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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第四回(5)

 はい。で、あの……ただですよ、ここの読み方っていうのはさ、二つの面でやっぱり読まないといけないと思うんだね。二つの面っていうのは、まず「われわれが菩薩に対してどうするか?」っていうのが一つですよね。つまり、それは今言ったように自分が「ああ、この人は菩薩である」と、「聖者である」と思ってる人に関しては、今言ったように気を付けて、決して悪しき思いを一瞬も抱かないと。ね。そして、悪しき、もちろん行ないも絶対にしないと。悪しきことも言わないと。これは一つありますよね。
 で、そうじゃなくて一般的に、さっきから言ってるように、どこに菩薩がいるか分かんないから。だから、一般的にもわれわれは口は慎んだ方がいいし、悪い思いは抱かない方がいい。
 だから、われわれが思う、抱く思いっていうのは、四無量心。これだけでいいわけですね。四無量心以外の思いっていうのは、他人に対してね、四無量心以外っていうのは基本的にいらないと。ね。つまり四無量心っていうのは、もし不幸そうな人がいたとしたら、「ああ、幸福になってほしいな」と思えばいい。もし苦しんでる人がいたら、「ああ、苦しみから解放されてほしいな」って思えばいい。もし、そうじゃなくて、素晴らしい人を見たら称賛する。「ああ、本当に素晴らしいな」と。で、よく分かんない場合とか、あるいは逆に自分に対して害を与える人とかがいた場合は、無頓着に心を止めて、何も心を動かさないと。
 相手の幸福を願う。
 相手が苦しみから解放されることを願う。
 相手の素晴らしさを称賛すると。
 そして自分の苦楽や、あるいはよく分かんない場合等に関しては、心を止めると。
 この四つのみで生きるのがいいね、一般に関してはね。

 はい、そしてもう一つの側面っていうのが、今度は皆さんがね、皆さんは――まあ、おそらくここにいる人たちは菩薩道を歩きたいと思ってるでしょう。菩薩道――あのさ、菩薩の定義っていうのは結局、菩提心を持ったらもう菩薩なんです。だから、「わたしは菩薩の道を行くぞ」って志を持ったら、もう菩薩なんだね、その段階で。まあもちろん、菩薩一年生だけど。一年生であるが、菩薩とは言えるわけですね。だから、ここにいる人たちも、まあまだいろんなけがれはあるでしょうが、「わたしは一生懸命修行してね、来世も再来世も何度も生まれ変わって、仏陀の道具として衆生のために働きます」と。「そのためにわたしは修行したいんです」って思ってる人は、菩薩に入るんです。しかし菩薩は、なんていうかな――例えば、その場合自分の中に「わたしは菩薩である」っていうアイデンティティを持つことは素晴らしいことなんだけど、自分のことに関してはこういうことを考えちゃ駄目ですよ。つまりその、「おれは菩薩なんだから、おれに悪口を言うやつは地獄行くんだぞ」とかね、こんなこと思っちゃ駄目だよ。これは逆に、菩薩自身の心がけがれることになる。だから菩薩は自分の問題に関しては徹底的に謙虚になってください。
 その辺はね、そうですね、まさに『心の訓練』っていう本をここから出してるけども。あれをしっかり読んで、あの通りに生きると。だから菩薩は自分に関しては徹底的に謙虚になり、一切それに対して心を動かさないと。何をされてもいらだたないと。逆に、「ああ、私の修行を進めてくれてありがとうございます」と感謝すると。それくらいの気持ちの方がいいね。
 だからその――これはさ、よく修行者も引っかかる罠なんだけど、自分がね、例えば絡んでくると、つまりエゴっていうのが絡んでくると、ちょっとやっぱり物事をありのままに見れなくなる。例えばその、これ『入菩提行論』にもそういう一節があるけどさ、例えばその、他人がね、他人に悪をなすことには大らかに許すと。それが自分に向けられたときには許せないと。ね(笑)。こういうそのエゴの働きがあるわけですね。誰かが誰かに対してちょっと悪口言ってるっていうときは、言われた人に対してね、「いや、そんな深く考えるな」と。ね。「彼もカルマによってそういうことを言っちゃったに過ぎない」と。「君もそういうカルマがあるからだ」と。「だから、ありがたくそれを感謝しなさい」と。で、その人がこっちに言ってきたら、「なんだ、このやろう!」と(笑)。ね。「おれは菩薩なんだ」って(笑)。これは悲惨だよね、それはね。それははっきり言うと情けない。ね。逆に自分に言われたことこそ、より大目に見てあげるぐらいの方がいいね。他人に言われたことよりも大目に見てあげる。
 例えば、AさんがBさんに対してね、すごくひどいことをやってたとして。もちろんBさんに対しては「さあ、あなた菩薩なんだから、そこで心を動かさずにありがたいと受け取りなさい」と。で、Aさんがやってることに関してはまあ――例えばそれはケースバイケースだけども、ある段階までは「まあ、しょうがないかな」と。「まだそういうその悪い状態から抜け出せないから、しょうがないかもしれない」と。「でもこれくらいは言ってあげた方がいいかな」というのがあるわけですよね。つまり、あるラインがあるわけですよね。ここまではまあしょうがないけど、でもこれ以上になったらちょっとこれはちゃんと言ってあげないと、この人のためにもならない」とかラインがあるよね。で、それが自分に向けられたときは、そのラインを思いっきり下げてください。ね。あの、完全にゼロにする必要はないよ。ゼロにする必要はないっていうのは、自分に言ってきたことに関しても、でもやっぱり言ってあげた方がいいときもあるから。自分に対して「ちょっとあなた、わたしはどうでもいいけど、ちょっとそれやめた方がいいよ」っていうのあるからね、実際ね。でも、そのラインを相当下げてください。ね。まあ相当下げるっていうのも、ケースバイケースだからさ、ここまでとか今言葉で言えないんだけどね。でも一応例として言うと、「馬鹿」とか「のろま」とかいっぱい言われてもニコニコしてて、手ではたかれても、トンカチで殴られてもニコニコしてて、でもさすがに包丁で刺してきたら、「ちょっとそれはやめた方がいいんじゃない?」と(笑)。

