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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(11)

◎念正智

 はい。そして六番目、

「聖典学習を時間を決めてしっかり行なう。師がいる人はときどき師の下へ行き、教えを聞く。」

 ――まあこういう勉強会に参加するとかも含めて、そして勉強会がない日も時間を決めて――忙しい人もね、少しはちゃんと経典学習を行なうと。

 はい。七番、

「日々自分の心と言葉をチェックし、教えとずれないように注意する。同時にそのときに……」

 ――あの、つまりこれはいろいろ書いてありますが、結局何を言いたいかっていうと、念正智のことですね。で、念正智って、いつも言っているように、いろんなパターンの念正智があるわけで。で、それは――まあ言ってみればなんでもいいです。ここで「フィーリングに応じて」って書いてあるけど、念正智っていろいろあるから、これじゃなきゃいけないっていうのはない。で、そのときに出てきた、なんでもいいので念正智すればいい。
 その念正智のパターンがここに書いてある、まず「教えからずれていないかの念正智」。「さあ、わたしは教えじゃない心の働きをやっていないかな?」あるいは「行動とか言葉が教えとずれてないかな?」。逆に言うと、百パーセント――最近アップした「サーダナーの指針の花輪」にもあったけども、一インチもずれないと。一インチっていうのはどれぐらいだっけ(笑)? 三センチぐらいかな? 一ミリでもいい。一ミリでもずれないと。この教えの理想がバシッとはまったところから、一ミリでもずれてはいけない。それくらいの厳しい気持ちで自分を念正智する。

 そして、「すべての衆生への平等なる四無量心がずれていないか念正智する」。これは今の発展形ですけどね。みんなを愛しているか。嫌悪が出ていないか。本当の意味でみんなの幸福を願っているのか。嫉妬が出ていないか。こういったことを日々念正智する。

 「師や神や仏陀への讃嘆」。これは逆に、日々讃嘆し続けるということですね。「ああ、師よ」と。「神よ」と。「仏陀よ」と。「おお、なんと素晴らしんだ!」と。これはバクティヨーガ的な、まあつまり「勝利あれ!」「ジャヤ!」っていう雰囲気だね。だからこれ、歌を歌い続けるでもいいですよ。そういう感じで讃嘆し続ける。

 「あるいは師や神や仏陀を頭頂や心臓に観想する」――これはいわゆるスマラナってやつね。実際にイメージとしてグッと忘れないと。ずーっと、頭でも心臓でもいいんですけど、あるいは目の前でもいいので、ずーっとそのヴィジョン、あるいはその思いっていうかな、それをずーっと持ち続けると。もちろんこれは神の御名を唱えるでもいい。「ラーム、ラーム、ラーム……」「クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ……」「シヴァ、シヴァ……」――こういった感じで忘れないでもいいよ。あるいは「ブッダ、ブッダ……」「グル、グル、グル……」でもかまわない。

 「素晴らしいものや執着の対象を心で供養する」。はい、これは日々目にする――これはなんでもいい。例えば「ああ、今日は晴れていて素晴らしい景色だな」と。この素晴らしさを供養すると。「ああ、気持ちいい空気だなあ」。ああ、供養すると。あるいはさっき言った、おいしい食べ物を供養すると。「ああ、今日は洗濯したきれいな服を着る」と。このきれいな服を供養すると。もうなんでもかまわない。自分が五感で経験した素晴らしいものを供養するということですね。はい。

