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「聖者の生涯 ナーロー」⑨(9)

◎小さな子供のように

【本文】
 この後、ナーローは、頭蓋骨の器を手に持って、食べたものは何でも消化できるという意味の言葉を唱えながら、托鉢に出ました。すると子供達がやってきて、ナーローにナイフを差し出しました。ナーローがそれを口に入れると、ナイフはバターのように溶けてしまいました。
 その国の王は、王女をナーローに与えました。ナーローは王女に教えを与え、修行の道に入れました。
 しかしその後、ナーローと王女が、鹿たちを殺している姿が目撃されました。国王のお抱えの僧達は、殺生をするナーローと王女を非難し、「彼らを消さなければ、私達が王国を去ります」と王に迫りました。代々つかえる僧達が出て行くのを恐れた国王は、ナーローと王女を捕らえ、棍棒と刀で二人を滅多打ちにした後、火あぶりの刑に処しました。
 しかし次の日に人々が処刑場へ行ってみると、炎はまだ燃えており、その炎の中で、ナーローと王女が踊っていました。そしてナーローは言いました。

「厳しい言葉と虐待は、忍耐の盾を立てるのに役立った。
 カルマによって引き起こされた苦悩は、貪り・嫌悪・無智から解放されるのに役立った。
 この処刑の炎は、自我を信じる切り株を燃やすのに役立った。
 鋭い剣は、輪廻の鎖を切るのに役立った。……」

 そして王と取り巻きたちは、自分達が地獄に落ちるヴィジョンを見ました。彼らはナーローに懺悔し、許しを乞いました。ナーローは彼らの懺悔を受け入れ、浄化し、大乗の教えを与えました。