(一同笑)

「ちょっとそれは悪業過ぎるよ」と。「ちょっと、あなたのことを思ってさすがに言うけど」と。「包丁はまずいよ」と。これは例ですよ。実際に皆さんに包丁でリミットをつけろって言ってるんじゃないよ(笑)。一応例だけど。つまりそれくらいリミットを下げろっていうことです。ね。
 お釈迦様の例えでも――何回も言ってるけどさ、素晴らしいたとえで「のこぎりのたとえ」ってあるよね。これはとても好きなんだけど。まあ、これはちょっと長いんで端折るけども。「修行者達よ」と弟子達に言うわけですね。「弟子達よ」と。「君達は、たとえ無智な者がやってきて君達を罵倒したとしても、決して怒ってはいけない」と。ね。あるいはその人達が――ちょっと端折るけどね、「あなたを殴ってきたとしても決して怒ってはいけない」と。あるいは、「あなたを実際に例えば石とかで殴って傷つけたとしても怒ってはいけない」と。云々……って、だんだんこう、グレードアップしてくわけだね(笑)。グレードアップして、最後に、「見知らぬ人が、あなたが全く何も悪いことをしてないのにやってきて、ガッて腕をつかまれて、腕をのこぎりで切り落とされたとしても、怒ってはいけない」と。で、「それをいつも考えなさい」と。これはどういう意味なのかっていうと、つまりそれを考えること――つまり、のこぎりで手を……自分がなんの罪もないのにのこぎりで切られても、怒らずにニコニコしてなさいっていうんだから、たかだか誰かがやってきて「馬鹿」って言ったくらいじゃ全く関係ないね(笑)。つまりもう基準値がすごい高いから。ね。見知らぬ人にのこぎりで腕を切られてもニコニコしてなきゃいけないんだから、それから見るともう大抵のことはどうでもいいっていうか。大抵のことは、ニコニコと許せることになっちゃうんだね。だからその、「のこぎりのことを普段から考えてなさい」と。つまり、わたしは、おれはね、「なんの罪もないのにのこぎりでいきなり誰かに腕を切り落とされたとしても怒らないぞ」って常に考えてたら、大抵のことは怒らない。ね。これはお釈迦様の素晴らしいのこぎりの例えですね。
 だから菩薩っていうのは、そういう気持ちでいなきゃいけない。ね。自分のことに関しては――だから、はっきり言うと、もう一回繰り返すけどね、修行者として情けないんです。修行者として、自分がなんかやられてそれを批判するっていうか、それはもう情けない。他人がやってるときに批判する。これは、そうですね、まあケースバイケースです。つまりその、阿修羅的な批判心によって批判することはあんまりよくないからね。でも批判っていうよりも、批判自体はもちろんよくないんだけど、注意をしてあげるとかね、ケースバイケースで、相手のためになんかを言ってあげるのはいいかもしれない。でも自分がやられたときに関しては、黙っとけと(笑)。ね。そんなものは完全にエゴであると。そういう感じがいいね。
 だから、それはもう一回言うけども、『心の訓練』とかに代表される、ああいう教えをしっかり学んでね。あれは『心の訓練』の素晴らしいところっていうのはさ、すごい具体的に書いてあるんだね。いろんなケースでね。こういうときにこういうことをしてはいけない。例えば、まあ例をあげると、あなたがね――これは『三十七の菩薩の道』とかにも書いてあるけど――あなたが本当に親身になって尽くした相手が全く恩を知らずにね、自分に悪をやってきたとか、あるいは「なんでもっとやってくれないんだ」っていう恩知らずなことを言ってきたとしても、相手の幸せを願わなきゃいけないとかね。そういういろんなその、この世でわれわれがちょっとつまづきそうな、心が動きそうになるようなケースがいっぱいあげられてる。で、そこでもう、「相手の幸せを願うだけで、自分の心は動かしてはいけない」というのが説かれてるんだね。だから、『心の訓練』とかをしっかり読んで、その通りに生きると。それによって――もう一回繰り返すけども、われわれが他人に対してやることで気をつけなきゃいけないんだけど、「わたしは菩薩である」と。で、その菩薩であるわたしに誰かがやってきたことに関しては、もう無頓着に謙虚に受け止めなきゃいけない。
