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「愛著と嫌悪」

◎愛著と嫌悪

【本文】
『スカーヌシャイー ラーガハ

快楽にとらわれることを、愛著という。』

『ドゥフカーヌシャイー ドヴェーシャハ

苦しみにとらわれることを、嫌悪という。』

 これは素晴らしいシンプルな定義だね。「快楽にとらわれることを、愛著という。」「苦しみにとらわれることを、嫌悪という。」
 これは分かるよね?
 これもまさに十二縁起をちゃんと理解してると、素晴らしい、「あ、まさに仏教だ」と思う。つまり十二縁起では――ちょっとあまり詳しくは説明しないけど、パッパッと言うと、まず無明があって行があり、識が――ちょっと簡単に言うと、無明だから行、つまり経験の残存印象みたいなものにとらわれて、識、つまり固定的な識別的なものの見方が完成し、名色、六処……まあ名色、六処っていうのは、われわれのエゴみたいなのが完成して――ここでいうと我想みたいなものが完成して、その我想と対象が完全に分けられて、それが触、触っていうのは接触します。つまり経験が始まります。経験が始まることによってわれわれはそこで、苦しみやあるいは喜びを味わうわけですね。
 はい、次が問題で、その喜びを味わったときにそれに完全にとらわれてしまう。「もっとその喜びを得たいんだ」と。「いや、この喜びを失いたくないんだ」と。これを愛著といってるんだね。
 逆に苦しみがきたときにそれにとらわれる。とらわれるっていうのは、「もう二度とこんなのは嫌なんだ」と。あるいは「今味わってる苦しみから早く離れたいんだ」と。これを嫌悪といってるんだね。
 で、これがわれわれは、無始の過去からっていうわけだけど、ものすごい数え切れないほど輪廻の中でいろんな喜びを味わって、いろんな苦しみを味わって、その中でもう傾向ができてるんです。「こういうのは嫌だ」と。もうとらわれちゃってる。そのいろんな苦しみに対して。  で、いろんな喜びに対して逆にとらわれちゃってるから、それをわれわれは生まれたときからその要素として持ってる。
 で、この人生の中でも同じ。この人生の中でもいろんな喜びを経験してとらわれて、いろんな苦しみを経験してとらわれてるから、心の中に執着と嫌悪っていうのが根付いてるんだね。だから過去にいい思いをして、「これはいいんだ」って思ったものに対してはものすごい執着があるし、過去に悪い思いをして、「こんなのは嫌だー」って思ったものに対してものすごい嫌悪の感情がある。それは気付かない部分と気付く部分があると思うけどね。
 例えば輪廻を通して丸顔の人にいじめられた人がいたとします。そうするとその人は今生、丸顔の人を嫌悪します。「私、丸顔の人が生理的に苦手なんです」と。ね。そう言ったりするわけだけど、それはもう完全に過去の経験なんだね。
 好きなものもそうだよ。例えば「私はスポーツが大好きなんだ」と。それは小さいころにスポーツは素晴らしいっていう経験をいっぱいしたのかもしれない。あるいは過去世でいっぱいスポーツをしてたのかもしれない。そういった経験の喜びに対して、「それは素晴らしい」ととらわれてしまうと。これを執着とか愛著とかいってるんだよと。で、苦しみに対してとらわれることを嫌悪といってるんだよと。
 ということは一番いいのは、カルマ・ヨーガだね。これもいつも言うように。つまり成功や失敗にとらわれない。あるいは喜びや苦しみにとらわれない。とらわれないっていうのは、その瞬間はいいよ。その瞬間、例えば「あ、これ楽しいね」と。「あ、おいしいね」と。あるいは「ああ、これはちょっと辛かったね」と。これはいいんだけど、そこでスパッと切るんです。もう後は関係ない。これができたら無明に陥りません。
 だから無明っていうのは、また別の言い方をすると、経験にとらわれる意識状態といってもいい。どういうことかっていうと、これもね、よく出す例えですが、例えばKさんがちょっと冷たかったとしましょう。一回冷たくされたと。二回冷たくされたと。三回冷たくされたと。四回目に今度はKさんは――その冷たかったっていうのはいろいろ事情があって、今度はすごく優しくなってて、自分にすごく利益を与えようとしていてくれたかもしれない。でも三回の経験があるからKさんを嫌いってなってしまって、Kさんが冷たい女だって断定してしまう。それによってもうKさんに会わないかもしれない。会っても偏見によって避けるかもしれない。それによってKさんの本質を見失うわけだね。意味分かるよね?
 執着の場合もあるよ。これはよくある情のパターンだね。例えばある好きな女性がいたとして、その女性は例えばその会社に大きな迷惑をかけてるかもしれない。しかしあまりにその女性に執着してる――まあそれは過去のいろんな女性とのセックスや、あるいは愛情のやりとりによって、もう女性の良い部分しか見えなくなってる。これによって本当はこの女性がいろんなまわりの人に悪影響及ぼしてて、まわりから「いや、あの女性はもう外した方がいい」っていうのがあったとしても、執着によって見えないから正しくない判断をしてしまう。
 現実的な話をしても、そういういろんな執着による、ものがありのままに見れない状態、あるいは嫌悪によるものが見えない状態がたくさんあるわけだね。で、われわれの人生はすべてこれでできあがってると。つまりわれわれが――いつも言うけども、この部屋を見ただけでもね、ここに十人いれば十人違うふうに見えてます。これはすべて過去の経験を土台として見てるだけなんだね。仏陀は違いますよ。仏陀はもう完全に悟ってるから、経験関係なしなんです。ただありのままにパッと見る。それができるかどうかなんだね。それは無明か無明じゃないかっていう。
 でも普通はここに書いてあるように、喜びにとらわれて執着するか。苦しみにとらわれて嫌悪するか。それに覆われて無明というベースっていうかな、が、どんどん堅固たるものになっていくんだね。

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