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母なる神(4)

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 お金や富というのも、普遍的な力が目に見える形をとったものであり、本来は神のものである。しかしそれが地上にゆだねられると、他の例に漏れず、低次の自然が陥っている無智を通して、自我のご都合主義のために不法に使用されたり、阿修羅の影響の手に落ちて、悪しき目的に沿うようにゆがんだものにされる危険がある。
 権力、富、セックスは、自我にとって最大の牽引力を持つがために、間違って手にした人にとって、ごく簡単に濫用されてしまう力である。
 単に富を所有する者より、富を追求したり、「保管」したりする者の方が、よりいっそう富にとりつかれていることが多い。
 阿修羅が長いこと握りしめて間違った使い方をしたために、富に刻印されることになってしまったある種のゆがんだ影響を、完全に免れている人はわずかである。だからこそ、修行の道は、ほとんどどんな道であれ、富への完全な自制と無欲を強く説き、富への一切のとらわれの徹底した放棄を強く説き、富を所有することへの利己的な欲望一切の放棄を強く説くのである。
 そのために、お金と富は一切ダメだと言って、貧しい無一文の暮らしこそがただ一つの神聖な状態なのだと宣言する者さえいるが、これは極端な間違った考えである。
 権力を、本来の所有者である神の手に取り戻して、これを聖なる暮らしのために恭しく用いることこそが、サーダカたる者にとっての超精神的な道なのである。
 「富」とは、「母なる神」のために取り出されるべき一つの力であって、彼女にお使いいただくよう供養されるべきものなのだと、ただそのように心得るがよい。

 一切の富は神のものであり、それを手にしている者は、富の所有者ではなく、富を預かっている者に過ぎない。富は今日は彼らの手にあっても、明日になればまた別のところに行ってしまうかもしれない。
 一切は、富が彼らの手に来たときに、その託されたものをどう扱うかにかかっている。つまりは、それを使うときに、どのような精神で、どのような意識を持って、どのような目的のために使用するのかにかかっているのだ。
 お金を個人的に使用するときにも、それによって自分が手に入れたりするものは、すべてが「母なる神」のものだと心得なさい。彼女に何一つ要求することなく、与えられたものを受け入れて、それを、正しい目的のために用いるのだ。神の富の良き預かり手として、どこまでもとらわれなき態度を維持しながら、なおかつ細部に至るまでどこまでも厳正なる態度を貫くように。自分が扱っているのは、自分のものではなく、彼女のものなのだということを、片時も忘れないように。何一つ、自分のものとしたり、彼女の意思に反する目的のために用いたりすることが、あってはならない。

 偏りのない平等の精神、無欲、持つものや手に入れたもの一切を捧げてやまない献身、母なる神のためならばどんなものでも力の限り手に入れて見せるのだという心意気。――これらは、あなたが二つの悪しき極端に染まっていないことの、何よりの印である。

 このように、理想的なサーダカは、神から「貧しい暮らしをせよ」と命令されれば、貧しく暮らしながらも何の不満も覚えず、貧しい暮らしが神的意識の内なる豊かな働きの障害になることはない。
 また逆に彼は、神から「豊かな暮らしをせよ」と命令されれば、豊かに暮らしながらも、富や所有物への欲望や執着に駆られたり、我を忘れた放縦に陥ったり、贅沢な習慣の奴隷に陥ったりすることは、一瞬たりともない。
 彼にとっては、神の聖なる意思こそがすべてであり、神の聖なる至福こそがすべてであるからだ。

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