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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回(9)

 こういうことを言うとちょっと大袈裟になるかもしれないけどね。まあ、何回かわたしは言ったけども、わたしは昔ね、インドに行っていろんな乞食を見たりとか、あるいは乞食じゃなくても――例えば日本でもね、いろんなその自分の親類や友人とかの、いろんな苦しそうにしている人を見たときにね、まあ当然その、なんとかしてあげたいっていう気持ちが出てくるわけですね。で、なんとかする方法にはいろんな方法がある。もちろんいつも言うけれども、例えばボランティア的に貧しい人の世話をするとか、病人の世話をするとか、それはそれでいいと思うよ。それはそれで、それが今生の道の人もいるでしょう。それはそれでいいんだけど、わたしはそれではちょっと満足できなかった。つまり、自分のね、自分が人生についていろいろ思い悩んだ経験からいって、「病人を治してどうなる」――もちろん、その病の苦しみから解放させてあげたいとは思うけども、もうちょっと根本的なところに目を向けたいと思っている。あるいは例えば貧しい人に、今日何かパンをあげても、今日お金をあげても、もちろんそれで今日の飢えがなんとかなるっていうのはそれはそれで素晴らしいけども、もうちょっとこの人のカルマ、この人の根本的な今落ち込んでる、どうしようもないカルマのしがらみから抜け出させてあげたいと。なんとかできないんだろうかと。よくインドでもそういうことを考えた。で、そこでわたしが考えたのは、「やっぱりみんなを悟らせるしかない」と。ちょっと極端に聞こえるかもしれないけどね。「やっぱり、みんなを修行させて悟らせるしかない」と。
 で、そこでわたしはいろいろ真面目に考えたわけです。「しかし、これは相当大変なことである」と。リアルに考えたらね。例えば、インドのその乞食たちを悟らせると言ったら、まず言葉が通じないから(笑)、言葉の勉強もあるし、あとその――彼らにまずヨーガとかさせないといけないから、大変な話だね。「彼らはヨーガする気になるだろうか?」と。もちろん、彼らだけじゃなくて世界中には多くのそういう苦しんでいる人たちがいる。あるいは――つまり物質的な苦しみ、精神的な苦しみ、いろんな苦しんでいる人がいる。あるいはまあ仏教やヨーガの教義で言うと、この地球だけじゃなくて、この宇宙にはいろんな世界があって、いろんな苦しんでいる人がいっぱいいると。ね。で、それを「みんなを悟る手伝いをしてあげたい」と。「真の幸福を得る手伝いをしてあげたい」って思うんだけど、現実的に今は無理だと、はっきり言って。そんな力もないし、そんなお金もないし、具体的にそのような手だてがないと。そこでわたしは、まあいつも言うけども、「じゃあわたしがまず頑張って修行して、それだけの智慧と力を身に付けよう」と。
 前も言ったけども――そのときはちょっと冗談みたいな、いつも笑い話みたいになっちゃうけども、そのときわたしは真剣に考えたのは、「もうめちゃくちゃ修行して、超スーパー仏陀になって、誰かがわたしを見るだけで悟ってしまうような、それくらいの偉大な聖者になろう!」と思ったんだね。「そうすればいいんじゃないか」と。
 だって何度も言うけども、ほかの例えばわたしと縁のある人は、まだ修行する気になってない人がいっぱいいると。あるいは、修行どころかそういったヨーガや仏教の教えにのっとって「正しく生きよう」と思ってない人もたくさんいると。「わたしはその道に今、出会ってしまった。ならばわたしには責任がある」と。みんなに――まあ、さっきのその「見ただけで悟る」まではいかなくても、かなりの今以上の相当なパワーで周りにいい影響を与えられるくらいの状態になりたい」と。で、その果てにあるのが、仏陀なわけですね。つまり最終的には「完全な仏陀になりたい」と。なぜ完全な仏陀になりたいかっていうと、別に自分がそのような悟りを得たいっていうよりは、できるだけ多くの人にいい影響を与えられるように「究極の悟りを得たい」と。そういうふうに考えるわけですね。これを菩提心っていうんです。
 ちょっと長かったけどね。だから簡単にもう一回言うと、「衆生の幸福のためにわたしが仏陀になろう」と。「わたしがまず仏陀になって、みんなを救おう」と。この気持ちが菩提心ですね。

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