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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(1)

20120530
解説 スートラ・サムッチャヤ 第13回

◎如来の真実

 はい、今日は『スートラ・サムッチャヤ』の続きですね。まあこれもだいぶもう終わりの方なので、かなり、なんというかな、究極的な話になってくるところですね。

 はい、じゃあ読んでいきましょう。

【本文】

◎如来の真実

 ガンダヴューハ・スートラには、こう説かれている。

「法界行願分位を宣説(せんぜつ)するという菩薩が、如来の叡智の曼荼羅の光の世界という仏国土から、無尽のブッダの種子を説くためにやってきて、世尊釈迦牟尼の御前に、菩薩の威徳身相をあらわした。
 すなわち、一切の相好(そうごう)から、一切の毛穴から、すべての手足から、すべての言葉やすべての衣から、すべての菩薩の一族、世尊ヴァイローチャナ、悠久の過去世からのすべての世尊、限りなき未来の世尊、授記を得た世尊や授記を得ない世尊、現在の十方の仏国土に住まう威徳あるすべての世尊が、また布施のパーラミターを具足した菩薩が、海のごとき広大な行を施し、一切の施物の映像や相好が、毛穴から、全身から、手足から、言葉から、すべての衣からあらわれる。
 また昔一切の戒のパーラミターを具足した菩薩は、海のごとき行を施し、あらわれ、教示する。
 また昔一切の忍辱のパーラミターを具足した菩薩は、すべての身体から、海のごとき行を順にことごとく教示する。
 また一切の精進のパーラミターを具足した菩薩は、海のごとき行を施し、降伏し、威徳相をあまねく示す。
 また昔、海の如く広大な如来の禅定を求めて修習した菩薩が現われて教示する。
 昔、法輪を転ずる事をよく成就する法を求め、一切の財産を捨てた一切の如来は、海のごとき広大な大威力身をあらわして教示する。
 一切の如来は目に見える形で喜び、一切の菩薩道に赴き、安楽に回向する海のごとき行を施した如来が現われて教示する。
 昔、一切の菩薩の海のごとき誓願のパーラミターを成就し、最初の門を具足し、海のごとき行を施した菩薩が現われ教示する。
 一切の菩薩の力のパーラミターを成就し、征服し、清浄を具足し、海のごとき広大な行を施した菩薩が現われ教示する。
 広大な法界に一切の神通の雲を遍満し、すべての菩薩の叡智の曼荼羅を具足し、以前に海のごとき広大な行を施した菩薩が現われ教示する。
 サハー世界に一族とともに降臨したかの世尊は、如来を頂礼し、親近した。荘厳された楼閣に、ヴァジュラの獅子座に座し、サファイヤの蓮華蔵を化作し、すべての最高の宝石が光を放ち、あたりをすべて荘厳する。法王の名を三度呼び、如来の相好をあらわし、花輪をかけ、宝飾を身につけた菩薩の体を施し、座った。
 彼ら一切の菩薩は一族を伴い、すべての菩薩にサマンタバドラの行と願いを生じさせ、如来の御足に敬礼した。清浄な叡智の眼を持った一切の如来の法輪と経典の言葉の海に耳を傾け通達し、一切の菩薩の自在を得て、最高のパーラミターを摂取した。」

