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「解説『ただ今日なすべきことを』」第一回(9)

【本文】

逃げないことと心の成熟

 人生においては、当然、さまざまなことがやってきますよね。一般に幸運だとか、不運だとか呼ばれることがいろいろあります。
しかしそれらには、客観的・絶対的な価値というのは実はないんですね。

 たとえば客観的に見て、同じような体験をしていたとしても、ある人はそれを、成長のための試練だと喜び、またある人は、なんて不幸なんだと悲しむかもしれません。
ある出来ことがあったとき、ある人は、そこにかかわった人々の愛を感じ取って恩を感じるかもしれないし、またある人は、全く同じ出来ことを経験して、そこにかかわった人々に恨みを感じるかもしれません。

 人生とは面白いものですね。だから人生において重要なのは、条件を整えることよりも、自分の心を整えることです。

 わたしは各種の運命学もやります。中でもインド占星術、西洋占星術、あと姓名判断、これらは驚くほどよく当たりますね。
でもわたしは、今でも依頼されれば他人の鑑定はしますが、自分の運命鑑定に関しては、ある時期から、ほとんど興味がなくなりました。
それは、人生において、良いことも悪いこともあるでしょう。しかしそれは当然の人生の流れとして受け止め、心を決め、覚悟を決める。といってもリラックスして(笑)、喜びながら覚悟を決める。その上で、いかにその良いこと悪いことから、多くのことを学ぶか。多くの成長の糧とするか。あるいは自分だけではなく、周りの幸福に役立てることができるか。そのようなこと、そしてそれができる確固とした自分の心の形成の方が、重要だと考えるからです。

 運命学も、その背景にあるのはカルマの法則です。そして過去の自分の行為によって作られたカルマは、必ずやってきます。逃げようともやってきます。逃げると、少しはその発現を遅らせることはできますが、より大きくなって将来、受けなければならなくなります。

 ですから人生のコツは、逃げないことです。そして自分の心の成熟を第一と考えることだと思いますね。

 心の成熟といっても曖昧で難しいですけど、簡単にいうとやはり純粋な愛をはぐくむことが第一でしょう。
 なんに対しての愛かって? 神への愛であり、同時にすべての生命への愛です。

 もちろん、それ以外にも課題は多々ありますが、この純粋な愛こそが、もっとも重要なポイントとなると思いますね。

 ヨーガはそれら心の成熟のさまざまな手助けをする、効果的な補助的技法となります。

 

 
 はい。まあこれはさっきU君の質問に対して話したのと同じことだね。つまり、現象、人生において起きるさまざまな現象自体の良し悪しはない。で、ここで書いてあるのは、さっきの話よりももう一歩突っ込んだ、踏み込んだ話。つまり、現象に意味はないんだよっていうよりも、その現象の中で、その現象によって、いかに心を成熟させるかがポイントなんだっていうことです。つまり現象自体には良し悪しはない。現象によって心を成熟させられたらオッケー。させられなかったらそれは意味のない現象でしたってことになる。
 っていうことは、苦しい方がいいのかもしれない。でもその人がまだ準備できてなかったら、苦しいだけで、ただ心を卑屈にして終わるかもしれない。
 あの、ぶっちゃけていうと、現象は苦しい方がいいです(笑)。その方が心が鍛えられます。でもさっき言ったように、そこまで準備ができてないと、そうならない場合がある。
 あの、ちょっと修行における矛盾があるんだけど、苦しい方が修行が進む。しかし修行してると徳が積まれてくるので、カルマが浄化されてくるので、あまり苦しめなくなります。ちょっと変な話なんだね。苦しい方が修行が進むんだけど、心が安定してくるからあまり苦しくなくなるんです(笑)。そういうなんていうか、素晴らしき矛盾っていうか(笑)、があるんだね。でもそれはみなさん人生の一つの、あの、なんていうかな、ポイントとして考えたらいい。つまり、現象に良し悪しを求めるんじゃなくて、そこで何をどのようにして心が成熟するか、あるいは周りのためになるか、これだけがポイントなんだね。
 だからさっきからの話の続きだけど、こうなった、この、こんな、こういうのが来た――「ええ、まじかよー」っていうのはあり得ないんです。来た――これはただなんの善悪もない、ただの現象なんです。「さあ、これでどのようにわたしは心を成熟させようかな?」――これが大事なんだね。
 で、「ああ、おれはちょっと失敗した」と。「もっとこれを利用できれば良かった」――例えばさ、わたしは中学生ぐらいから本格的にヨーガとか始めたんだけど、ヨーガっていうのはもちろん、アーサナとか呼吸法とかもそうだけど、そういうヨーガの考え方とかを学びだした。で、ちょうど時を同じくして、わたしあの、学校をちょっと転校して、その転校する前はすごく、なんていうか、みんなの人気者って感じだったんだけど、転校した瞬間からいじめに遭ったんです。いじめっていってもね、まあなんていうか精神的ないじめなんだけど。肉体的にどうこうじゃなくて。で、いじめに遭った時期がしばらく続いて――あの、ちょっとね、話を戻すと、ちょっとこれもまたかっこいい話になっちゃうんだけど(笑)。あるときね、中学校の最初のころか、ぐらいだったと思うんだけど、まあ田舎なんで、山があるんだけど、近くに。その山の頂上に登って、神に祈ったんです。で、これはね、実はなんでそういうことをしたかっていうと、そのころわたし小説の宮本武蔵を読んでて、今、あの、漫画になってるよね。あの……

(U)バガボンド。

 バガボンド。なってるけど、小説でわたし昔読んでて、で、なんかすごい感動して、で、宮本武蔵がさ、宮本武蔵、すごいストイックな人で、こう神に、「我に苦難を与えたまえ」とか、こう祈ったりするんです。つまり自分を鍛えたいから。で、そういうのに触発されて、こう山を登って(笑)、なんかその山ってさあ、なんていうか、もちろん道はちゃんとあるんだけど、わざと道なき道を登ってって(笑)。

(一同笑)

 ガーッて登って、こうガーッてこうたどり着いて(笑)。で、神に祈った。で、そのときね、今思うと、やっぱりわたしバクティヨーガ的だったのか、あの、神にね、まあ二つ祈ったんです。一つはまあ言葉にすると、「わたしに」――あの、まあそうだなあ、「真理をお与えください」とか「悟りをお与えください」とかそういうことなんだけど、でもそのときに、「えっ、でもわたしは無智だと。真理を与えてもらうとか、悟りを与えてもらうっていうことは必ずしも正しいかどうかさえ分からない。だから、神にお任せしますんで、とにかく最高のものをください」って言おうとしたんだけど、「最高のものを」とか「くれ」ってのもいいのかどうかよく分かんない。だからちょっと言葉にならないんだけど、「ちょっとお任せするんで、うううううっ」って感じだね(笑)。あの、「くれ」とも言えないし、どうも言えないんだけど、イメージで、まあとにかく、「……ウッ!(両手を挙げて祈る)」って感じで、「あなたが最高だと思うものでいいです」――まさにバクティヨーガだね、今考えるとね。
 で、それが一つの祈りで、で、もう一つの祈りは、その宮本武蔵に触発されて、「神よ、わたしに最大の苦難をお与えください」って祈ったんだね。
 でもね、多分そういう祈りをわたしがそのときしたっていうのは、それまでわたしが幸せだったからです。だから多分あまり人生で苦痛ってなかった。まあ学校でも人気者だったし、結構いろんなこともできたっていうか。あの、いつも例えば遊ぶときも中心にいたりして。あの、だからちょっとこう、なんていうかな、まあ余裕があったんだろうね。だからその、「苦難をくれ」みたいなことをかっこよく祈ったんだね。
 で、その二つの祈りがすぐ叶ったんです(笑)。つまり真理って意味でいったら、その直後ぐらいにヨーガに出合ったんです。まあ本屋でヨーガの本を見つけて、で、読んでみたら、まあヨーガの思想とか書いてあってね、「これはすごい」って、こうだんだんヨーガにはまってった。で、同時期にさっき言った、転校して、それまでの楽しい昔からの仲間との付き合いはすべてなくなり、まあちょっと大袈裟に言えば、全校生徒が敵みたいな感じだった。まあつまりそこは田舎の学校だから、ちょっとよそ者を排斥するような感覚があって、なんかそういういじめだったんだね。ちょっとこう、なんていうか、あの、殴られるとかはないんだけど、こう精神的にいろいろ嫌がらせをされたりとか、そういう環境に追い込まれたことがあった。で、でもそのころからヨーガを始めてたから、ヨーガの考え方に則って、こう、まあなんていうかな、自分を奮い立たせたりしてたんだね。
 で、なんで今そういう話したかっていうと、その、前にね、実はそれからさらに数年、数年後っていうか、まあしばらく経って、大人になってから、パソコンで、過去にいじめられた経験がある人達とチャットしたことがあったんです。で、わたしは、わたしのそのときの正直な気持ちとして、「そのころ自分をいじめてくれた人に感謝してる」って書いたんだね。つまりその、あれで結構、心は成長したし、それから自分がそういう立場になることで、なんていうかな、人間の心の観察がすごくできたんです。そのいじめる側、いじめられる側のいろんな人々の心の動きがあるわけじゃないですか。そういうのを自分が最悪の状況に陥ることで、見ることができた。あと、もちろん自分自身もすごく鍛えられたっていうか。で、「すごく感謝してる」っていうことを書いたんだけど、それで、そのほかの人達に猛反発を食らって。「それは」――「僕はね、今でもその相手を殺してやりたい」とか「絶対に一生許さない」とか、みんなそういうことを書いてるわけだね。で、「あれっ?」てこっちは思って、「この違いはなんだ?」と。――「彼らには教えがない」と(笑)。つまりそのヨーガとか仏教の教えがない不幸っていうか。だからそれがさっき言った、現象ではなく心だよっていう問題なんだけど。
 で、わたしはこれは正直な気持ちとして、あの、「もう一回やりたいな」とさえ思った。つまり人生をやり直せるなら、もう一回あの時代に戻って――つまり不本意なの、ちょっと。あのころヨーガを始めたばっかだったから、まだ心の弱さとかいろいろあって、ちょっと暗くなったりとかいろいろあったんだね。心がちょっと駄目になっちゃったりとか。今だったらもうちょっとあのいじめを利用できると思った。あのような苦難、つまりいろんな人が自分のすべて敵みたいな状況の中で、こう自分を正しく保ってくようなことが、もうちょっとできたろうなって思うんだけど、まあ人生ってそんなやり直しがきくようなもんじゃないから、もうそのときにパッとこう課題が与えられるわけだけど、自分としてはちょっと不本意な部分があった。
