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「聖者の生涯 ナーロー」⑧(10)

◎カルマヨーガ

【本文】
 ティローはまた一年間、黙って瞑想し続けました。ナーローはティローの周りを敬意を持って回り、教えを懇願しました。
 するとティローは、ナーローに、女性と一緒に住むことを命じました。ナーローはある女性と付き合い、しばらくは幸福でした。しかししばらくすると、お互いにそりが悪くなり、不幸になりました。
 ティローはナーローに、カルマヨーガの教えを伝授しました。

 数日が過ぎると、ティローがやってきて言いました。

「仏陀の教えに従って出家したはずのお前が、女性と一緒に暮らしているとはどういうことだ! 自分で自分を罰しなさい!」

 ナーローは、石で自分の性器を思い切り打ちました。あまりの痛みにナーローは死にかけましたが、ティローは言いました。

「どうかしたのか?」

「欲望を追いかけた報いとして、自らの性器を打ったので、苦しんでいるのです。」

 するとティローは、

「苦痛と快楽は同一であることを知りなさい。
 すべてが一味である、心の鏡を見つめなさい。」

と言って、神秘的な力で傷を癒すと、正式にナーローという名前を与え、すべてが一味であることの教えを伝授しました。

 ここは非常に強烈な場面だね。まず女性と一緒に住むことを命じると。で、ここね、ちょっと軽く書いてあるけど、もうちょっとリアルにいうと、ここでティローが命じたのは「女を買え」と。「女を買って、結婚し、一緒に住め」ってことなんです。買えっていうのは、その当時のインドは、昔の日本とかもそうだけど、女性をお金で買うことができた。若い女性をお金で買うことができて、で、それを自分のものにすることができたと。で、その命令に従ってナーローは女性を買い、自分の奥さんにして一緒に住み始るんだね。
 もともとナーローっていうのは、最初からの物語見てれば分かると思うけど、非常に――もともとはですよ、清らかな修行者なんだね。だから生まれたときからお父さんとかお母さんに――わたしもそうだったけどね。わたしも小さいときにうちのお父さんに、全然聞かれてないのに、「お父さん、ぼく結婚しないから」って言ってたんだけど(笑)。ナーローも小さいころから「結婚しない」と言い張ってたんだね。でもお父さんとのいろんなやりとりによって一応結婚することになるわけだけど、でも結婚中も、ナーローは一切そういった性的なこととか、あるいは恋愛とかには興味がなく、もう嫌で嫌でしょうがなくて(笑)、で、八年経って「もう我慢できない!」って言って(笑)、奥さんに「もう我慢できないから、わたしはもう君と別れて出家する」と。「君はもうどこでも行っていいよ」って言うんだけど、その奥さんも非常にできた人でね――この奥さんも実は後にナーローの弟子となるんだけど、「わたしにもダルマをお与えください。わたしが女だからといって、そんな邪険に扱わないでください」と。「わたしもあなたと修行を学びたいから、妻に欠点があったと言って、わたしと別れてください」って言うんだね。で、そこでナーローはその通りに、お互いのね、両親のところに行って、「うちの妻も――書いてある通りのこと言うね――女性の欠点っていうのは数限りない」と。「うちの妻も本当に欠点だらけだから、わたしはもう別れる」と。本当は欠点とかなかったんだけど、そういうふうに言うんだね。そうしたらその奥さんに釈明の機会が与えられるんだね。「旦那はこう言ってるけど、お前はどうなんだ?」と。そうしたら奥さんが、「はい、そうです」と。「わたしは彼を騙していただけです」と。「本当はわたしは狡猾ないろんなずるい心があったんだけど、それをないふりをして騙して、彼を酷い目に遭わせました」と。「だからわたしたちは別れなければなりません」って言うんだね。で、そこで二人は別れて修行者になるわけだけど。だからそういう感じで徹底的に現世の結婚とか、そういうのを嫌う清浄な志向性がナーローにあったわけだけど、でもここでもナーローは師匠の言葉っていうのを完全に受け入れてるんですね。
 ここらへんはね、非常にさらって書かれてるけど、非常に重要な問題なんです。重要な問題っていうのは、ポリシーっていうか、根幹に関わる問題だからね。
