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「至高の菩提心」

◎至高の菩提心

【本文】
2-B 至高の菩提心

 堅固さを得ることで、秘密が示される。
 すべての存在は、夢のごとくであるととらえよ。
 不生なる明智の有様を分析せよ。
 対抗手段である「空の智慧」自体も、あるがままに解き放て。
 道そのものも空性のままに置け。
 瞑想と瞑想の合間にあるときには、幻術師のようであれ。
 

 この辺はちょっと難しい感じがしますね。

 基礎的菩提心っていうのは前回やりましたが、今回は至高の菩提心。この至高の菩提心っていうのは、空の教え――つまり「一切は空である」っていう教えそのものですね。だからこれは、至高の菩提心って書いてあるけど、空の智慧と言い換えてもいい。

 で、基礎的菩提心っていうのは、一般に慈悲とか菩提心とかいわれるやつです。

 だから、よく「智慧と慈悲」とかいうけども、真理っていうのはこの二つに集約されるんですね。空の智慧と、それから慈悲とか菩提心という教え。で、この至高の菩提心イコールその空の智慧だと。

 はい、そしてまず最初に、「堅固さを得ることで秘密が示される」ってあるね。これはどういう意味かっていうと、堅固さって何かっていうと、その前に来るこの基礎的菩提心、つまり慈悲の教えね。

 つまりもうちょっと細かくいうと――この基礎的菩提心の最初の方をちょっと読んでみましょう、もう一回ね。

「あらゆる問題はただ一つ、エゴのせいである。それを払いのけなさい。
 すべての衆生の大きな恩を思え。
 トンレン(他者に幸福を与えることと、他者の苦しみを受け取ること)を交互に繰り返して修習せよ」
と。

 つまり、まずエゴ――自我意識ね。「わたしは」とか、「わたしの幸福を追求したい」とか、「わたしのものだ」とか、「わたしがこうしたいんだ」――これがまず、すべての問題、すべての苦の原因だってバシッて言い切っている。ね。

 「わたしが」っていう気持ち自体が、わたしを不幸にしてる。ね。ちょっと面白い言い方だね。

 これはいつも言ってるけど、「ラーマクリシュナの福音」でも、「わたしはいつ幸せになれるんでしょうか?」「それは『わたし』を捨てたときだ」と。わたしを捨てたときにわたしは幸せになる(笑)。変な話だね、なんかね(笑)。でもそうなんです。わたしっていう思いを捨てたときに、わたしは幸せになる。

 逆に言うと、このわたしっていう思いがわれわれは強すぎるから、あらゆる問題が起きる。つまりこのエゴっていうのを極力捨てて、逆に、ここに書いてある「他者に幸福を与える」そして「他者の苦しみを受け取る」。ひたすら人々の幸福を願い、で、逆に苦しみを受け取るっていうのは、つまり、普通はね、自分が幸福でありたいから周りは不幸であってもいいっていう汚い心が、われわれの中には根付いてるんだけど、その逆、「みんなの幸福の為には、別にわたしが不幸になってもいい」くらいの気持ちを訓練する。

 で、これを、さっき言ったように、日々いろんな形で訓練するんですね。で、それは、最初はなかなか難しい。当たり前だけどね。今までずーっとエゴで生きてきたわけだから、それを逆転させなさいって言われたって、そんな簡単にできるものじゃない。やっぱり自分を守ってしまう。でも少しずつ少しずつやっていくことによって、やっぱり心っていうのは変わっていくんです。

 いつも言ってるけど、心なんてものは情報の集まりに過ぎない。ね。さっきの話でも分かると思うけど、心って――昔の言い方だと芭蕉っていうんだけど、現代的にはたまねぎをイメージした方がいいんだけど。剥いても剥いても本質がないんだね。

 つまり、例えばわれわれの心ってあるけども、これは心理学とかでもいうように、まず表層の意識があって、で、潜在意識がある。で、これは何層にもなってるんだね。われわれが普段いろいろ考えたり、わたしってこういう性格かなって思ってるのは、非常に表面的な部分であって、それをグーッとひっぺがすと、自分でもよく気づかなかった深い意識がある。それは自分も気づいてない煩悩があったり、すごい怒りがあったり、執着があったりするんだね。で、じゃあそれももっとグーッとめくると、より深い意識がある。じゃあそれをめくると?――もっと深い意識がある。で、それは全部偽物なんです。偽物っていうのは、情報によってできたものに過ぎない。

 情報によってっていうのは、例えば一例としてはテレビの情報。テレビの情報っていうのは、例えばちょっと恋愛のドラマを見て、その恋愛のドラマでかっこよくこう恋愛している主人公とかにはまっちゃって、で、「ああいうのはいいな。ああいう恋愛したいな」。あるいはその主人公のいろんな性格とかを追体験するような感じで、本当は自分と全然関係ないのにそれが入ってきて、自分がなんかそういう感じになっちゃうとかね。これは一番軽いものだね。

 そうじゃなくて、例えば小さい頃からいろんな人とのやりとりで、「あ、こういうときはこういう態度とった方が、わたしは自分を守れる」とかね。いろんなその経験の積み重ねで、本来の自分じゃないものっていうのがどんどん積み重なってるんです。で、われわれは自分を見失ってるんです。

