」と。もちろん仏教的には、分かりやすく「すべては終わる」と言っている。「すべては終わる――何でもそうなんですか? あるいはそれはずーっとそうなんですか?――つまり限定的に十年間はすべて終わるけど、十一年目からはすべて終わらないってならないんですか?」と。「いや、なりません」と。「すべては終わる。これはずっと続きます」と。「じゃあ永遠じゃないか」と(笑)。例えばこれは言葉遊びみたいに聞こえるけども。
 あるいは例えば、よく言っているけどね――「時ってあるんですか?」と。時ってあるんですかっていうのは、「時間であるのだろうか?」と。つまりその「過去と未来と現在ってあるんだろうか?」と。例えば「いや、それはない」と。だって過去というのは過ぎ去ったものであると。未来というのはまだ来ていないものである――その、なんていうか架空のものであると。でもじゃあ「今って何だ?」というものがある。つまり「過去と未来を仮定しない今ってあるんだろうか?」と。つまり、「今」というのは――前もこれは言ったけどね、「過去の終わりと未来の始まりの狭間に、今という現実があるんだろうか?」と。でもこれは哲学的に追求していくとないんだね、実は。そうすると「あれ?」っていうことになる。「あれ? 過去も無くて未来もなくて今もない? あれ、じゃあこれ何?」ってなってくるんだね(笑)。
 こういうことを――今言ったいくつかの例は一つ二つなんだけども――こういうことを徹底的に分析していくと、「あれ? あれ? あれ?」ってなってくるんです。われわれがすごくガチガチに信じているこの世界そのものにほころびが出てくる。それを徹底的にやるんですね。徹底的にやっていくと、最終的にさっき言ったような状態にいく。つまり、「結局この世の――われわれの信じていた目に見えるものも、あるいは概念的に思っていた世界観も含めて――あれ? 全部――それはさっき言った、時間の問題も空間の問題さえも含めて――あれ? 全部実は幻? 存在しなかったの?」みたいな感じになってきて、で、その果てにブラフマンに気付くっていうんだね。これがジュニャーナ。
 で、ちょっと話を戻すけども――そこでジュニャーナヨーガの人達が気付いたブラフマンというのはいったい何なんだ? ということになる。ジュニャーナヨーガの人達が気付いたブラフマンっていうのは、「この宇宙の真髄ですよ」と。それは言葉にするとね、ちょっと無機的な感じを受けるんだね。無機的な感じっていうのは、そのブラフマンに例えば――ブラフマンというのは形もなく、相もなく、そしてもちろん名前もなく――仮にブラフマンという名前が付けられているわけだけど――本質的には何の相もない存在であると。つまり「クリシュナ」とか「シヴァ」とか、「ラーマ」とか「ヴィシュヌ神」とか、ああいう存在じゃないんだね。あらゆる相を超えた存在であると言われている。でもそれはもちろん、バクティで言っているところの至高者と本質は同じなんですね。で、本質は同じであって――さっきここには二つ意味があると言ったのは、一つ目の意味は――もう一回言うよ、このジュニャーナの人が到達するブラフマンと、バクティヨーガで到達する至高者の世界っていうのは、実は同じなんです。同じというのは、このブラフマンの本当の本当の正体をいうと、至高者の世界なんだという発想ね。だから結局ジュニャーナが到達したブラフマンの世界も、実はバクティヨーガが目指している世界と何ら変わらないと。
 これはラージャヨーガも同じで、ラージャヨーガというのは、今度は精神集中のヨーガですね。ラージャヨーガというのは――今、一般にラージャヨーガと言われているものは、いわゆる『ヨーガスートラ』の世界ですね。『ヨーガスートラ』というのは皆さんも知っているように、まずは禁戒、勧戒から入って――つまり戒律をしっかりと守って、日々さまざまな決められた戒行を行ない、そしてそれを土台としてアーサナ――ここでいうアーサナっていうのは、体操じゃありません。このラージャヨーガの八段階ヨーガ、これをアシュターンガヨーガというんですけども、今流行っているアシュターンガヨーガとは全然違います。今流行ってるアシュターンガヨーガはアーサナ中心のヨーガですが、本来のアシュターンガヨーガのアーサナっていうのは、ただの座法のことなんですね。つまり蓮華座とか達人座とか、そのような瞑想に適した座法を安定させましょうと。これにすぎない。だから別にいろんな体操をやる必要はない。
 で、その次の段階でプラーナヤーマ――つまり基本的な呼吸法を行なって――つまり呼吸のコントロールによって心を安定させると。
 次にプラティヤハーラといって、感覚を、あるいはエネルギーの流れを――外側にわれわれは向かっているわけだけども――これを内側にぐっと抑え込んで、制御しなさいと。
 で、ここまでが準備です。ここまでの準備を土台として、いわゆるダーラナー、ディヤーナ、サマーディという三段階に入りますね。このダーラナー、ディヤーナ、サマーディの三段階は、サンヤマというわけですけども、精神集中のただ進化のプロセスに過ぎないんだね。精神集中の深まりね。
 簡単に言うと、ダーラナーはただの集中です。ディヤーナは、これは意識の拡大なんですね。意識の拡大。ここでは何回も言っているけど、わたしの経験で言うと、このダーラナーからディヤーナへの移行っていうのは、多くの人が間違った解説をしています。間違った解説というのは、ある解説においては、これはだたの時間の問題とか言ってる人もいる。人っていうか、そういう解説書とかあるんだね。時間の問題っていうのはつまり、「これくらいの時間集中できたらダーラナー、これくらいの時間集中したらディヤーナ、これくらいの時間集中したらサマーディ」とか書いてある解説書もある。それはもちろん間違いです(笑)。あるいはそうじゃなくて、このダーラナーからディヤーナは意識の拡大と経典に書かれてあるので、それはつまり認識の拡大だってとらえている人がいる。認識の拡大っていうのは、例えばあるものに集中したときに、最初は例えばリンゴだったらリンゴそのものに集中してたのが、そのリンゴの色や、あるいは香りや、あるいはもう果ては原産地とかそういうとこまで分かるようになるんだというふうに言っている人もいる。でもそれも違います。そうじゃなくて、本当に拡大するんです(笑)。これがラージャヨーガの世界だね。
 ラージャヨーガの世界っていうのは、何かそういうような話ではなくて本当に――まあだからラージャヨーガの世界ってね、何回か言っているけども、例えばスポーツマンとかの経験する世界にちょっと似ているんだと思う。つまり超精神集中によって、ちょっと違う世界に入ってしまうというかな。よく言われる、ボールが止まって見えるとか、ボールが巨大化して見えるとか――ああいうちょっと違った世界に意識が入り込んだりするよね。あれにすごく近い。つまり超精神集中によって、世界がちょっと変わってしまうんだね。
 それはまず拡大っていう方向をとります。ブワーッて拡大していくんです。この段階をディヤーナと言ってる。で、その拡大しきった状態、完全に拡大しきった状態をサマーディと言っている。拡大しきったっていうのは、つまりサマーディの別の表現で言うとね、よく主体と客体の合一といわれている。これはまさに、ラージャヨーガのやり方ってのはこれなんです。ラージャヨーガのやり方ってのは、簡単に言いますよ、集中したら、その集中の力によって、さっき言ったスポーツマンとかと同じように、対象が拡大するんだね。これは何度も言っているけど、わたし高校生のときに、このトラータカをよくやってて――画鋲を壁に刺してね、ぐっと見つめるというのをやっていたら、画鋲が拡大するんだね(笑)。ガーッて――何度も言ってるけどさ、宇宙大に拡大するんです。なんで宇宙大って分かるのかっていう問題もあるんだけど、何かよく分からないんだけど、分かるんです。
 自分で焦っちゃうんだね。何が焦るかっていうと、画鋲が拡大するよね? 「やべえ、やべえ!」と思うんです。何がやべえかっていうと、「このままだと宇宙を越えてしまう!」と思うんだね(笑)。なんでそれが分かっているのか分からないんだけど、自分の観念内であるんでしょうね、きっとね。宇宙というなんか自分の壁があって、「超えてしまう!」って思うんだけど、本当に超えちゃうんです(笑)。本当に超えて画鋲が拡大する。で、そのあとに、それが――ちょっと今のは画鋲ですけども、画鋲だったら画鋲が自分を包み込むんです(笑)。包み込んで、こうして主体と客体が一体化するんです。これがサマーディね。これは、ちょっと笑い話じゃないけども、これで入ったサマーディは画鋲サマーディです(笑)。