 はい。この『スートラ・サムッチャヤ』は、前から言っているように、『入菩提行論』のシャーンティデーヴァが、いろんな経典を引用するというかたちで、菩薩道の、まあ言ってみれば一から十までをコンパクトにまとめたものなんですね。
 で、これまでの内容を見ていれば分かるように、非常に、なんていうかな、現実的で――『入菩提行論』もそうですけど、現実的で分かりやすい、いろんなその、われわれが学んで日々行なうべきプロセスが分かりやすくこうまとめられたわけですね。
 だからシャーンティデーヴァの著作って、やっぱりそういう意味で素晴らしいんですね。仏教書ってなんかわけ分かんないのが多いなって皆さん思うかもしれないけど、シャーンティデーヴァの書いたものっていうのは非常に実践向きっていうか――そういうところがある。
 はい。でも一番最後のこの「如来の真実」っていう章にくると、まあかなりわけ分かんなくなってくる。つまり如来の真実だからです(笑)。つまり如来の真実は当然わけが分からない。うん。わけ分かっちゃおかしいっていうかね。それだと如来でないからね。うん。
 ここで『ガンダヴューハ・スートラ』って出てきましたが、この『ガンダヴューハ・スートラ』っていうのは、まあ一般に言われる『華厳経』のまあ一部ですね。『華厳経』っていうのはいろんなものの集まりなので、その一部として『ガンダヴューハ・スートラ』ってのがある。
 『華厳経』っていうのは、そうですね、大乗仏教の歴史からいうと、まず『般若経』――『般若心経』じゃなく――まあ『般若心経』じゃないっていうか『般若心経』も含めた『般若経』っていう経典群が膨大にあるんですね。『般若心経』ってその中の一番短いやつで、実際にはもっと膨大な『般若経』っていうのがたくさんある。つまりその、まあ簡単に言えば「一切は空である」っていうことを、いろんな角度から説き明かした経典ですね。で、これが大乗仏教の根本的な経典で、そこから『法華経』であるとか、その他のさまざまな経典に、なんていうかな、進化していったっていうか。で、そのある程度の進化の先に出てきたのがこの『華厳経』です。
 この『華厳経』っていうのは内容的には、例えばのちの密教にもつながるし、それから、まあ読んで皆さんも思ったかもしれないけど、ヒンドゥー教の、特にバクティヨーガとかとも非常に近い。例えばこの今読んだところも『バカヴァッド・ギーター』の、例えばクリシュナが自分の相をアルジュナに現わすところと似てるよね。あるいはさっき読んだ「サマンタバドラの行願の詞」もそうですけども。「一つ一つの毛穴から多くの仏陀や菩薩を出す」とか、あるいは一つの塵の頂きに――ここでいう塵っていうのは、目に見えない本当に小さな塵がこの空間にたくさんあるように、つまり超たくさんってことです。超たくさんの塵みたいのがあると。で、その一つ一つに、さらにその世界の塵くらいの仏陀方がいらっしゃり、とか。そういうちょっと超越的な世界観っていうかな――が説かれている。
 で、これは、なんというかな、あまり実際は突っ込む必要はない。突っ込む必要はないっていうのは、なんとなくフィーリングで「ああ、そういう、なんというか、人知を超えた世界があるんだな」ぐらいでかまわない。
 あのね、この『般若経』にしろ、あるいはこの『華厳経』の世界観にしろ、そうですね、なんて言ったらいいかな、ちょっとある言い方をすると、前方的な、つまり前進的な意味での道しるべにはなりません。ただし、後方的な道しるべにはなる。
 何を言いたいかっていうと、われわれが『般若経』や『華厳経』をいくら読んだって、「なるほど!」と思って進むことはできません。なぜかというと、わけ分からないというか、人智では当然理解できない世界を描写しているだけだから。当然人智ではそれを道しるべにできないんですね。うん。「言っていることは全く分かりません」っていう世界になる。で、そこで勘違いして分かったようなふりをすると、当然道を間違えます。だから日本人っていうか日本では、特に最近とか『般若心経』とか流行ってて、その解説本がいっぱい、もうコーナーができるぐらい本屋にあるけども、読まない方がいいです(笑)。一切読まない方がいいと思う。逆に道を間違うね。