 皆さんもね、そういうことはあるかもしれない。例えばわたしが皆さんの師だとしてね、わたしが例えば「これをやれ」とか「あれをやれ」とか言っても、結構耐えられたりする。なぜかというと、その部分には鎧があるから。それは大丈夫なんです。でも根幹的なところをやられると駄目っていうのあるでしょ? 「これだけはちょっと」っていうか。そこをつかれるわけですね。
 で、こういう問題っていうのは大体そういうことなんです。つまり例えば蓮華座五時間組むとかね、それは頑張れば耐えられる(笑)。ね。でも今まで――例えばですよ、俗世的なものを嫌ってた人が「結婚しろ」って言われたらね、「えー?」ってなるでしょ、普通は。「ちょっとそれだけは……」ってなるかもしれない。でもそれは自分の観念に完全にとらわれてるからなんだね。でもこの段階ではナーローはそれはもうなかった。つまりグルが「結婚しろ」って言えば結婚するんです。自分が昔はけがらわしいと思ってた、そういった男女関係っていうか、それもグルが命令すれば「はい」って受け入れるんだね。これが一つのここの導入の意味だね。
 で、そこでティローはそれを命令し、ナーローは言われた通りに女の子を買って、結婚生活を送りだすわけですね。
 しかし、「ナーローはある女性と付き合い、しばらくは幸福でした。しかししばらくすると、お互いにそりが悪くなり、不幸になりました」。はい、これは――いいですか?――普通多くの人が経験してることだね(笑)。つまりほんわかした恋愛の世界に入り、で、しばらくはその幸福があるが、しばらくするとそりが悪くなり、ちょっとなんか苦痛が出てくると。でもこれは――つまり人間界の大いなるカルマなんだけど、このような愛憎のプロセスね。つまり愛着とそこから生じる憎しみによって、逆にだんだんはまっていくんだね。はまっていって、ちょっと抜けられなくなるわけです。これをナーローはここで経験させられてるって考えたらいい。
 はい、ここで「ティローはナーローにカルマヨーガの教えを伝授しました」と。ここでいうカルマヨーガっていうのは、皆さんが知ってるヒンドゥー教とかでいうカルマヨーガとは違います。ここでいうカルマヨーガっていうのは、いわゆるセックスを利用した修行のことです。性的な修行のことですね。つまりセックスを利用して、エネルギーを覚醒させて解脱するタイプの修行が実際あるわけだけども。
 ただ実際ここにはトリックがある。さっきまで言ってたのは、さっきまでの話っていうのは、この教えを受けられる器を作って、そのときにイニシエーションとしていろんな試練が起きて、で、パッと教えが与えられますよっていう言い方をしたけども、ここだけはちょっと違うと思います。何が違うかっていうと、実際ここではナーローは、まだこのカルマヨーガを行なう段階ではないんだね。つまりここでいうカルマヨーガっていうのは、性的なものを使ったヨーガというのは、実際には非常に高い段階で行なわれるものであって、むやみに行なうとそれは非常にデメリットが大きいというかな。もちろん漏らしてしまうのは最悪だけども、単純に漏らさなきゃいいっていうもんでもないんだね。あるいはいろんな条件もあって、例えば細かい条件を言うとね、まあだいたい男性中心でこういうのは書かれてるわけだけど、男性中心で、女性パートナーとなる相手は例えば十六歳から二十八歳までの間でなきゃいけないとかね。あるいは生理があってはいけないとかね。つまり若くて完全に気が上がっていて、ね、で、もちろんそういう物理的な問題だけじゃなくて、精神的にも、例えばある第何段階くらいの悟りに達していてとかね、完全にものすごい厳しい条件があって。で、それをもちろん本人というか男の方もいろんな条件をクリアしてなきゃいけなくて。で、その上で正しいプロセスに則って、そういうことが行なわれるわけだけども。ナーローの場合は、まだナーロー自身も修行途上であるし、それからこのナーローが連れてきた女性というのも、その辺から買ってきた女性に過ぎないから、全然修行者でもないし、何か素質がある魂の生まれ変わりっていうわけでもない。だから全然そんな感じにはなれないんだね。なれないけども、一応ここでカルマヨーガの教えを伝授し、実際にはカルマヨーガになっていない、性的なものを含んだ夫婦生活をしばらくの間ナーローは送らされるんですね。で、これは、次のステップへの一つの前ふりのようなものだと思ってください。前ふり。で、次のステップがあるわけだね。

