yoga school kailas

「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第六回(6)

【本文】

⑤法を説くとき、法を聞く者たちに大悲を持たないことは、魔事である。

 はい。これもそのままね。一つ一つ長くやると時間が長くなるんで簡単にいくけども、法を説くときに、大悲、大いなる哀れみね、哀れみの心、つまり、「みんな本当に苦しみから救われて欲しいな」と、その気持ちがなく、ただ何も考えないでぼーっといたり、あるいは慢心でぼーっといたりすることがあるとすれば、それは魔の働きですよ、ということですね。
 はい、じゃあ次いきましょう。

【本文】

⑥戒を破る者たちに対して憤慨することは、魔事である。

 はい。これも読んだとおりですが、戒を破る、つまりその、戒律を破ってる――もちろん一般の人は戒律も何もないから別にいいんだけど、同じ修行者仲間で、戒律を破っている者を見てね、憤慨する、怒ってはいけないということですね。つまりそれはなんていうかな、阿修羅的な考えであって、その批判であるとか――もちろん哀れみをもたなければいけない、もしくは励まし合わなければいけないんだけど、憤慨する必要はないんだね。自分がやればいいことであって。
 まず自分のことを正すと。自分を律すると。これが大事であると。で、仲間に関しては、他の修行者に関しては、もちろん手助けできるんだったら励ましてあげると。でもそうじゃない場合は、そこで憤慨してもしょうがないわけですね。
 でもこれは阿修羅的な心がある人は、憤慨していることがいいことだというふうにこう思ってしまうんだね。「あいつはあんなことをやっている」と。「ひどい奴だ」と。「なんであいつはあんなふうに戒を破ってばっかりいるんだ」と。これは、実は自分では自分が優れていて、このように批判するのが当たり前だっていうふうに考えているけども、実はそこに魔の働きが働いている。それによって逆に菩薩が落ちていく。
 これはあの『三十七の菩薩の道』とかにも書いてあるけどね、菩薩が他の菩薩の批判をするならば、その菩薩が落ちてしまうと。
 あるいは前も言ったけど、仏典でも面白いことが書かれているね。天界から落ちるパターンね。天界から落ちるパターンで、ある神がね、神の世界っていうのは、高い神の世界っていうのは、いわゆる男女の区別もなく、男女の区別もないから、当然、性的なセックスとかもないわけですね。で、低い神になってくると男女の区別が生じる。男女の区別が生じるけど、セックス的なものはやらない。でも一番低い神になると、やはり性的行為をするんだね。人間みたいに、低い神っていうのはセックスをすると。で、神の世界でセックスとかすると、すぐ批判されるんだね。「お前たちけがれてる」と。「何やってんだ」と(笑)。「何やってんの」と、ちょっとこう不浄だと見られる。「そんな動物みたいなことするな」って批判されるんだね。で、ここで、もちろん神なのにセックスに耽った人たちもちょっと悪業なんだけど、それを批判した人たちも悪業になるんです。で、その批判した神が天にいられなくなって落っこって阿修羅になったっていう話があるんだね。その神たちはもちろん自分たちは戒を破ってないんだよ。戒を破ってないんだけども、戒を破った神の仲間を批判したことによって天から落っこったんです。つまりこれだけ、意味のない批判というのは、それが教えに基づいた批判であっても駄目なんだね。
 もう一回言うけども、それが相手のためになるんだったらオッケーですよ。そこで厳しく言うことによって相手が立ち直るとか、相手が生き方を改めるんだったらそれはオッケー。じゃなくて、自己の優越性や優位性や、あるいは慢心とか、あるいはそこに隠れている嫌悪とかプライドとかによってね、何か間違ったことをした人を、あるいは戒律を破った人を批判するっていうかな。これは絶対駄目なんですね。はい、これは一つのベースの話として聞いてください。
 でも、もう一方の話があります。もう一方の話っていうのは、ちょっと今の話と全然違う話になりますけどね、全然違うっていうか矛盾する話になりますが、「批判オーケー」という考え方もあります。この批判オーケーの考えっていうのは、ちょっと考え方がちょっと違うんだけど、どういうことかっていうと、つまりその批判の心、もっと強烈な言い方をすれば、侮蔑の心、さげすみの心によって、自分を守るっていう考えがあります。これはだからより自分がまだまだこう駄目な場合にね、実はこういうやり方があるんだね。
 これはもうちょっとリアルに言うと、誰かがちょっと間違ったことをしたりとかね、あるいは戒を破ったりしたのを見た場合に、もう徹底的に軽蔑すると。あるいは批判する。相手に言う必要はないんだけど、心の中でね、「絶対、ああはなりたくない」と。「うわあ、おれは嫌だあれは」と。「うわあ、あんなのは絶対駄目なんだ」と。「あいつのようには絶対ならない」と。そのようなことによって、結果的に自分を守るっていうことです。これはね、ありなんです。ただこれはまあ、初歩的な段階ですけどね。これはだから自分が煩悩に弱いとか、自分がちょっと戒律に弱いとかね、自分がちょっと間違いを犯しやすい人の場合は、こういうやり方もまあ実際は肯定される。っていうのは、これによって実際自分が正しくなれればいいわけだから。でもこれはまあなんていうかな、例外だと考えてください。例外というか、その種の方向性でいきたい場合にはそういうやり方もあるということだね。でも一般的には、相手がもし教えに反していたとしても、戒に反していたとしても、それを批判したりとか、あるいは軽蔑の心を持ったりするっていうのは正しくないということですね。
 はい、じゃあ次にいきしょう。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする