yoga school kailas

「四つの空の認識」

◎四つの空の認識

【本文】
 四つの元素が撤退していく兆しがあらわれてきたなら、いずれかの方法で生命エネルギーを中央気道に集め、四つの空をハッキリと認識するように努めるべきである。そして最後の光明があらわれたときに、できるだけ明らかなサマーディの境地にとどまるべきである。

 これはつまり「ああ、そろそろ死ぬのかなあ」って思ってたら、あれ? なんか体に力がなくなってきて沈み込んできたと(笑)。ね。で、なんか陽炎が見えてきたと。あるいはなんか口と鼻の中が乾いてきて、舌があーって縮んできたと。煙のヴィジョンが見えてきたと。ね。そして体がだんだん冷えてくると。こういうようにもう明らかに元素が撤退してるって分かったら、「やばい! もうちょっとだ!」と(笑)。「もうすぐ四つの光が始まる!」と。でも普通の人はなかなかその四つの光も明確には認識できない。よって、「いずれかの方法で」って面白いけども、ムドラーやったりとか(笑)・・・・・・でもこの段階ではもうできないかもね(笑)、ムドラーはね(笑)。だからしっかりと神や師を思念するとか、まあとにかく生きてる間に慣れ親しんできた方法を使って、グーッてこの中央気道に意識を、エネルギーを集中させなさいと。そして明らかにその最後のね、一切空、クリアライトと呼ばれる透明な光を経験しなさいっていうことですね。
 つまりこれは本当にリアルな話なんです。リアルに、なんでこういうね、死の時にこうなりますよっていうことが教えとしてあるかっていうと、リアルに、「あ、もうすぐ死だ」っていうことを自分で理解して、その準備をするためなんだね。こうなってきたらもう死だから、本腰入れてちょっと準備しなさいと。そして、さあもう次だよ、次来るよ、来るよ……はい、来た! はい、それをしっかりと認識しなさいと。こういうすごくリアルな教えなんだね。

◎サマーディにとどまる

【本文】
 死の光明の時、プラーナと心が中央気道に集まり、プラーナが心臓に溶け込むことによって、もろもろの二元的な分別は寂滅し、雲のない虚空のようになる。それをハッキリと確認し、サマーディの境地にとどまるべきである。

 死の時にこれをスムーズに行なうには、生きているうちから「空の教え」を学んでおくことと、「楽空無差別」のサマーディに慣れ親しんでおくことが必要である。
 ジェツン・ミラレーパも、次のようにおっしゃっている。

「死の光明は法身であり、そうであるものをそうであると知らねばならない。
 そのためには、すぐれたグルに師事して、
 もののありかたの真の意味と、
 道の光明を、
 学び、理解せねばならない。」

