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解説「自己の明け渡しのヨーガ」(6)

 「主にすべてを明け渡したら、たとえ何か障害が起きても、不平を言ったり、思い悩んだり、苛立ってはならない。『ああ主よ、あなたには見る目がなく、慈悲もない』などと、不満を訴えてはならない。もしあなたが不満を訴えれば、そのあなたの明け渡しは何の意味も持たない。」

 はい。これも分かりますよね。つまり明け渡してるわけだから。繰り返すけど、一切の打算やギブアンドテイクがあっちゃいけないわけだから。例えば明け渡しましたとか言って、それからいろんな障害や不幸が起きたときに、ちょっと心が不満、つまり、「なんで、明け渡したのに!」ってなるとしたら、それ自体が間違ってるっていうことですね。
 そもそもさっきから言ってるように、自分がどうなるかも含めて全部明け渡してるわけだから。ただわれわれの中には、もちろんそういう、なんていうかな、打算性ってあると思うんだね。それは、繰り返すけど、聖なる高度な打算とも言えるから、全面的に悪くはないんだけど、でも最終的にはそれも捨てなきゃいけない。
 つまり何を言ってるかっていうと、直感的に多分皆さん、わかってると思うんです。直観的っていうのは、そうじゃなきゃこういう教えが理解できない。何言ってるかっていうと、明け渡しすればわれわれは幸せになる。これは正しいんです。それを多分皆さん直感的には分かってる。明け渡せば幸せになるんだなと。でも分かってないのは、何が幸せなのか、あるいは何が幸せへの道なのかをわれわれは分かってないから。明け渡せば幸せになるのは正しいんだけど、でもそれは、その幸せの意味は、明け渡せば、われわれが考えてるような、エゴが満足するようなことが起きるわけじゃないよね。逆にエゴを壊さなきゃいけないから(笑)。ほんとの幸せのためにはね。だからエゴを壊すためのいろんなことが起きるかもしれない。あるいは過去のカルマを浄化するためのいろんなことが起きるかもしれない。まさにギリシュはそうでしたよね。明け渡しました。そしたら、ね、奥さんとか、最愛の息子とか娘とかバンバン死んでいったんだね。うん。でもそれはギリシュは完全にラーマクリシュナの愛を信じてたから、すべてが、ラーマクリシュナがわたしのほんとの幸せのためにやってくださったっていうことを信じきっていたと。その態度が取れればいいんですけど、じゃなくて「明け渡したのになんでこんな不幸なことが起きるんですか!」となるとしたら、そもそも明け渡してないだろうと。
 ただ、こういう問題をさ、いろんな物語見てると、一般的に、よくそういうシーン出てくるんだね。神に文句言ったりとか。それだけ人間の知性というかな、あるいは信仰心っていうか、そういったものは些末であり、不純であるってことなんでしょうね。それでは何も動かないっていうか。だから覚悟を決めて――まあ覚悟を決めてっていうよりも明け渡しのほんとの意味をちゃんと理解して、で、明け渡しなさいと。で、ほんとの意味で明け渡したならば、当たり前ですけど、何が起きようが、ギリシュ――まさにわれわれににとってはギリシュが一つのこの道の見本となってるわけだけど、ギリシュのように、幸せなことが起きようが、不孝なことが起きようが、全部完璧な神の采配であるという確信が持てる。しかしそうでないと、自分の観念で、これはいいこと、これは悪いことっていうのをずっと持ってると、神に文句、あるいは不満が出てきてしまうかもしれない。しかしそれはもう、もうその時点っていうよりもそのような発想が出る時点で、明け渡しの心境になってないわけですから、駄目だっていうことですね。

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