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「空性を修習せよ」

【本文】

 勝者(仏陀)も幻に等しいとすれば、どうしてそれから功徳が生ずるか(と問うなら)、
 --もし(勝者が)実在すれば、どうしてそれが生ずるか。

 もし衆生が幻に等しければ、死んだ者がどうして転生するか(というなら)、
 --それを生ぜしめる条件の集合がある間は、幻も成立している。単に長時の相続だけで、衆生がどうして真実に存在するといえるか。

 幻の人を殺したりしても、心がないから罪悪にならない(ということになるではないか、というなら)、
 --それでもそれが、心の幻を備えている以上、悪業や善業が発生する。

 マントラ等には、(幻の心を作り出すような)能力はないから、幻の心なるものは生じ得ない(というなら)、
 --幻にはいろいろな種類がある。それらはいろいろな条件から発生する。 

 一つの条件が、全てを生ぜしめる力を持つことは、いかなる場合にもありえない。「至高の意味の真理」において滅している者が、もし世俗で輪廻するならば、仏陀もまた輪廻するであろう。それならば、菩提行に何の意味があるか(というなら)、
 --もろもろの条件が断たれない間は、幻もまた滅びない。しかし、もろもろの条件が断ち切られれば、「隠された限定的真理」の意味においても、生はなくなる。妄想がないときに、誰が幻を知覚するか。

 汝にとって、幻が存在しないとき、何が知覚されるというのか。

 それはまさしく心そのものの形相であり、それが心より別のものとして真実に存在する(というなら)、
 --その幻の対象は、心そのものであり、誰が何を見るのであるか。世尊もまた「心は心を見ない」と説かれた。

 あたかも刀の刃がそれ自体を切らないように、心もまたそのとおりである。

 もし、それは灯明のように、それ自体を照らす、というならば、
 --灯明は照らし出されるということはない。暗闇に覆われていないから。青が青であるためには、水晶(が青く見えるために他の助けを要するの)と違い、他を必要としない。

 かように、ある物は他を必要とし、ある物は必要としないことが観られる。

 青は、青たらしめられない限り、青ではない。したがって、青たるべき因を必要とする(というなら)、
 --もともと本質が青である物を、誰が進んで青にしようとするであろうか。

 灯明が照らすことは、識別作用がこれを知り、会得される。しかし、識別機能が(外界を)照らすということは、誰がこれを知り、会得されるというのか。

 それが照らすか照らさないか、誰もこれを見ることはできないのである。ゆえに、それを説くことは、「子供を産めない女が産む娘の戯れ」について論ずるように、無益である。

 しかし、もし識別作用に、自己を識別することができないとしたら、どうして人は回想をすることができるのか
(というなら)、
 --他を知覚すると、それと連合して回想が生ずる。あたかもネズミに用いた毒が、後に雷鳴によって効果をあらわすように。

 他の条件と結合すれば、心は他人の心をあらわす(たとえば占い師の技術や、聖者の他心通等によって)。ゆえに、心が自己を照らし出す(事も可能である、というなら)、
 --目に魔法の薬を塗って(隠された)瓶を見ることができたとしても、それは瓶そのものを見ているというわけではない。

 (我々は「隠された限定的真理」の見地においては)、直接に経験された知識、他人から教えられた知識、推理による知識等を、拒まない。しかし、真実の立場からは、経験したことを実在と考える分別を、苦しみの原因として排斥する。

 もしも「幻は心と別のものではない」というならば、それは「別でないことはない」とも分別せられる。もしも「それは実体である」というならば、なぜそれは「心と別ではないもの」でないのか。もしも「心と別ではないもの」とすれば、それは実体としては存在しないということになる。

 幻は実在しなくても見られるように、心も(究極の立場からは実在しないけれど)、見る働きがあるのである。

 もし、輪廻は真の実在をよりどころとして現われる、というなら、
 --それは心よりも異なり、あたかも虚空のようである。

 真実に存在しないものが、実在に依存したからとてどうして作用を有するものとなることがありえようか。実に汝(の学説)では、ただ非存在を伴う心のみが存在する結果となろう。

 心が認識の対象を離れたときには、全ては如来となろう。したがって、心が「唯心である」と分別するときにまた、いかなる功徳が得られるか。

 (世界は)幻に等しいと認識しても、それでどうして煩悩が取り除かれるか。魔術の幻によって作り出した女に対し、魔術師自身が愛を感ずるということがあるではないか。
 それは、魔術師に、認識の対象に対する煩悩の潜在的可動力が断ち切られていないからである。したがって、その女を見たときに、彼には「空」の潜在的影響力が無力なのである。

 空性の潜在的理念を堅く植えつけることによって、「事物が実在する」という潜在的理念は消滅する。そして「何ものも存在しない」と反復修習することによって、後にその「空性の潜在的理念」もまた捨てられる。

 「それは存在しない」と考えられた事物を、もはや人が認めないようになれば、よりどころを失った「無きもの」がどうして心の前に現われるであろうか。

 存在するものも存在しないものも心の前に現われないときには、他によるべき道がないから、心はよりどころを失って静寂となる。

 あたかも如意珠と如意樹とが人々の願いを満たし実現するように、導かれるべき衆生(の善根が熟し)、(過去世で菩薩だったときに立てた)誓願によって、勝者(仏陀)の姿が仰がれる。