 ああ、あのときもうちょっと、あそこで――例えば、あの、そうだなあ――わたしはあの、ちょっと細かい話になるけど、あの、相手がね、相手がっていうかその、自分に嫌がらせをしてくれる人、くる人っていうのは、まあ肉体的には、ちょっとちっちゃい子が多かったんです。田舎だからかもしれない。わたしそのころから体がでかかったから、で、そういう人が何やってきてもわたしは何も、あの、やり返さなかった。でもその強い奴がいて、強い奴がやってきたときはやり返してたっていうか、ケンカになってたんです。で、それはわたしのなんか男性的なプライドだったんだね。つまり、「おれは弱いものには手を出さないけど、おまえ達がやってきたら絶対やり返すぞ」と。「それが男だ」みたいな感覚があった。でも、それも今考えたら、あそこでさえ笑って許してあげてたら良かったなとか、その方がかっこよかったなあとか(笑)、そういうふうにその、あるわけだね。ちょっと、そのときはでも、自分のプライドが許さなかった。自分が弱いみたいな感じがして、「ああ、でもそこさえも投げ出せてたらよかったな」とか、そういうのはいっぱいあるんだね。だからその、観点がちょっと違うんだね。普通はそうじゃないじゃないですか。普通は、「いや、いじめられたくなかったな」ってなる。「あの時期はわたしの中から消したいな」ってなる場合が多いと思うんだけど、じゃなくて、「あの時期もっとできたのにな」って気持ちになるんです。その観点が違うとね。「この苦しみがやってきたときに、もうちょっと自分を成長させられたかもしれないな」と。
 だからこれは未来も同じだよ。だから何かバーッと、まあ苦しみもだけじゃなくて幸せなこともそうだけど、いろんな幸せなこととか、苦しいこととか、あるいはその中間ぐらいのこととかも日々やってくるわけだけど、さあ、どれだけこれでわたしはわたしの心を成長させられるかな? もしくは周りの人のことを成長させられるかな?――これがすべての物事の基準になるんだね。
 だからこういう生き方をしてると、人生っていうのはすごく価値があるっていうかね。だから逃げちゃ駄目だと。
 逃げることのデメリットっていうのは、二つあります。一つは今言った、せっかくの成長のチャンスが来てるのに、例えば苦しいことがあって「あっ」とただ耐えてると。もちろんカルマは落ちるだろうけど、そこからその何か成熟するとか、チャンスがなくなってしまう。
 もう一つはここにも書いてあるように、あの、逃げても駄目なんだね。あの、因があるってことは必ず将来、果が来る。これはいつも言ってるけどさ、因があって条件があって果になりますと。で、逃げるってことは、条件から逃げてるだけなんです。因からは絶対逃げらんないんです。で、条件から逃げてると、どんどんどんどん借金がたまっていくような感じで、その悪因っていうのはどんどん増大していって、将来的にものすごい悪業を受けなきゃいけなくなってしまう。だから自然に生じたものっていうのは逃げちゃいけない。その方が将来的にはすっきりっていうか、悪業がすっきり消えてね、非常にその平安な人生になる。
 わたしは前、こう修行を進めてきて、あの、ある時期ねえ、もうそれまでのもう明らかに心が変わって、それまで抱いてきた苦痛とか悩みとかが極端に減ったことがあった。もうしばらくなんの、その、悩みや苦悩やそういうものが、ずーっとなかったときがあって。で、そんなとき、あるとき、まあちょっと細かいことは忘れたけど、あるなんか出来事があって、すごく苦しくなったんです。で、そのときにねえ、わたしのそのときの精神状態としては、心理状態としては、「来た!」って思ったんです。で、ここでわたしはなんらかの方法によって、その苦悩を消すことは簡単だったんです。例えばジュニャーナヨーガ的に分析したりとか、あるいは神に集中したりして、その苦悩を消すことは簡単だったんだけど、久しぶりに来たのでちょっと逃がしたくないと(笑)。ちょうどその雰囲気としては、非常に珍しい天然記念物かなんかの小鳥が、庭に来たみたいな(笑)。「来た!」って。ちょっとこう、「みんな騒がないで」と。「騒ぐと逃げてしまいますよ」と。だからちょっとでもわたしがそれを消そうとすると、消えちゃうんです。だからちょっとこう知らないふりをして、その苦痛を観察したりとか、味わったりしてたんだね。で、そこでいろんなことをこう分析したりする。例えば、いや、この苦痛の原因はこうでこうこうであって、人間というのはこうこうこのように苦しむのだと。でもこれは意味がないなとか。つまり苦しみがないと、そういう、なんていうか、きっかけがない(笑)。だからそういうのが来たときに、「あっ、やった!」と思ったことがあったね。
 だからこういうような感覚なんだね。うん。すべての、まあ苦しみだけじゃないんだけど、すべての現象はわれわれの魂の学びのためにあると。そのようなその大前提を理解しなきゃいけない。そしたら、何度も言うけども、この目に見えるいろんな条件を整えることとか、逃げることっていうのは、全く意味がないんだということだね。