 で、もう一歩進んだことを言うならば、そうしないとですよ――そうしないとっていうか、逆にそうすることによって、相手にも素晴らしい恩恵を与えることになります。つまりどういうことかっていうと、自分が例えば苦難を受けた、自分に対して誰かが悪いことをやってきたと。で、菩薩は、もう一回言うけど、何をやらなきゃいけないのかっていうと、感謝しなきゃいけない。ね。つまり、あなたがわたしのことをいじめてくれたおかげで――これはいろんなまあ考え方があるけど、例えば、ね、「わたしのカルマが落ちました」でもいいし、あるいは「わたしは最近ちょっとこう自惚れていた」と。で、「あなたが批判してくれたおかげで」――その批判の内容が正しいかどうかはどうでもいいんです。「結果的にそれによってわたしの心がちょっと引き締まった」と。だから、「あなたは恩人です」と。そういう形で、すべてを感謝に変えるんだね。そうすると、相手はそのつもりじゃなかったんだけど、菩薩が感謝したことによって、で、実際に菩薩が修行を進めれば――だからこれは前も言ったけど、前に、そうだな、エッセイ集のなんかに書いたけども、相手の害をこちらの意志力によって恩恵に変えてしまうんです。ね。そうすると、相手は害をなしたつもりだったんだけど、恩恵をなしたことになっちゃうんだね。意味分かる(笑)? つまりその、相手は全く修行を進めようっていう気持ちなんかなくて――当たり前だけどね――ただ、悪心をもって菩薩に――例えばわたしが菩薩だとしてね、菩薩にすごいひどい言葉を浴びせてきたと。で、こっちはちょっと最初は心が動くかもしれない。「うわー、傷つけられた。なんでこの人こんなこと言うのかな?」って思うんだけど、頑張って、「いや、おれが今ここで落ち込んじゃったら、こいつの悪業は半端ない」と。ね(笑)。「よって、おれが頑張るしかない」と。「なんとかこれを修行に結び付けるぞ」と。こう暗い気持ちから立ち直って、「いや、感謝します」と。「このおかげでわたしの修行は進みます」と。なんとかそのダメージを、自分の進歩に結びつけるんだね。もしそれがなされたならば、動機は悪いことだったけど、結果としてはその人は善っていうかな、菩薩の修行を進めたっていう形が残るんだね。つまりその菩薩の修行を進めたっていう徳が相手に返るんです。
 あれ?――となると、さっきの話と矛盾するかもしれない。つまり、菩薩に対して悪いことをするとそれは倍加して返るって言ってたけど、「でも菩薩っていうのはそういうすべてを感謝するから、それは徳になるんじゃないですか?」と。そうなんです。つまりこれは何を言いたいのかっていうと、最後は救われるんです。
 最後は救われるっていうのは、これはちょっといつも言ってるね、クリシュナの救済計画において悪者の役割をしたカンサ王とかもそうだけど。あるいは、そうですね……何回かね、この勉強会で言ってるけども、本当の菩薩っていうのは、あるいは仏陀っていうのは、悪縁さえも――つまり、自分を害する者でさえも、その縁を使って救済してしまうんだね、逆にね。
 しかしですよ、「それでいいのか?」って問題がある。それでいいのかっていうのは、ちょっとリアルに言いますよ。「じゃあ、この人どうなんだ?」っていう話があるよね。例えば菩薩に害をなした。でも、菩薩がそれによって修行が進んだ。この場合何が起きるかっていうと、まずこの人は地獄に落ちます。まあひどい害だったらね。で、おそらくかなり苦しみます。例えば、もう数字にできないくらい、一兆の一兆倍の一兆倍の一兆倍の一兆倍……くらい地獄で苦しんで、やっとのことで人間に生まれ変わってきたときに、その自分が傷つけた菩薩と巡り合えます。で、修行もさせてもらって、解脱します。で、ここでね、もし偉大な勇者、もしくは非常に無智な人がいたらこう考えるかもしれない。「やった! じゃあ、いいじゃん」と。ね(笑)。「最後、解脱するんだからいいんじゃん」って考えるかもしんないけど、それは大変無智なんです。