 そして「教えへの強い欲求」ね。これはさっき言ったことですね。

 「神や仏陀と実際に相まみえたいと強く願う」――これもさっき言ったこと。これを、もうラーマクリシュナのように、さあわたしは本当に、ラーマクリシュナやその他の聖者がそうだったように、本当にありありと神や仏陀を見たいと。
 あの、ラーマクリシュナってもちろんカーリー女神をいつもありありと見てたわけだけど、それだけじゃなくていろんな神を普通に見てるんだね。例えばあるときはラーマとシーターを普通に見て、あるときはクリシュナとラーダーを見て。で、面白いのがさ、前も何かに書いたけど、子供のラーマの話ってあるんだよね。ラーマクリシュナがドッキネッショルにいるときに、別のある聖者が近くにやってきた。その聖者は小さな子供のラーマの像を持っていたわけだけど、それはただの像ではなくて、もう彼にとっては――あのゴーパーラ・マーみたいな感じでね、普通に、子供のラーマが普通に歩き回っていたと。で、いつもその子供のラーマを自分の、つまり自分の主、信仰の対象であると同時に、本当の自分の子供のように愛し、面倒みてたっていうんだね。普通にいろいろ料理も作ってあげて食べさせると。で、それは――何度も言うけど、理解できないかもしれないけど――妄想じゃないんです。本当なんです。
 で、それのさらに面白い話がね、この子供のラーマがラーマクリシュナを気に入っちゃった(笑)。つまりラーマクリシュナとその聖者で共通認識としてのラーマがいたんです。で、その聖者がある時期から、その自分が信仰していた子供のラーマが見当たらないっていうんですね。ラーマクリシュナのもとに行ってみると、ラーマクリシュナのところにいるっていうんだね(笑)。ラーマクリシュナを気に入っちゃって、ラーマクリシュナのところを離れないと。その聖者は叱ってね、「うちはこっちでしょって言ったでしょ!」って、子供のラーマを連れて帰るっていう(笑)。連れて帰るんだけどいつもラーマクリシュナのもとに行ってしまうと。で、ラーマクリシュナも面白いもんで、子供のラーマがいつもそばに来ててね、で、すごい腕白だからたまに怒っちゃうらしいんだね。これもなんか描写があったんだけど、一緒に沐浴してたらしいんだね。で、子供のラーマがふざけてずーっと出てこないと。で、ラーマクリシュナはちょっと――変な話なんだけど、親子の感情みたいな感じでちょっとカッときちゃって、「そんなことをする子はこうだ!」って子供のラーマの顔を水にずーっとつけちゃったらしくて。それでハッとして、「わたしはなんてことをしたんだ! ごめんよ!」ってこう、抱きしめたっていう話があって(笑)。そんだけリアルな世界なんだね。そんだけリアルな世界で――しかも、もう一回言うよ、一人じゃないんですよ。ラーマクリシュナだけの妄想でもないし、一人の聖者の妄想でもなくて、お互いに奪い合っているみたいな感じなんだね。奪い合っているみたいな感じがあって、それがしばらく続いたと。
 そして最終的にその聖者が、ちょっとステージ上がったんですね。さらにステージが上がって、その聖者が涙ながらにラーマクリシュナのところに最後にやってきてね、「わたしは今まで間違っていた」と。つまりわたしの愛する子供のラーマ、彼はあなたを――つまりラーマクリシュナを本当に愛してらっしゃると。彼の喜びはわたしの喜びだと。この子供のラーマがあなたのところに本当にいたいと思って、それで幸せなんだったら、それこそがわたしの喜びなんです、もうわたしにはなんの苦しみもありませんって言って、去って行ったんだね。そのときに、ヴィジョンではなくて子供のラーマの象徴として、実際に動いてたといわれる像があるんですけど、その像をラーマクリシュナのところに置いていったんだね。で、それからラーマクリシュナの回想としてそれがあるんですけど、最後のラーマクリシュナの結びとして、「それ以来、あの子はずっとここにいるんだ」みたいなことが書いてあって(笑)。普通に、なんというかな、神秘的なというか神の世界が日常化しているんだね。ああいう大聖者っていうのはね。
 もう一回言うけども、それを願わなきゃいけない。それは現実に可能なんだと。そこまでの境地に至るのは可能だし、そこまでいって初めてわれわれは神の愛が分かるし、あるいはわたしと神の本当の意味での関係っていうのが確立されるし。
 で、それを、何度も言うように、今そうじゃないことが許せない、と。我慢できないと。そんな、わたしはもちろん今の理想としてね、「ああ神よ、神よ」――これは素晴らしいんだけど、でもそれが、そのようなまだ自分の中途半端なイメージでしかないことが許せない。もっともっとリアルでありたいと。もっともっとわたしはこの現実的な、世俗的な目を捨ててリアルに神を見る目を得たいと。心を得たいと。このような強烈な願望を持たなきゃいけない。これを絶え間なくラーマクリシュナみたいに持つんだね。はい、これが一つ。
 そしてもう一つは、さっきの請願、懇願ね。「師や聖者がこの世に長くお留まりになるようにと強く願う」と。で、もう一回言うけど、これらのいずれか、もしくはさらに派生することでもいいけども、それで心をいっぱいにするっていうことです。逆に言うとそれ以外の世俗的な、あるいはエゴに基づいた感情、思いが一切入らないようにすると。
 皆さん、だから念正智っいうのは、まず第一に自己チェックがあるよね。自己チェックすれば分かると思うけど、自己チェックっていうのはさ、つまり何度も言っているけど、別に――つまり現代的な、最近流行っているね、現代的なテーラワーダ的なやり方で、例えば自分が「歩いている、歩いている」とか「呼吸している」とか、そういう自己チェックではない。ここで言っているのはそうじゃなくて、「自分の心が外れていないかな?」っていうチェックです。自分の心が理想以外のことを考えていないかな? どうでもいいことを考えていないかな? あるいはボーッとしてないなかな?――で、それをやると、ほとんど、九十九パーセントどうでもいいことを考えている。あるいはボーッとしているって分かるでしょ? 皆さん本当にチェックしてみてください。あるいはね、時間決めてチェックしてもいい。――ピピッピピッってやってね、アラームにして、十分後でも三十分後でもいい。「ピピ!」――そのときに考えてたか? だいたい変なこと考えてる。変なことっていうかどうでもいいことね。「さっきの店員の表情!」とかね(笑)。

(一同笑)

 本当にどうでもいいこと考えている。あるいは昔のこととかね。「あんなことやられちゃった」とかね。あるいは妄想であったり。まあ妄想って、神聖な妄想だったらいいんだけど。あの、いつも言うけど神聖な妄想はどんどんしてかまいませんよ。神と自分が遊んでいる妄想とかね。あるいは修行どんどん進めて、こういうふうな菩薩になろうとかね。そういうのは素晴らしい。じゃなくて世俗的な妄想、あるいはどうでもいいようなイメージの展開。
 わたしもね、本当に何度も言っているけど、妄想家だったっていうかイメージ人間だったから、若いころ、もうくだらないこといっぱい考えてたね。本当にどうでもいいこと。「なんでそんなこと考えるの?」みたいな――例えばわたしプロレスが好きだったからさ、「新日本プロレスの歴史」とか考えてたんだね(笑)。新日本プロレスの歴史をずっとたどってんの。「なんのために?」って感じだけど(笑)。でもそれって、人間の性向としてあるんだね。自分の中にあるデータを反芻するっていうか。反芻してなんかこうくだらない時間が過ぎていくっていうかな。昨日見たドラマの反芻であったりとかね。あるいはそこから生じる未来への世俗的なイメージであったりとかね。で、そういうのを許さない。だから逆にいうと、さっきも言ったように神聖であればなんでもいいんです。ここに書いてような神聖なパターンであればなんでもいいから、日々心にそれをイメージし続ける。そうじゃないものの侵入を許さないっていうかな。これが念正智ね。

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