◎一味

 で、次のところで、数日が過ぎてティローがやって来て、「仏陀の教えに従って出家したはずのお前が、女性と一緒に暮らしているとはどういうことだ!」と。「自分で自分を罰しなさい!」と。これはまさにティローのわけ分かんなさの代表的な部分だけどね(笑)。つまりティローが言ったのにね、ティローがナーローに「女性と暮らしなさい」と言ったのに、しばらくしてやって来て、「修行者のくせに女性と暮らしてるとは何事だ!」って言うわけだね。「自分を罰しなさい!」と。
 もちろんナーローは完全にティローに身を任せてるから、ここで反論はしない。普通だったら反論するよね? 普通だったら反論するっていうのは、もちろん言ってることが支離滅裂だから反論するっていうのもあるけども――いいですか――普通だったらですよ、これ何やられてるのかっていうと、グルよりも、あるいは教えよりも、普通は大事にしてしまいそうな配偶者っていう罠を与えられてるんです。つまりある意味、大いなる罠に一旦突き落とされてるんです。例えばそれがなければ普通だったら、どんなことがあっても師匠に従いますと。どんなことがあっても、わたしは何よりも解脱の方が大事ですっていう人がいるわけだけど。
 実際わたしはそういうパターンをよく見てきた。そういうパターンっていうのは、素晴らしい素質を持った修行者が、恋愛にはまり、性欲にはまり・・・・・・で、この間までは、「わたしはもう神しかいません」とか言ってたのが、「いや、わたしは彼女を幸せにするためだったら」とかね(笑)、そういうちょっとなんか――まあ別に相手の幸せを願うことはいいことだけど、ちょっと方向性が変わってきたかなって感じになってきて、で、さらに過ぎると、「なんかもうわたしは修行はどうでもよくなりました」と。まあそれがいつも言うように、スワーディシュターナの恐ろしさなんだけどね。このスワーディシュターナの世界にはまると、ものが見えなくなります。非常に動物的になってしまうっていうか。修行もできなくなる。
 で、つまりここでは何をいいたいのかっていうと、ティローはナーローをわざとスワーディシュターナの世界にはめさせてるんです。で、そこでこのような理不尽な態度にでてるんだね。で、普通だったら、皆さんだったらね、ここにはまっちゃったら多分反論すると思います。「え! 何言ってるんですか! あなたが言ったんじゃないですか!」と。それはなぜそう反論するかっていうと、言ってることが支離滅裂っていうのもあるんだけど、こっちの――つまりパートナーに対する執着が大きくなってるからなんです。だからこれを阻害する言葉っていうのに反論したくなるんです、普通はね。これがだから異性の怖さっていうか、スワーディシュターナの怖さだね。でもここに、この罠を与えられて、もうまんまとナーローははまってるんです。
 あのね、このナーローの物語の、皆さんに一つの読み方のポイントを言うと――ちょっとこれは高度な話になるけども――このような罠には実は、すんなりはまるタイプは早く修行が進みます。すんなりはまるタイプっていうのは――はまんないタイプもいるんだね。ちょっと知性があるっていうか、知性があるっていうよりも防御の習性があると、例えば師匠とかが何かやってきた場合に、「ん? ちょっとこれ、なんかあるかもな」って感じで、ちょっと防御を張って、あまりはまりすぎないようにするとかね。なんかそういうのがあると、うまく仕掛けができないんだね。でもナーローはここで存分にはまってるんです。存分に、師匠の命令だっていうことで、存分に配偶者との、妻との執着と恋愛とその裏側の嫌悪ね。愛憎の世界。あるいは性欲の世界にどっぷりはまってしまった。はまってしまいながら、師匠をとってるんです。これがだからここの一つの意味だね。