(一同笑)

 いや、本当なんです(笑)。画鋲に完全に一体化したサマーディ。
 で、『ヨーガスートラ』には、そういうのがいっぱい書いてある。『ヨーガスートラ』を見るとなんか――『ヨーガスートラ』ってさ、古典的なヨーガ経典で、固い言葉ばかり書いてある気もするかもしれないけど、超能力の話がいっぱい書いてありますね。こういう超能力得ますよと。それのやり方が、だいたいこの精神集中なんです。精神集中の場所が違うだけなんです。例えばこのチャクラに超精神集中すると、それでサマーディに入ったらこういう力が身に付きますよ、とかね。例えば神と会話ができますよとか、あるいはすべてのものの本質を知る力を得るとか、体を巨大化できるとか、いろんなのがあるんだね。その力の源は、何度も言うけども、精神集中なんです。何に精神集中するかなんだね。しかし、その精神集中の程度が、計り知れない程度だということです。
 だからこれは、道としては非常にあるわけですけども、そうですね、なかなかこれ一本でもしいこうとしたら、難しいでしょうね。
 ちょっとわたし、自分のことだからあまり言いたくないけども、はっきり言うとわたしが高校生のときに画鋲に集中して画鋲ディヤーナが始まったのは、わたしの素養です(笑)。はっきり言うと(笑)。多分普通の人はできない。多分わたしの中に経験があったんだろうね。それが多分蘇ったに過ぎない。普通の人だと多分そこまで精神集中できません。できないっていうか、鍛えればできるけども。なかなかそれは時間がかかると思うね。だからラージャヨーガ一本でいこうとすると、ちょっと大変というか。大変というか、好きな人ならいいですよ。わたしはラージャヨーガが大好きだと。だからラージャヨーガ一本でもしいこうと思ったら、いろんな教えを守ってね――戒律から始まって守って、ラージャヨーガ一本でいくのもいいかもしれないけど、まあちょっとそれだけだと、効率が悪いって感じがするね。

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