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「智慧の完成」

第九章 智慧の完成

【解説】

 さあ、いよいよ智慧の章に来ました。
 この智慧の章こそこの論書の最も重要部分と考える人もいれば、逆に、この章は後世に挿入されたものであるという節もあるようです。
 どちらにしろ、具体的実践的な菩提行について論じている本書の中で、哲学的追求に終始しているこの章は少し異色な章といえます。

 こういった空性の悟りの世界の話については、解説は多くはしないようにしたいと思います。なぜならそれらはあくまでも個々人によって実際に悟られるべきものであるからです。

 ですからこの章は、他の章に比べて、極端に解説を少なくさせていただきます。

 ただし本文については、私の独断で、金倉氏や中村氏の訳文を、かなり変えさせていただいています。

【本文】

 この幾多の装備の全てを、ムニは、智慧を得るためにお説きになられた。だから、苦しみを滅ぼそうと願うならば、智慧を生ずべきである。

 真理には、「隠された限定的真理」と「至高の意味の真理」の二種があると認められている。全ての認識の対象を越えたものは「至高の意味の真理」であり、認識(分別)によるものは「隠された限定的真理」といわれる。

 これによって、二種の世間が認められる。ヨーガ行者の世界と、俗世間とである。
 俗世間は、ヨーガ行者の世界によって否定せられる。

 のみならず、ヨーガ行者の中でも、智慧の優越によってそれぞれ優れた者が、(劣れる者を)否定する。それは両者(否定する者と否定される者)が、ともに是認する例証によってである。
 (全てが無自性なるに関わらず、菩薩が活動を停止しないのは)、成就されるべき結果に向かって、彼らが猶予なく(前進するからである)。

 世俗者は存在物を真実と見、また分別する。そしてそれらを「幻の如し」と見ない。ここにヨーガ行者と世俗者との論争がある。

 直接に知覚せられる物質等すらも、世俗の常識的慣習に基づいて知覚されているのであって、正しい根拠に基づいているのではない。あたかも、不浄物を清浄な物とする常識が誤っているように、これは誤りである。

 そして、世俗の人を(至高の真理に)導きいれるために、主は、(五蘊や十二処などの)存在物を説かれた。
 それらは「至高の意味の真理」からすれば刹那に生じ滅するものではないが、「隠された限定的真理」からすれば刹那に生じ滅するものである--というならば、(一般の理解に)矛盾しよう。

 しかしヨーガ行者は(「存在物は生じ滅するものである」と言う時には)、「隠された限定的真理」によって観察しているのだから、過失はない。(しかし同時に、彼らヨーガ行者は、世俗者よりも深く)真実を見る。
 もしそのようでなかったならば、(たとえば)女人は不浄であると説く場合に、世俗の人々を損なうことになるであろう。

【解説】

 ヨーガ行者というのは、ハタ・ヨーガ等の修行者という意味ではなくて、ヒンドゥー教であろうと仏教であろうと、瞑想家、修行者のことを、広い意味で一般にヨーガ行者といっています。

 「至高の意味の真理」を観るヨーガ行者にとっては、この世の全ては幻のごとく、空性です。そしてそのヨーガ行者の理解・悟りにおいても、段階があります。
 しかしこの最高の真実は、いきなりそれを説いても、人々には利益がありません。よってまずは、各人が理解できる段階から説いていくわけですね。それを「隠された限定的真理」と、ここでは表現しました。
 たとえばレントゲンを撮れば、我々の体の中に、骨や内臓があるのがわかります。これは「事実」ではありますが、同時に、別の観点から見れば、それらは存在しません。
 よくいわれる輪廻の問題もそうですね。輪廻転生は本当にあるのかないのか。
 我々が生きているこの世を「ある」と考えるならば、輪廻転生もあります。
 しかしこの世が夢幻のような空性であると見切ることができるなら、輪廻転生も同様に夢幻の空性なのです。
 しかし、この世を「真実」と信じている人に、「輪廻転生は夢幻だ」とだけ説いてしまうと、大きな誤りが生じます。
 だから聖者は相手のレベルに合わせ、真実を明かしていくわけですね。まずは仮にこの世を「実在する」と仮定した上で、この世の現象の分析をしたりするわけです。そしてそれらを理解し、この世の法則性にのっとって正しい道を歩き、智慧が高まってきた人に対して、「しかし実は全ては空性だよ」と、より本質的な教えを明かすわけです。

 聖者は、そういう意味では、あらゆるレベルの真理に通達していなければなりません。そして相手の段階に応じた真理の説き方をするわけですね。

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