 これはね、何をいってるのかっていうと、われわれが死んで、さっきも言ったその四つの空を経験し、最後に透明な光に溶け込む。これは誰でも経験するわけです。ね。つまりそれはもう物理的にみんなその経験がやってくるんです。
 ここでまず最悪のパターンとしては、気絶です。気絶っていうのは、全く認識できない。意識がもう完全に飛んじゃって、バーッていろいろ起きてるんだけど、本人は全く暗闇にいると。これは最悪。
 じゃなくて、ある程度修行してると、その状態には入れます。で、そのときに、ここに書いてあるようなちょっとこう二元的なものが消えていき、つまりそれはヴィジョン的に虚空っていうよりは実際虚空のような感じになるんだけど、意識もちょっとこう二元性から解放されたみたいな感じになるんだね。
 で、問題はここで、われわれがその空の境地というものを全く経験がないとしたら、そうですね、恐怖が出るか、もしくは何の意味もなく過ぎ去ります。何の意味もなく過ぎ去るっていうのは、ワーッてその空の境地に否が応でもこう引き込まれるんだけど、その価値とか意味とかを全く理解できずに、「何だこりゃ」ってぼーっとした感じで、次のバルドに移行します。もしくはすごい恐怖が出ます。「うわー! 自分っていうものがなくなっていくー!」「おれを形成してるものが、わー! なくなっていってしまう!」っていう恐怖があります。これでもやはり固定されないっていうか、その悟りの世界に一瞬足を踏み入れるんだけど、またすぐにバッと二元の世界に戻ってきてしまいます。
 よって、生きている間にちゃんとやっとけと(笑)。生きてる間に空の――まあ、生きてる間も怖いんだよ。生きてる間に例えば本当にみなさんが空と呼ばれる境地に足を一歩踏み入れたら、非常に怖いです。つまりもう概念を超えた世界になるから。何だこりゃって感じで怖くなる。だからそれを何度も何度も練習して、慣れ親しんでおきなさいと。
 これはいつも言うけどね、この空の話っていうのは本当はできないんです。なぜできないかというと、言葉にした段階で嘘になるんだね。これはもう経験するしかない世界の話なんです。あるいは近い言葉で表わすしかないね。「二元を超えた」とかそういう近い言葉でしか表わせないんだけど、ストレートに表わせないんです。
 これは何度も言ってるけど、わたしも例えばそういった非常に深い、空的な境地を経験した後に、みんなに話そうとしたとするよ。例えばそれを木曜日に経験して、土曜の勉強会で話そうかなと思ったとするよ。二日もたったらもう忘れてます。忘れてるっていうのは、頭では覚えてるけど、心はもう忘れてます。だから言うことはちょっと違ってます(笑)。それだけ言葉とか概念を超えた世界なんだね。でもそれを何度も慣れ親しんでると、感覚的にそれに対する理解というかな、安心みたいなのが出てくる。そうすると死後も同じ世界に飛び込むから、そこで安定し、まあよくすればそのままその世界に没入し、仏陀になることもできるかもしれない。最高にいい場合ね。でもそこまでいかなくても、その素晴らしいむき出しになった悟りの境地っていうのを十分に味わうことができるかもしれない。それができるように、ちゃんと普段からそういった――まあここで「楽空無差別に慣れ親しんでおく」って書いてあるけど、それ自体が大変なんだけどね(笑)。
 楽空無差別っていうのはつまり、最高の空の境地をまず経験し、そしてそれと同時に最高の楽――つまり前のね、チャンダリーの方に出てきた四つの楽といわれる、つまりこれは完全にクンダリニー・ヨーガの素晴らしいエクスタシーの状態です。これはね、一般的にはそういわれてないけど、わたしは原始仏教でいう第四静慮だと思うんです。これはね、わたしだけの説です。密教でいう四つの歓喜っていう教えがあるんだね。四つの歓喜、四つの楽っていうのは、原始仏教の四つの静慮に対応するっていうのが、私の個人的な考えです。最終的に原始仏教では最後の第四静慮、これは不苦不楽の境地っていってるんだけど、密教においては楽空無差別の境地といってる。まあちょっとこれは表現の違いがあるんだけど。
 つまり楽空無差別って変だと思わない? 楽っていうのはさ「ハーッ、気持ちいい!」ですよ。空っていうのは、一切が消えてる。その二つが差別がない、つまり混ざり合ったような状態っていってるんだね。これが最後の瞑想というか、段階ですよと。これをしっかりと経験しろと。それは非常に難しいんだけどね。だからこれもその人の能力とか努力によって、どこまで経験できるかにもよるけども、とにかく自分のその――ここの文脈でいうとね、クンダリニー・ヨーガ的な、例えば気道を浄化し、甘露を落とし、体を歓喜で満たし、心を純粋な至福で満たすような修行をしっかりと進めると。で、同時に、心を空にしていく。
 この心を空にしていくっていうのは、何度も言うけども、ちょっとみなさんにリアルな指導をすると、わざわざ「空だ、空だ」ってやる必要はない。それよりは待った方がいいです。待つってどういうことかっていうと、しっかりと真面目にみなさんが修行をしてたら、あっちからやってきます、空の境地っていうのは。
 例えば、「さて、今日も修行するか」と。「ああ、先生からこれやれって言われたマントラ唱えるか」。わー……って唱えてるうちに、ウーッて意識が変わってパーッて空に入ったりしちゃう(笑)。そういう方がいいんだね、本当はね。「よし、じゃあ空に入りましょうか」。「ウーッ……空」とかやってるよりはね。こんなんで入れるとしたら逆に大聖者です、その人は(笑)。自在に空に入れるとしたら――それはもちろんそういう境地になっていくんだけど、最後にはね。でもまだまだそこは無理だと考えてください。だから「空だ、空だ」ってやるよりは――もちろんね、空のある程度概念は学んでおくことはいいことだよ。でも、「空だ、空だ」ってやるよりは、心を本当に純粋にするような、あるいは与えられたいろんな修行、これを徹底的にやることによって自然に空の境地がやってきます。そしたらそれを大事にして空の経験を高め、そしてその純粋な至福の経験も高め、で、最終的にはそれが合一するんだけど。そこまでいくかどうかは別にして、そういう修行をしっかりやっときなさいと。
 はい、そしてそれがうまくいけば、死後に現われる光を悟りの光そのものとして認識し、その素晴らしい経験をできますよっていうことですね。

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