 はい、そこでその師匠が言ったのが、「自分で自分を罰しなさい!」と。ね。これもまたもうちょっとリアルにっていうか細かく言うと、ここでナーローは――これはもちろんティローの差し金だったわけだけど、差し金によって間違ったカルマヨーガをやってたがために――間違ったカルマヨーガをやると、これは皆さんに警告しておきますけども、この中でももしかするとそういうのに興味ある人がいるかもしれない。つまり性的なことをやって修行を進めたいっていう人がいるかもしれない。もし皆さんがそれをやった場合、おそらくそれはほとんど間違ったやり方になります。間違ったそういったことやってるとどうなるかっていうと――つまりもちろんさっきも言ったように、漏らしてたらもう最悪ですよ。漏らしてたらそれは単にエネルギーが、徳がどんどんなくなって、修行なんかできなくなります。じゃなくて、漏らさなかった場合。漏らしてないんだけど、でもそれが正しいやり方じゃなかった場合、単純に強まった性エネルギーがこの性器の辺り、スワーディシュターナの辺りに溜まるだけになります。それは別に悟りとかには還元されないっていうか。その場合その人はいつも――まあ男性の場合ね、勃起してるようになります。
 これはね、ただちょっとまた勘違いしないように言っておくけども、修行の初期段階――初期段階っていうかな、あるステージにおいては――ちょっと変な話だけどね、男性の場合、しょっちゅう勃起します。つまりエネルギーが強まってきたんだけど、ちょっとそれがスワーディシュターナに滞りがちな場合ね。なんかしょちゅう勃起するような時期があるんだね。これはね、別にいいことです。喜んでください。つまり生命力が強まってきたってことです。強まってきたけど、まだここから上がりきれてないんだなっていう段階だね。
 そうじゃなくて、悪い意味でスワーディシュターナとかに性エネルギーが集中しすぎた場合、その修行のあるステージっていう意味じゃなくて、悪い意味でいつも勃起してるようになります。で、それを「罰しろ!」って言われたんだね。で、そこでナーローはなんの躊躇もなく、石を持ってきて自分の性器を打った。そこであまりの痛みに気を失ったって書いてあるんだけど(笑)。
 で、そこでティローが与えた教えが、「苦痛と快楽は同一であることを知りなさい。すべてが一味である、心の鏡を見つめなさい」。――これは一つの究極の教えなわけだけども、すべては一味ですよ――よくさ、最近精神世界とかでね、「すべては一つですよ」「ワンネス」とか言うけども、それはまさに真実なんです。しかしこれを本当に悟るのは大変なことであってね、曖昧な世界じゃないからね。曖昧に、「はい、あなたもわたしも一つですよ。すべては一つなのです」――こういう世界ではない。つまりこの究極の経験をここでナーローはさせられてるんだね。つまり、身体の最高の肉体的エクスタシーであるセックス、これを徹底的に経験させられた後に、その同じ性器を使って――つまりそうですね、男性だったらね、もう最悪って思うかもしれない(笑)。男性だったら、性器を石で打つと。同じところを使って――つまりものすごく感覚が敏感な場所に対するものすごい苦しみを味わったと。つまりこの二つが――いいですか?――一つであると感じられるぐらいじゃなきゃ駄目なんです(笑)。で、逆にいうとこの境地にナーローはここでもう達したんです。つまりセックスしてたとしても、同じ性器を打ちのめされたとしても、その二つが一つであると。どっちかが苦であり、どっちかが楽であるなんてものはないっていう状態に、ナーローは達してたんだね――達してたっていうか、達したとういうか。
