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菩薩の道(5)その2「四念処と念正智」

 さて、禅定の話の導入としての念の話の続きです。

 正しいサマーディの前段階の正念、正しい念とは、前述の仏法僧への念だけではありません。
 普通はここには四念処が来ますね。四念処とは、人間存在と、それからこの世界そのものに対する正確な観察ですね。
 そしてこれが、私が説明したかった、第一段階での観察の瞑想です。
 つまり自分の身体、感覚、心、そしてこの世界そのものの実相を、観察するわけです。

 身体に対しては、まず医学的観察をします。
 つまり、この肉体は皮膚があって、肉があって、骨があって、ここに内蔵があって、云々と、そういう観察を繰り返すわけですね。そしてここからどういう結論に行くかというのもいろいろあります。
 たとえばその第一は「不浄」ということを見ますね。つまりこの身体の中には汚物が詰まっていると。糞尿が詰まっているし、その他、汚いといわれている、粘液とか、げろとか、痰とか、汗とか、そういうのが全部この肉体から出てくるじゃないかと。まあこういう観察を行なうことで、自分の肉体へのとらわれを断つと共に、異性の肉体へのとらわれも断つわけですね。たとえば、お前の愛するあの異性は、正確に観察すれば、糞尿を詰め込んだ肉の袋じゃないかと(笑)。どうしてそんな汚いものを抱きしめたいと思うんだ、とかね(笑)。ちょっと過激に聞こえるかもしれませんが(笑)、そういうような観察と思索を行なうわけですね。
 あるいは、この身体というのは、無常であって、苦の塊であると。どんどん老いていくし、すぐに病にかかるし、そしてね、なんていうかな、ちょっと傷ついただけで、痛いと(笑)。ねえ、大変だと(笑)。そして最後は死ぬと。
 あるいはね、その、肉体の正確な医学的分析を続けていくと、この身体というものが、単一の存在ではないということに気づくわけですね。つまりその芯にはまず骨があるわけですが、この骨というのは多くのバラバラになった骨が、関節ではめ込まれている。そしてそこに腱が結び付けられ、筋肉が張り巡らされている。そして神経が張り巡らされ、内臓が配置され、脂肪と皮で覆われている。これらのね、どこからどこまでが「私」なんだろうかと。たとえば腕を切り落とされたら、その切り落とされた腕は「私」なのか?
 もっといえば、この身体は無数の原子の集まりに過ぎないわけだから、これもまた単一ではないわけですね。しかも新陳代謝があるから、ちょっと前まで「私」と認識していたその細胞を構成していた原子が、今は別の物質や他人の身体を構成する原子になっているかもしれない(笑)。
 まあこういったいろんな観察を繰り返すわけですね。これによって自然に、身体に対する執着から離れ、身体こそが自分の本質であるという誤った見解から離れるわけです。あるいは、身体の不浄性を追求することで、自分のみならず異性の肉体への愛着からも離れるわけです。

 次に感覚については、人間は喜びの感覚ばかりに眼が行きがちだけど、その裏側には苦しみの感覚というのがセットであるんだということですね。これは前にも書きましたが、極端な意味で、その感覚の苦楽を考えると、絶対、感覚の世界をとらないと思うんですね(笑)。つまり美女とのセックスと、生きながら体中を八つ裂きにされたり、眼をくりぬかれたり、焼かれたり。この両者を対比した場合、そういう肉体的苦しみを補ってあまりあるほど、美女とのセックスはいいものだろうかと(笑)。
 まあもっというならば、苦であるということだけじゃなくて、この感覚がもたらす認識の世界の幻影性も追求しなければいけませんね。まあこれについては、長くなるので、みなさんで考えてみてください。

 そして次が心についての観察です。これも皆さんでやってみるといいと思います。まあ、心というのも実体はない。情報の集まりに過ぎない。情報の集まりに過ぎないから、無常である。コロコロと移り変わるわけですね。「これが私だ」と思っているこの心、自分の性格も、経験によって形作られた実体のないデータファイルに過ぎない。
 つまりここでいう心の観察というのは、自分の性格はこうだとか、自分は今こういう心をもっているとか、そういうことじゃないんです。心そのものの仕組みというか、成り立ちというか、本質を追求するわけですね。
 もちろん、それが本当にできるのはもっと後、サマーディに入ってからですね。だからまだその前でやるときは浅いんだけど、浅いなりに、自己分析をするわけです。肉体は不浄であり、単一ではなく、「私」ではなかった。感覚も苦であり、幻影であり、「私」ではなかった。そして心さえも、無常であり、幻影であり、実体はなく、「私」ではないという本質に行き着くわけですね。