 その後、ナーローはまた別の国へ行き、小さな子供のように遊び、笑い、泣きました。

 そしてこの後、ナーローは、さらなる教えをティローから受け、ヴァジュラダラの境地に達したといわれます。

 この辺はあまり詳しくは突っ込みませんが、これはパドマサンバヴァの物語とかも同じようなのがあるんだけど、つまりこれは、ちょっと大雑把に言うならばある種の悟りの境地――つまりティローの心と一体化した境地に達したナーローが、言ってみれば武者修行みたいな感じで――武者修行っていうのはつまり、自分の境地を試すというよりも確定させるためっていうかな。つまり単純にね、ティローと二人だけの世界で修行にまい進してたわけだけど、そうじゃなくてしばらくティローのもとを離れて世の中に出ていって、いろんな経験をしながら自分の境地を確定させていくっていうかな。そういう段階だね。ただそこで行われることって非常に桁違いな世界なわけだけども。
 で、最後の方で「小さな子供のように遊び、笑い、泣きました」と。これはいわゆるある種の悟りの境地に達した人の一つの表現だね。つまりもう完全に――例えば自分がどう思われるとか、あるいはどういうふうに振舞わなきゃいけないとか、そういうのが全部なくなって、心の赴くままに生きると。
 ただ、いつも言うように、われわれみたいにまだけがれている人が心の赴くままに生きたら、それはただ悪いカルマを積んじゃうだけなので、あるいは周りにとっても迷惑なので(笑)、それは駄目ですよ(笑)。心の赴くままとかいって。あるいは真似も駄目ですよ、真似。本当は別にそんな境地じゃないのに、心の赴くままに「うわー」って子供みたいにしてたとしても、それはただの演技に過ぎないから(笑)。じゃなくて本当に純粋化された聖者っていうのはそういう子供みたいなね、感じになるんだと。ラーマクリシュナみたいな感じだね。
 ただもちろんね、その人の使命がある場合は当然、ある程度のスタイルはとるわけですけどね。だってそうでしょ。全員が全員さ、世の中に現われた聖者が全員、泣いたり笑ったり遊んだりしてたら(笑)、誰も救済できないっていうか(笑)。
 まあラーマクリシュナの場合はね、縁のあるわずかな弟子に救済者としての種を植え込むのが使命だったからあれで良かったわけだけど、普通は例えば多くの弟子を持ち、で、みんなから尊敬されてある種の救済を進めるっていう場合は、ある程度みんなの観念にも合うようなスタイルをとらなきゃいけない場合もある。で、それはその時代とかカルマによって違うので、それぞれの――もちろんいろんなレベルの聖者がいるだろうけど――多くのある高い段階に達した聖者だけを見てもね、いろんなタイプの聖者がいる。それもやっぱりそれぞれの使命があるからだね。使命があるからそのスタイルをとるんだね。スタイルをとるっていうことは、そのスタイル自体は実はそんなに重要ではないっていうか、便宜上とっただけっていう感じなんだね。でもその人がもしそういうような使命がない、または別にそこは考えなくてもいいっていう場合は、まさに近代でいうとラーマクリシュナですけども、本当に子供のように泣いたり怒ったり歌ったり笑ったりっていう状態になるわけですね。
 だからチベット仏教でもよくその解脱の境地を「童子に還る」と、つまり子供に還るっていう言い方をしてるわけだけど。もちろんここでいう子供っていうのは、本当に純粋な子供ですよ。悪ガキっていうんじゃなくてね(笑)、純粋な――言ってみればそうですね、子供って意味は今言ったように、まず周りを気にしない。ね。周りとの計算とかそういうのが一切無いと。ね。――っていうのが一つ。
 で、もう一つは、すべてをありのままに見ると。ありのままに見るっていうのは、これはよくね、例えとして出されるんだけど、例えば感受性の強い子供を動物園でもいいし、あるいは景色のいい所でもいいし美術館でもいいけど、そういう所に連れて行ったとき。じゃあ動物園にすると――本当の子供ね。言ってみれば赤ちゃんでも構わない。赤ちゃんとか一歳とか、そういう子供を例えば動物園とか何かに連れていった場合。例えば初めてキリンを見たら、どうなります? 「はあーっ……」と(笑)。「うわー」って感じで、しばらく「うわー」って感じでしょう、多分(笑)。で、ずーっと多分そうだと思います。ずーっとそうっていうのは、そこに無駄な知性が入り込まないんだね。そこで「ああこうか」っていう納得をしたりとか、「いや、これはこうだからじゃあ次を見ようか」とかそういうのがないんだね。ただ純粋に「ああー」(笑)って感じなんだね。で、お母さんが他に連れて行ったりするんだけど、またキリンのところに来たら「ああー」ってなる(笑)。この、なんていうかな、余計なこの世の計算とか合理性みたいなのに侵されない純粋な心の働きっていうかな。
 もちろんここに普通は欲望とか渇愛とかが入り込むから、われわれはおかしくなる。だからもちろんね、普通は子供っていったって過去世からのけがれは持ってきてるから、本当の純粋な子供っていうのはなかなかいないわけだけど。前生修行してたとか前生悟ってたとか以外はね。だからこれはあくまで例えに過ぎないんだけど。そういったまだ心のけがれが入り込んでない子供っていうのは、言ってみれば経験が、過去の経験や情報っていうものが、今の自分の知覚や思考に影響を与えないっていうことですね。ただ純粋にただ目の前のものがあるっていう世界だね。これが子供の境地。
 で、もちろんさっき言ったように、周りのことも気にならないと。周りが自分をどう思ってるかとか、こういうことしたらどう思われるかとか。
 ただもう一回言うけども、けがれた状態でこれをやってはいけないっていうのは、つまりもともとカルマがけがれてないから。解脱者っていうのはね。けがれてない場合は当然、悪い思い自体が湧かない。つまり放っておいても悪い思いが湧かない。心の本性からの輝けるような思考しか湧かない。あるいは悪い行動自体もしない。これがカルマが浄化された境地なわけですね。その境地で、ただ一応便宜上この世に身を置いてるっていうその境地の中で、自由に振舞ってるだけなんだね。これがこの表現ですね。

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