 で、後方的には道しるべになるって言ってるのはどういう意味かっていうと、例えばある種の瞑想経験、ある種の智慧の経験、ある種のサマーディの経験をしたあとに『般若経』とか『華厳経』を読むと「あ、これね」っていうのが分かるんだね。つまりそれで確認ができるんです。「あ、あの経験をこう言っているのか」と。「なるほど。……ということはこれはここに位置するんだな」とかね。その経験者が確認するためには使える。だからまあ実際には、例えばもっと分かりやすい、まあ『入菩提行論』をはじめとした実践的な修行にわれわれは励み、で、ちょっとそういう超越的な瞑想経験、超越的なサマーディ経験、智慧の経験の確定っていうかな、確認として使うならいいんですけどね。
 でも、もう一回言うけども、修行しない者もしくはまだその段階に達していない者が、あまり、なんというかな、知識的にそういうのを読み過ぎて、ちょっとこう確定させてしまうと、逆に邪魔になります。観念になっちゃうからね。逆にその、それが表わしている本当の世界が立ち現われにくくなってしまうというかな。
 だからこの話もあんまり突っ込まないけどね。突っ込まないけども、確かにそういう世界があるって考えてください。ここに書かれているような――というより、そういう世界があるっていうよりは、われわれの目がちょっと澄んでくるとそう見えてくると言ってもいい。
 あの、つまりね、これ『般若経』の世界、それからこの『華厳経』の世界、これはね、まあもちろん同じ実相を表わしてる。同じ実相を表わしているけども、実際には、わたしの経験でもいうと、この『華厳経』の世界の方が当然深いんだね。深いっていうのは――つまりもう一回まとめるとね、皆さんがある段階に瞑想経験やあるいは智慧の経験が進むと、『般若経』の世界――つまり『般若経』の世界に入るっていうよりは、この世界が『般若経』の世界に見えてきます。『般若経』で言っているような、つまり「一切は空である」と。そして「色即是空、空即是色である」っていうようなことを実体験――まあ実体験というよりは、そう見えてきます、実際にね。あるレベルでは。
 で、それがさらに進むと、この『華厳経』で表わされるような、あるいは『バカヴァッド・ギーター』その他のヒンドゥー系で表わされるような経験が始まります。あるいは、もうちょっと簡単な言い方をすると、よく密教で言われる「この世は神の曼荼羅である」って経験ですね。この「神の曼荼羅である」っていうのは、「はい、Y君、神ですね。Sさんも神ですね。はい、ここは神の宮殿ですね」っていう大ざっぱな話でもいいんだけど、そうじゃなくて今言ったような、塵の中にも――あるいは塵っていうのはさ、昔はまだ自然科学が発達していないから塵なんですけども、例えば原子でもかまわない。原子の一粒一粒の中に仏陀の浄土があり、さらにその浄土のさらに奥にも――この表現っていうのは、つまり、浄土があるとしたら――塵の中に浄土があるとするよ。原子の中に浄土があるとしたら、つまり浄土としての空間があるわけですよね。その浄土のさらに原子。ね(笑)。ここにも仏陀の世界が詰まっている、みたいな感じでこの世界はできあがっているんだという、その実相だね。
 いつも言うように、真理というのは見方の実相の段階がある。実相の段階というのは、全部同じことを指しているんだけど、その意識が深く入るに従って見え方がちょっと変わってくるんだね。
 何度も言っているように、例えばコップを別の観点から見れば、原子の集まりとも見えるし、あるいはガラス細工ともいえるし、あるいは空性であるという見方もできる。全部真実であることは真実なんだね。だからそれをその瞑想経験を進めることによって、段階的に世界の見方が変わってくる。
 だから例えばヨーガ経典、あるいは仏教経典で世界の実相をいう場合に、まあいろんな違う言い方をしているわけですね。それは当然段階だと考えてください。あるいは、そうですね、段階ともいえるし、そのある種のフォームの世界っていうかな。つまり、その人がやってきた修行やその人がやってきた経験値に従って現われる、世界観の違いって考えたらいいね。
 で、まあ何度も言うけども、まあ経験しなきゃ意味がない世界だね、こういう世界はね。
 はい。で、まあだからここはあんまり突っ込みませんけども、このような広大な、壮大なね、世界の経験が現われるし、実際にわれわれが到達する世界、あるいはわれわれが目指している、あるいは帰依している如来、バガヴァーンの境地っていうのは、そういうちょっと人智を超えたものなんだっていうことですね。

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