 はい、じゃあ一応今日はここまでにして、あとはなんか全体的に質問があったら聞いて終わりにしましょうかね。特に何か質問ある人いますか? 

(U)先生。今日最初に質問した慈悲の瞑想に関してなんですけど、その、先生はそういう、わたしが慈悲の瞑想をして、利他や慈悲心を正智してるってプライドは正しい、っていうことだったんですけど。僕はそれはそれで正しいと思ったんですけど、あと、なんだろう?……慈悲の瞑想とかしてるときに、あの、慈悲心がないからやってるんだと。慈悲の瞑想をやることが偉いんじゃなくて、利己的でもう自分のことしか考えてないような人間だから、やんなきゃいけないんだと。だからそのためになんかほかの生命の存在を利用させてもらって、こう慈悲の瞑想をしているんだから、どうもありがとうっていうふうな気持ちで、なるだけやるようにしてるんですけど。

 それはもちろんそれでいいよ。うん。だから、だからそれがさっき言った、すべては方便なんだね。うん。だから結果が正しければ、手段はどれをとってもいい。それはシャーンティデーヴァの『入菩提行論』とかでそういう例がいっぱい載ってるよね。つまり、この衆生によって、わたしは菩薩になれるんだと。つまり、わたしが衆生のためにやってるんじゃなくて、衆生の存在によってわたしは菩薩になれるんだと。だからそれはそれで、結果的に慈悲が深まるんだったら素晴らしい。でもそれをやりつつ、「おれってすごい」と。でもこれでも慈悲が深められるんだったら、それはそれで素晴らしい。

 はい、ほか何かありますか? 特にないかな?

 今日は深い話が結構多かったよね。はい、じゃあ特になかったら今日はこれで終わりにしましょう。

(一同)ありがとうございました。

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