なんでかっていうと、その、なんていうかな……今言った、一兆の一兆倍の一兆倍の一兆倍……の地獄っていうのは、もう耐えがたい苦しみだからね。っていうか、一日地獄に落ちたってそれは苦しいから、当たり前だけどね(笑)。つまり、それを経験する必要はないわけです、もともと。最後は救われるから、もちろんそれは素晴らしいんだけど。わざわざそんな地獄なんて経験する必要はないから。ね。皆さんは地獄どころか――まあ、これも経典にある言葉だけど、ね、例えば、小指一本切り落とされただけで、もう世界が終わったように苦しむくせに、ね(笑)、地獄が耐えられるのか?っていう問題があるんだね。われわれは小指一個落とされただけで、もしくはもっと極端に言うと、例えば目玉一つくり抜かれただけで、もう悲惨ですよね。「もう生きてらんない」と。もう想像しただけで嫌でしょ? ね。「はい、じゃあちょっと生きたまま……はい、じゃあTくん、右目取るよ」「うわっ、が……うわー、想像しただけで嫌だ」って感じでしょ(笑)? でもね、そんなもんじゃない。そんなもんじゃない、ものすごい恐怖と実際の肉体的苦痛に満ちた世界に落ちなきゃいけない。そんな道はたどる必要ないんだね。
 だから菩薩と縁ができたら当然まあ、自分がね、その人を菩薩だとか聖者だと認識してるんだったら――まあ、もちろんその人を師だと思うんだったら師として仕えなきゃいけないし、あるいはその、師ではないけども尊敬すべきと思ったら、いろんなね、供養をしたりとか、あるいは礼拝したりとかしなきゃいけないし。つまり、そういう意味でいい縁を作ることによって、その強い絆によってスムーズに救われればいいだけでしょ。だからそんな、なんていうか、「悪いことやっても結局最後は救われるから、別に悪いことやってもいいんだ」っていうのは成り立たないんだね。その途中の苦しみが半端ないからね。
 はい。だからもう一回言うけども、自分のことに関しては謙虚になってください。で、他人のことに関しては、もう一回言うけども、決して、相手が誰であれ批判をしないと。あるいは、余計なことは言わないと。そして、本当に聖者だと思ってる人に関しては、特にそれは気をつけなきゃいけないっていうことですね。
 ちょっと前にも出たけどね、もう一つ言うと、聞くことも駄目です。聞くことも駄目ってどういうことかっていうと、これはまあ、皆さんが聖者だって思ってる人だけでいいよ。あるいは師匠とかね。自分の師匠とか、あるいはこの人素晴らしい聖者だって思ってる人の悪口を聞くのも駄目です。それも自分のカルマに悪影響を与えるからね。だから例えばネットももちろん駄目ですよ。例えばそうですね、例をあげると――まあ仮にね、例えば皆さんの誰かが、例えばダライ・ラマ法王のことを尊敬してね、素晴らしいと思ってたとして。でも、誰かが批判してたとするよ。「ダライ・ラマなんてこうでこうで……」。ちょっとわたしも言うとちょっとあれだから(笑)、

(一同笑)

 悪業になるから言わないけど(笑)。「こうでこうでこうで……」って書いてたとして、それを見て、「ああ、こんなこと言ってる」「またこんなこと言ってる。この人は無智だな」って思うかもしれないけど、それを見ただけでも駄目なんです。見ただけでも悪業になります。悪業っていうのは、さっき言った意味での悪業ね。つまり、自分の心にけがれが生じるから。それによって自分の心が、ベクトルがちょっと聖なるものから外れてしまう。だからそれも気をつけなきゃいけないですね。
 もちろん、なんていうかな……ちょっと見てしまったとか、偶然ね。それはしょうがないけども、積極的にはそういうものっていうのは見たり聞いたりもしない方がいいね。
 だからそういう例えば、そういう聖者とかの悪口を言う人がいたら、その人には近づかない。そういう友達がいたとしても近づかないと。まあもちろん、その人を引っ張りあげようとかね、自分がそれを説得しようっていうときは別だけどね。そうじゃないときっていうのは、もう決して近づかないのがいい。

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