 あたかも蛇使いが、柱に調伏の呪法を行なって後に死去しても、彼の死後にも永い間、蛇の毒を消し鎮めることができるように、--菩薩行によって調伏の呪法がかけられた仏陀の柱も、その菩薩の死後も、すべての働きをなす。

 (世俗的な)心がない(仏陀)に供養して、どうして果報が得られるか(というなら)、
 --現にまします仏陀と、すでに亡くなった仏陀と、いずれに対しても(供養の功徳は)等しいと、聖典に説かれるからである。
 そしてアーガマ(原始仏典)に拠れば、それによって、あるいは世俗的な、あるいは真実の果報がある(とせられる)。
 「真の仏陀に対してなされた供養に果報がある」というのは、なぜであるか。それは、そのとおりにアーガマに説かれているからである。

 サティヤ(=苦集滅道の四つの真理)を見ることに基づいて解脱が得られる。空性を見る必要がどうしてあるか(というなら)、
 --この道以外に覚醒は得られないと、(大乗)聖典に説かれているからである。

 しかし、大乗は(仏陀の真実の教えであると)証明されていないではないか(というなら)、
 --どうして汝のアーガマは、仏陀の真実の教えと証明せられるか。

 それは、我と汝の両者ともに権威を認めているからである(というなら)、
 --それは最初から(汝が信じる前から)権威を持っていたわけではない。

 いかなる理由によって汝が自己のアーガマを尊重しようとも、それと同じ理由によって、大乗を尊重せよ。もし、我々両者以外の他の異教も真理であるとするならば、ヴェーダなども真理であるということになってしまうであろう。

 もし、「大乗は論争があるから、大乗聖典は捨てるべきである」というならば--汝は自己のアーガマを捨てるべきである。なぜなら、汝は外道と論争するのみならず、(同じ小乗の中で)自派の人々と論争し、他派の人々と論争をなすから。他のアーガマも、(同じ理由で捨てねばならない)。
 
 仏教はビクシュたることを根本としている。しかし、心が対象に執着している人々には、真のビクシュたることは困難である。またニルヴァーナも困難である。

 もし煩悩の放棄によって解脱が実現されるというならば、解脱は、直接それに引き続いて現われねばならぬ。しかし、彼ら(煩悩を放棄した人々)の中に、煩悩を伴わないカルマではあるが、結果を生ずるカルマの力のあったことが、(アーガマに)明らかに示されている。

 もし彼らに渇愛、取著がすでにないと断定するなら--煩悩とは結びつかないとしても、無智と同様に、彼らに渇愛がないということが、どうしてありうるか。

 渇愛は感受を条件としている。しかるにその感受が、彼らに認められる。さらに、対象を伴う心は、あちこちに関わらざるを得ない。

 空性(の自覚)なくしては、心は繋縛せられる。そして再生(の苦しみ)を受ける。あたかも無想定(の瞑想)において、一時的に心の働きが滅しても、再びまた生起するように。ゆえに、空性を修習せよ。

 「対象に惑い悩める人々は、(空性の教えを聞いて)愛着と恐れを起こすがゆえに、対象の束縛から離脱しないで、輪廻界に住みついてしまう。これが空性のもたらす結果である」--と、空性の教えに対するかような非難は、根拠がない。だから疑うことなく、空性を修習すべきである。

 空性の教えは、煩悩による障害と、全智を妨げる障害の、闇を対治するものである。ゆえに、全智を欲する者は、なぜそれを速やかに修習しないか。

 苦しみを生ずる事物に対して、恐れは生ずるであろう。しかし空性は苦しみを鎮める。どうしてそれに恐れが生ずるか。

 もし私がなんらか(実在する)ものであれば、あれやこれやに対して恐れも生じよう。が、私はなんら実在物でないとすれば、誰に恐れが生ずるか。

 歯、毛、爪は私ではない。骨もそうでなく、血も私ではない。鼻水も、痰も、膿も、唾もそうではない。

 汗も脂も腸も私ではなく、内臓も私でなく、大便小便も私ではない。

 肉も私ではなく、筋も、体温も、風(呼吸、生命エネルギー)も、私ではない。(目等の)孔も私でなく、眼耳鼻舌身意の六識もすべて私ではない。

【解説】

 本文が長く続きましたが、ここは細かい解説はしません。各自でお読みください。

 この文の前半においては唯識派を、後半では原始仏典を奉ずる人たちを対象に、空性の教えの重要性が論じられています。このように対象を設定した論争的内容は、大乗仏教の論書によく見られるスタイルですね。しかしその論争的論理展開に眼を奪われるのではなく、頭をやわらかくして、この章が伝えたい真意を受け取ってほしいと思います。
 もし受け取れないならば、あるいは誤解しそうならば、無理せずに、まずは第一章~第八章までの内容を、繰り返し学び、実際に繰り返し実践すべきでしょう。その方が、この「智慧の完成」の章を論理的に理解しようとするよりも、実際に「智慧の完成」に近づく早道だと思います。

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