 で、よくこういうことって言うよね。「本来の自分を見失ってしまった」とか、「本当の自分はどうなんだろう」っていうことはよく言うわけだけど。じゃあ、この自分は本当の自分じゃない。この自分も本当の自分じゃない。だいぶ剥いて、これが本当のじぶんかな?――でもそれも大昔とか、かなり心の奥に根付いてる情報に過ぎない。

 そうやって剥いていったらどうなるのかっていうと、最後には何も無くなっちゃうんです。つまり「本当の自分」っていう「自分の心」っていう中心があって、そこにいろんな経験や情報が巻きついてるんじゃなくて、何も無いところにただ情報があるだけなんです。本当にだからコンピューターのデータみたいなもんだね。だから心って実体がない。

◎慈悲によって空が開かれる

 だから逆に言うと、いかようにも変えられるんです。われわれの意志次第でね。さっきも言ったように、普通はわれわれの意志とは関係なく、われわれが経験してきた人生によって心っていうのは作られてる。で、それを意志によって変えることは十分可能なんだね。

 何度も言うけど、例えばすごい怒りっぽい人がいたとして、その人は根っから怒りっぽいってことはありえないんです。根っからっていうのは無いんだね、絶対に。どっかから始まってるだけなんです。ってことは、始まったものは、変えられるんです。すべてね。あるいはすごくプライドが高いと。そんなものはいかようにも変えられる。

 例えば、「先生、慈悲とかいうけど、わたしとても冷たいんです」と。「人に冷酷なんです」と。「ああそうですか。じゃあ頑張ってください」とね(笑)。つまり冷酷ってのはただ作られたものだから、変えられるんです。ね。

 だからそのようにして、ひたすら心を変える訓練を、地道に日々行なう。で、それが堅固になったときっていうかね――つまり、最初はちょっとこうエゴが出たり慈悲が出たりって感じだけど、だいぶ心がこの基礎的菩提心に書いてあるような慈悲の思いで大分固められてきたと。つまり、自然に人の幸せを願えるようになりましたと。なんか人にひどいことされても、相手を恨むことなく、自然に感謝できるようになってきましたと。これが、堅固さを得たときっていう意味なんだね。

 で、このときに秘密が示されるって書いてある。

 つまりこれは空の智慧――つまり、一切は空ですよ。この世の正体は空と呼ばれる実体の無い世界。それがこの世の正体ですよ――っていう本質が明らかにされる。明らかにされるっていうのは、誰かがやってきて、「よし、じゃあそろそろ教えてあげよう」って意味じゃなくて、慈悲が固まってきた人の智慧が、自然に開いていくんです。

 だから、もう一回言うけども、真理っていうのは二つある。慈悲の教えと、空の智慧の教え。で、普通はこの二つっていうのはバラバラに考えられて、じゃあ慈悲を高めましょうと。で、空の智慧も高めましょうと。まあこれはこれでいいんだけど。「わたしは空の教えを得たいんだ。どうしよう」――いろんな空に関する本を読んだりとか、「うん、空だ……」とか言ってこう瞑想するよりは、一番本当は手っ取り早いのは、慈悲を固めることなんです。慈悲が固まったときに、自然に空の智慧が開かれるっていうんだね。これがここの教えだね。

 だからまずは徹底的に、慈悲の教え、菩提心の教えを自分の心に根付かせる訓練を日々やらなければいけない。それによって、空の智慧を悟る眼がだんだん開いてくるっていうことですね。

 はい、だからこの2-Bの教えっていうのは実は、かなり高度なことを言っている。すぐにわれわれが到達できることじゃないけども、そういうものなんだっていうのは、まず認識しておくといいですね。

◎慈悲というスイッチ

 だからいろんなタイプがあって、ここにいる人たちは結構バクティ・ヨーガ的な人が多いけども、例えばこの空の智慧にすごく興味がある人の場合、あまり例えば慈悲とかバクティとかに興味っていうか力が入らない人が多いんだね。「わたしはそういう二元的なことは興味ないんです」と。「空を悟りたいんです」っていう人がいるわけだけど、「空だ、空だ」って言ってもそれは、あまり近道にはならない。いつも言うように、空っていうのは二元を越えた世界だから。で、われわれが「空だ、空だ」って言ってるのはすべて二元の世界だから。二元の世界からこう、それをぶち破って、二元を超えた世界に行くことはなかなか難しいんだね。

 つまり、階段を上ってその階段の一番上にあるわけじゃないんです。全然違うところにあるから、その違うところの入り口ってないんだね。何かの強烈な世界のチェンジがなければいけない。で、そのスイッチを押してくれるのが、実は全く関係ないように思える「慈悲」なんです。ね。

 慈悲っていうのは、「みんな幸福であってください。さあ、わたしがみんなの苦しみを背負いましょう」――これは、「一切は空である」っていうのとはなんか関係ないように思える。でも実際は、それがスイッチになるんだね。これがわれわれの心に満たされたとき、このスイッチが入るんです。で、その空の智慧っていうのはだんだんこう明らかになっていくということだね。

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