 このようにこの話っていうのは、非常に高度であると同時に、一般的にはわけが分からない。わけが分からないけども、そこからわれわれはエッセンスだけ汲み取ればいいと思います。皆さんはだからこういうことする必要はないからね。そういうことしても別にナーローの境地には達せられないと思う。だから一つの非常に極端な例としてこれを受け取って、われわれもその境地を目指せばいいと思うね。
 これのね、ミニマムなかたちのことっていうのは、よくチベットとかではやったりするっていうんだね。どういうことかっていうと、例えばですよ、自分の大好物の美味しい食べ物と、それからものすごいまずいもの、あるいはちょっと腐ったものとか、普通食べるものじゃないようなものを一緒に食べたりするんだね。で、それによって自分の中の美味しい・まずいっていう感覚を平等にしていくっていうか。これも一つの極端なやり方だけどね。それも別にやる必要はないんだけど。
 じゃなくてわれわれの場合は、さっきも言ったように、自然に祝福によって日々生じるいろんな出来事の中で、その苦楽の平等性を追求していけばいいと思う。つまりいろんな起きる、自分が習性によってね、「あ、これは嫌だ」とか「苦しい」って感じる現象も、あるいは「あ、これはいいな。楽しいな。こうなったらいいな」って思う現象も、すべて平等にしていく。あるいは細かく言えばいろいろあるけどね。褒められることも、けなされることも一つであると。この境地を目指すんだね。
 実際、幻身のヨーガの修行とかでそういう修行があるんだけど。どういう修行かっていうと、まず瞑想段階で、褒められること、そしてけなされること――これはわたしにとって一つであると。つまりどちらが来たとしても、褒められたからってわたしは心が喜ぶわけじゃないし、けなされたからって何か悲しんだりもしないと。どちらもわたしにとって一つなのである――っていうことを、徹底的にいろんな思索によって瞑想によって固めるんだね。で、完全に「よし! 固まった!」って思ったら、今度は人々の中に入っていくっていうんです。つまり自分をけなしそうな人、あるいは褒めそうな人とかの所に行って、「やあ!」っていって、いろいろ言われるんだね。で、そこで大体失敗するんです。やっぱり褒められちゃうと「おっ!」ってなっちゃうし(笑)、けなされるとちょっと落ち込むし(笑)。そこで「ああ、駄目だった」ってなって、また戻って瞑想で「同じである」ってやるんだね。これは一つの修行としてあるんだけど。
 だからみんなの場合はさ、そういうね、いつも唱える『バガヴァッド・ギーター』の詞章とかもそうだけど。あるいは『心の訓練』の教えとかもそういうのがいっぱい書いてあるけど、そういうかたちで教えによってまず苦楽や、あるいは「これがいい、これが悪い」っていう二元性をね、平等にしていく教えをしっかり学んで、で、その通りに日々の現象を当てはめて、自分の中でそのような――つまりね、われわれはこの苦楽に対する渇愛と嫌悪によって輪廻に結びつけられてるから。単純に言うとね。だからわれわれをこの輪廻に結びつけてる、「これは楽である。よって欲しい。渇愛、執着」――この流れと、「これは苦である。よってわたしは嫌なんだ。嫌悪」っていうこの流れね。この二つを断ち切らなきゃいけないんだね。この二つが平等であるっていう境地にまで辿り着かなきゃいけない。
 これはだからナーローの場合はちょっと非常に極端な形でこれが導かれたわけだけども、われわれはいろんな形で日々その仕掛けが、実際にもう今の段階でやってきているので、その中でわれわれの知性を使ってね、純粋な心と知性を使って、日々のいろんな現象をね、こういったすべての平等性、「すべてが一つの味である」ということを悟るための現象として使うように気をつけたらいいと思いますね。
 はい、で、ここで正式にナーローという名前が与えられましたっていうことですね。

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