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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(3)

 そしてその羊車行の菩薩の特徴みたいなの書いてあるわけだけど、これもだから逆にいうと「こうなってはいけないですよ」っていう部分ね。
 はい、「菩提心を起こしたとしても、大乗に従わず、経典を読まず、実践せず、理の如く思惟せず、小乗の修行者に近づいて、小乗の経典を読み、観察し、すべてを成就したつもりになる」云々と。
 はい、ここでまず大事なのは「菩提心を起こしたとしても」っていう部分ね。これどういうことかっていうと、修行の段階的にね、ここでいう小乗っていうのは人々の救済とか考えずに、とにかくわたしが、わたしだけがニルヴァーナに入りたいっていう修行ですね。で、これは段階的にはあってもいいんです。どういうことかっていうと、まずスタートはね、まず最悪は「おれは欲望さえあればいい」と。「解脱なんかどうでもいい」と。「解脱って何それ?」と。ね。ねえ、人を苦しめたってそんなことは関係ないし、おれはおれの欲望を追及すればそれで楽しいんだ――これは最悪な状態ですね。じゃなくてここから徳が積まれてくると、だんだんカルマの法則とかがなんとなく理解できてきて、あるいは人に対する慈愛とかが出てきて、「ああ、わたしは人のために生きたいな」っていう気持ちが出てくる。あるいは、「徳を積みたいな」「いや、悪業っていうのはちょっと苦しみの因だから悪業積みたくないな」と。「でも、まだ解脱まではあんまりよく分かんないな」と。これが善なる人々の状態ですね。で、ここからよりその魂が研ぎ澄まされてくると、解脱を願うようになるんだね。でもまだ大乗的なところまでいってない場合は、まずは個人の解脱だけを願うようになると。で、この段階の人っていうのは、別にもちろん小乗的なそういった経典を読んだり修行したりしても全くかまわないわけですね。
 じゃなくて、縁があって大乗の道に入りましたと。で、菩提心の素晴らしさを知って、菩提心を実際に起こしましたと。つまりどういうことかっていうと、わたしは人々を救いたいと。そのためにわたしは修行したいっていうそのような偉大な心を起こしたにもかかわらず、その言葉だけでね、実際には大乗の教え――つまりこの経典のような菩薩行の教えを学ばないと。学ばないし、修行しないし、実践もしないと。ね。で、菩薩とか言っときながらそういった個人的なニルヴァーナの経典ばっかり読んでると。で、その教えばっかり説いてると。これはだから、ちょっとポイントがずれてるっていうことですね。
 だから、まあこの辺はちょっと、もうちょっと突っ込むならば、大乗の道に入った以上――さっきも言ったように、菩薩として成長しなきゃいけないために、多くの――まあこういうこと言うとみんな怖くなるかもしれないけど、小乗の道よりも多くの試練がやってきます。それはなぜかっていうと、皆さんのスケールをもっと大きくしなきゃいけないからね。ニルヴァーナに入るだけだったらもっと小さな試練で良かったかもしれないけど、菩薩になんなきゃいけないっていうときは大いなる試練がやってくる。でもここに、この羊車行の菩薩のように、口では、あるいは最初の勢いはいいんだけども、全く菩薩道について学んでいない場合、当然さっきから言ってたような、菩薩として自分をスケールアップしなきゃいけないんだっていうこととかね、あるいは、菩薩として他者の苦しみも自分の苦しみとして受けなきゃいけないんだっていうこととか、そういったことを全然学んでないから、単純にその苦しみがやってきたらすべてがヘナヘナヘナって崩れてしまうと。これがここで書いてあることですね。
 はい。で、「彼は覚醒からますます離れ、智慧は鈍くなり、無上の覚醒からかえって退くことになる」と。「また智慧の眼も鈍くなり、破壊される」と。「このような人を、羊車行の菩薩という」と。はい。じゃあ次行きましょうね。

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