 そして最後に、この世界全体というか、実在そのもの、現象そのものへの観察を行います。そしてそのどこにも実体がない、つまり空であるという認識を培っていきます。

 これが私が説明したかった、第一段階での観察、すなわちヴィパッサナの瞑想である四念処ですね。

 ところで、こういうことを経典で学んだり、実際に瞑想したりして、心に植えつける。あるいは、その前に書いた、仏法僧への念。あるいは、「慈経」という原始仏典では、今度は、起きているときも寝ているときも立っているときも座っているときも、衆生が幸福であることを願い続けなさいという、大乗的な慈悲の教えもあるわけですが、こういったこと、あるいはその他のさまざまな仏教的検討。これらを、私たちは、常に心から離さないようにして行動しなければならない。
 たとえば座って瞑想しているときにはそのような正確な観察や、正しい念が出来ていたとしても、日常において心が散らばり、たとえば仏法僧以外の現世的なことに心が向かい、あるいは身体を美しいものとして執着し、感覚の喜びに耽溺し、心を確固たるものとしてとらわれる。あるいはこの世を実在だと考えてとらわれ、喜んだり苦しんだりする。こんなんじゃだめなわけですね。
 よって日々、瞑想中はもちろん、日々の生活の中でも、自分の一挙手一投足をチェックするわけです。身口意といいますが、自分の身体の動き、発する言葉、そして心の動きを、自己チェック、監視するわけですね。監視して、あ、今の動きは、言葉は、心の働きは、真理に基づいているんだろうか、それとも現世の悪法に基づいているんだろうかと。そして悪法に基づいていたとしたら、修正するわけですね。いかん、いかんと。
 こうした自己チェックと修正、これを正智といいますね。
 まあだからこの部分をまとめると、まず教えを学び、あるいは瞑想し、上記のようなさまざまな観察をし、あるいは念をし、それを繰り返し心に植えつける。そして日常において、自己の身口意をチェックし、瞑想で植えつけた真理の念や真理のものの見方を維持するように、応用するようにする。一瞬たりとも、真理の考え方や行動から離れないようにする。これが簡単にいえば「念正智」ですね。 
 つまり我々は自然に、まず悪しき誤ったものの見方をし、その誤った見方が心に根付き、行動においてそれをもとに考え、話し、行動してしまうという、悪しき循環の中に自然にいるわけですね。それを意識的に、真理に基づいた正しい見方をし、それを心に根付かせ、行動においてもそれを実践するという、意識的な修正作業を行なうわけです。
 そしてこれを行なうときの正智、すなわち自分の身口意の動きの絶え間ない観察と、そこに瞑想中に観察したことを当てはめていくこと。これが私が書きたかった、第二番目の、ヴィパッサナの意味です。

 現在のヴィパッサナといわれる瞑想では、この念正智でもなく、単純に、ああ、私は今歩いているとか、何何しているとか、そういう観察も行なうみたいですね。確かにそういうことが経典には書いてありますが、それはちょっと経典の読み違えではないかと思ってしまいます。立っているときも歩いているときも何をしているときも念正智しろという意味は、上記に書いたような、正しい念の植え付けと、自己の身口意のチェックと修正ということだと思います。
 といっても、その単純な、今私は歩いているとか、何々している、という観察が意味がないとは思いません。しかしそれはどちらかというとヨーガ的な観察ですね。そしてそれは、まあ、ヴィパッサナには四段階くらいあるんじゃないかと書きましたが、さらにその前段階となる初歩的な観察ですね。

 さて、この禅定の項目は、コンパクトに書こうとはしているんですが、予想以上に長くなってしまっていますね(笑)。またこの辺でいったん切って、続きは次回にしましょう。

 最後に、今回の自己チェックと修正というテーマに関して、私の好きな、チベットの「愚直者」と呼ばれたある僧の話をしましょう。
 ある朝、この僧の家に、信者たちがやってくることになっていました。そこで僧は、祭壇を清め、部屋を掃除し、いろいろなものを整えたわけですね。そうして一通り作業が終わり、一息ついて、僧は、自分の今朝の行動、心の働きを観察してみたわけです。すると、自分の今朝の行動の背景には、部屋をきれいにして、信者からより多くの布施や賞賛をもらいたいという、邪な心が潜んでいることがわかったわけです。そこでこの僧は、急いでゴミ箱を持ってきて、祭壇や部屋中にゴミをばら撒きました。そうして座って、
「くわばらくわばら、気をつけていなくては」
と、胸をなでおろしたわけです(笑)。
 そこへ信者がやってきて、びっくりしたわけですね。部屋中がゴミだらけであらされている。そこで信者が、
「一体何があったんですか? 泥棒でも入ったんですか?」と聞くと、僧は、
「そうなんだ。心に泥棒が入ったのさ」
と答えたそうです。
 その当事チベットにいたある別の聖者がこの話を伝え聞いて、賞賛してこのように言ったそうです。
「チベット広しといえども、あの僧ほどのすごい行者はいまい。なぜなら彼は、自分を悪趣に引きずり込もうと手ぐすね引いていた悪魔の頭上に、ゴミをぶちまけたのだから。」

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