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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第六回(7)

【本文】

⑦小乗の教えを説き、大乗の教えを説こうとしないことは、魔事である。

 はい、まあこれもそのままですね。つまり小乗の教え、つまり「周りは関係ないんで、はい、輪廻を超えて解脱をしましょう」という教えと、それから大乗の菩薩道の教えがあると。もちろん、これは何度も言うけど菩薩のための経典なんで、菩薩っていうのは当然自分も菩薩道を歩いてるわけだけども――その段階でね、その状態において、人々に菩薩道を説かないと。ただ単純な解脱の教えや、カルマや輪廻の教えだけを説く状態じゃ、それは魔事だということですね。
 はい、じゃあ次もいきましょう。

【本文】

⑧深い意味を持つ教えを隠して、どうでもよい平凡なことを伝えることは、魔事である。

 はい、これもね、実際にはケースバイケースですね。というのは、相手のその段階があるので。しかしまあ、ある程度相手がそれを聞く準備ができているのに、深い本当に相手の魂に真に利益のある深い教えを説かずに、どうでもいいことを説くと。それはもちろん駄目だということだね。
 はい、じゃあ次いきましょう。

【本文】

⑨菩薩道を知っているのに六つのパーラミターを実践しようとしないことは、魔事である。

 はい、これも読んだとおりですけどね。菩薩道を知らないならしょうがないわけだけど、菩薩道は学んでいると。ね。ある程度教えとかも勉強していると。で、六つのパーラミター、つまり、六波羅蜜といわれることも知っていると。この六波羅蜜っていうのは、菩薩の修行っていろいろあるわけだけど、その中心的にくるのはこの六波羅蜜――六つのパーラミターね、布施、持戒、忍辱、精進、そして禅定、智慧っていう修行だね。で、これによって菩薩になっていくわけだけど。で、その知識として知っているのにそれを実践しない、つまり修行しない状況があるとしたら、それは当たり前だけどね、魔事っていうか、魔事以前の問題ですけどね。魔によって妨害されているんだって考えたらいいということですね。
 はい、じゃあ次。

【本文】

⑩精進しない者に無関心でいることは、魔事である。

 はい、これもケースバイケースですが、周りに――だから相手のそれだけのその可能性がある場合ね、うん。だって言ってみればみんな精進してないわけだから、周り見たら(笑)。周り見たら全然修行してない。で、だから修行仲間であるとか、あるいは修行の素養がある人ね、もしくはその修行してある程度経っている人。しかし精進していないと、つまり頑張っていないと、努力していないと、できるのにやっていないと。こういう人がいたら当然、励ましてあげなきゃいけないわけだけど。それに対してちょっと無関心であると。全然励ましの言葉をかけないと。何も気にしないと。こういう状況があるとしたら、それは魔事だっていうことですね。
 はい、じゃあ次。

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