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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(4)

◎慈悲の実践

 はい。次に第二の実践項目は、今度は慈悲ね。慈悲の悲だね。つまり哀れみ、カルナーっていうやつですね。この哀れみ、慈悲っていうのは、今度は逆に相手の苦しみに焦点を当て――つまりその前提には今言った慈愛が前提にあるわけですけども。みんな本当に幸福になってほしいっていうまず大前提があって。で、教えに基づいて、あるいは智慧の目で、あるいは慈愛の目でみんなを見ると、幸福になってほしいのに実際にはみんな相当苦しんでいると。
 その背景には――もう一回言うけども、ヨーガ的に言うならば、みんな本当は真我であると。あるいは仏教的に言うならば、みんな仏性、仏陀の種をみんな持っているんだと。この大前提があって、それなのにみんなこんな世界で苦しんでいると。表面的に楽しそうに見えてもね。表面的になんか「出世しました」とか、「今日おいしい店見つけた」とかやってたとしても、そうじゃないだろうと(笑)。おまえ真我でしょと。おまえ本当は如来だろと。本当は如来なのに――つまり、じゃあ本当は如来の人がね、なんでですよ、変な話になるとね、本当は如来の人がなんで、例えば横浜でおいしいケーキ見つけたぐらいで喜べるの?――つまりそんだけ今苦しいからなんです。つまり如来の本質が忘れ去られ、今相当な苦界に落とされている。もう放っておいたら苦しくてたまらない。だから、本当は如来の永遠なる無限なる至福が自分の中に眠っているはずなのに、そうじゃなくて、例えば「ケーキ見つけた」とか、あるいは「出世した」とか、あるいは、まあそういう概念的な喜びね。「誰々さんに褒められた」とか。それでもう心が満足しちゃうくらいに――つまりいつも言うその、皮膚病をかいたような喜びですね。皮膚病なんだけど、それをかいて「ああ、気持ちいい」と。「わたしは満足だ」って言っているような話で、そのような欲望の喜びで満足して、自分の本性を分かっていない衆生がたくさんいると。あるいはもちろんそのような、つまり皮膚病をかく喜びすら得られない人もいる。本当に苦しい苦しいと言っている人もたくさんいると。あるいはもちろん目を広げれば、われわれの認識できない地獄や餓鬼や、その他のいろんな苦しい世界もあると。これを見ると、猛烈な哀れみがわくわけですね。
 つまりその、なんとかしてあげたいと。なんとかその――まあもちろん自分もまだいろいろけがれはあるけども、でも自分のできる範囲で救いたいと。で、ここでいう救うって、もう一回言うけども、実質的なことです。実質的なっていうのは、ただ、「ああ、哀れだな、哀れだな」じゃ駄目なわけだね。実際にこう手を持って救ってあげなきゃいけない。で、それには、何度も言うように、「今のおれには力がない」と。あと智慧もない。どうすればいいかも分かんないし、あるいはそのパワーもないと。よってそれを動機としてめちゃくちゃ修行すると。
 このあいだの勉強会でも言ったように、もし本当にね、例えばよく聞くわけだけど、「いやあ、わたしの家族が、いやあ、わたしの友達が、本当に苦しんでいる」と。救ってあげたいんだけど、あるいは修行とか教えてあげたいんだけど、全然聞く耳持たないと。――本当に救いたいんだったら、その人の分まで修行する気持ちで修行すりゃあいい。例えば十人救いたい人がいるんだったら、自分の決めてるっていうか、今の覚悟の十倍の覚悟で修行するとかね。十倍の気持ちで修行すると。
 この間もちょっと言ったけど、例えば今、一日三時間くらい修行する人がいたとしてね。「十倍修行する!」と。三十時間くらい必要になるよね。一日二十四時間しかないけど三十時間必要になる。でもそれは、さっき言った話がちょっと生きてくるわけだけど、つまりわれわれはある境地を超えると、時間も空間も関係なくなります。つまり一日三十時間できるようになります。まあもちろんそれは時間そのものが、なんていうかな、実際には概念に過ぎないからなんだね。実際にはその三十時間という言葉で表わされることを、二十四時間以内にやるのは当然可能になってくる。
 まあちょっとそれはいいとして、とにかく何十倍も修行するんだと。この気持ちが必要になってくる。それによって自分の浄化に励まなくちゃいけないし、で、実際的にそのような智慧と力を身に付けていかなきゃいけない。
 そしてそれに沿ってね――沿ってっていうのは、自分の今のできる範囲で、当然みんなを救わなくちゃいけないよね。救うってもちろんいろんな段階がある。例えばある段階においては、まあまずは話を聞いてあげるだけかもしれない。ある苦しんでいる人に対してね。あるいは修行とかを勧められるんだったら勧めてあげると。あるいはそうじゃなくて、皆さんみたいに修行してて、その後輩がいる場合ね。まだこういったヨーガとか仏教の修行の道に入ったばかりであると。で、まだいろいろ弱い部分があると。そういう場合は、例えば励ましてあげると。さあ、頑張りましょうと。あるいは、より高度なっていうかな、本質的な実践に導いてあげると。自分がかつて先輩に導かれたように、しっかりと導いてあげると。だからいろんな自分の今いるその位置において、自分のできる範囲でこう触手を伸ばし、なんていうかな、段階的に引き上げてあげると。これを皆さんの大いなる課題にしなきゃいけないね。
 で、それと車の両輪のように、お互いに進むものとして、当然、自分の修行があると。何度も言うように、自分の修行が進まないと、ただの机上の空論になってしまう。みんなを救うとか言ってもね。だから自分の修行を進める。そして、その今のステージ内でできるだけのことを周りにやってあげると。この実践ね。これが慈悲の実践、つまり哀れみの実践なんだね。
 だからもう一回言うけども、哀れみとか慈悲っていうのは単純に心で「ああ、かわいそうだな」「哀れだな」ではないわけですね。実際にもし相手のことを本当に思ってて、で、自分の中にそのような慈悲の思いがわいたとしたら、実際に救わなきゃいけない。で、何度も繰り返すけども、救う力ないんだったら身に付ければいい。それを動機として、人一倍頑張ればいい。そして自分の縁とある衆生に自分のできるだけのことをしてあげると。はい、これがまあ慈悲の実践ですね。
 だからこの「結局四無量心だよ」って言ったのは、慈愛があって慈悲がある――この段階で、もう結局それを実践しようとしたら自分の修行進めるしかなくなってくるから。うん。だから結局「四無量心」になるんだね。
 だからその「サマンタバドラの行」とも関係してくるけども、それは終わりなき修行になります。さっき言ったように、あらゆる仏陀の境地を極め尽くすくらいでないと、自分が望んでいる、すべての衆生を完全に救うことはできないから。だから結局その願いをもし持つとしたら、自分も完成しなきゃいけないし。それによって完全救済を願うっていうかな、ねらわなきゃいけないわけですね。

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