yoga school kailas

「恐怖・後悔・決意」

【本文】

 昼夜絶え間なく寿命はますます減少し、しかも増加の生ずることはありえない。私の死なないことが、どうしてありうるか。

 ここに寝床に伏しながら、また親戚の間にありながら、私はただ一人で断末魔等の苦しみを忍ばねばならない。

 ヤマ(閻魔)の使者につかまれたときに、どこに親戚が求められ、友人が求められるか。ただ福善のみが、私を救いうる。しかも私は、それを修めなかった。
 
 師主よ。無常の生命に愛著して、この来るべき悲惨事を知らず、怠惰なる私は、多くの罪悪を犯した。

 今もし、(何かの刑を宣告されて)手足を切断されるために引きたてられていくとしたら、人は気力を失い、のどは渇き、目はくらみ、世界を転倒して見るだろう。

 ましてや、恐ろしい形相のヤマの使者に駆使せられ、大いなる恐怖の炎に呑まれ、糞便の排泄にまみれるにおいては、なおさらであろう。

 臆病なまなざしで四方に救いを求めるとき、どんな善人が、この大危難から私を救うであろうか。

 四方に救いがないのを見て、私が再び惑いに落ちたとき、この大危難の状態において、私は何をなしうるであろうか。

 まさに今私は、大いなる力がある世界の師主、世界救済のために精勤し、一切の恐怖を取り除く勝者(如来)に、帰依し奉る。

 また彼らが証得し、かつ輪廻の危難を滅ぼすところのダルマに私は帰依する。菩薩方に対してもまた、心から帰依する。

 危難におののく私は、サマンタバドラに我が身をささげる。また妙音(マンジュシュリー)に対し、自ら我が身をささげ奉る。

 また常に慈悲に満ちてあり給うローケーシュヴァラに向かって、私は恐ろしいままに、苦悩の声をあげて呼びかける。悪人の私を守りたまえ。

 さらに聖なるアーカーシャガルバとクシティガルバとに、またすべて大慈悲心あるものに、私は心から救いを求めて呼びかける。

 また、それを見ればヤマの使者等の悪鬼が直ちに恐れて四方に逃れ去る、ヴァジュラダラに私は帰依する。

 これまで私はあなた方の言葉にそむいてきた。しかし今、危難がわかったので、恐ろしいままにあなた方に帰依を表する。速やかに危難を除きたまえ。

 一時的な病にかかったときですら、人は恐れて医師の言葉にそむかないであろう。まして、四百四病におかされるにおいては言うまでもない。
 それは、その一つによってもジャンブ州(人間界の一つのカテゴリー)すべての人が滅び、しかもそれには、治療の薬がどこにも得られない。

 ただしここに、一切の苦悩を取り除く全智の医師がいる。私がその言葉にそむくとは。ああ愚かしき限りの私なるかな。

 他の険峻を前にすれば、私は極めて注意深くそこに立つ。まして、永く逃れがたい千ヨージャナの険峻(地獄)を前にしたならば、なおさらである。

 今にも死が起こらないか。私は安閑としておるべきではない。終局は必ず来る。そのとき私は存在しないであろう。

 誰が私に恐怖からの解放を与えるか。いかにして私は苦しみを逃れえようか。必ず私は存在を失うであろう。どうして私の心は、安住することができようか。

 先に享受してすでに滅び去り、また、それに愛著して私が師の言葉にそむいたその享楽--それから今、どんな価値が私に残っているか。

 この生の世界を捨てて、また親戚と知己を捨てて、ただ一人どこに私は行くであろうか。すべて愛しいもの、憎らしいもの、共に私に何の役に立とう。

 不浄行(悪行)によって必然に生ずる苦しみから、どうして免れうるかと、昼夜常に考えることこそ、私にふさわしいことだ。

 愚かしく迷える私は、いくつもの罪を重ねた。それは自性上呵責せらるべき(十不善業)と、ブッダによって施設せられた呵責とである。

 これなる私は、苦しみを恐れ、師主の前に立って、合掌をささげ、幾度も平伏して、このすべてを告白する。

 導師よ、罪過を罪過として受け取りたまえ。世尊よ、かような不善を私は再び犯さないであろう。

【解説】

 これで第二章は終わりです。この部分も読むだけでも心に響く部分ですが、意味がわからない人や勘違いする人もいるかもしれませんので、ポイントのみ解説します。

 死を迎え、そして生前に積んだ悪業によって地獄に落ちようとするとき、誰もその人を救うことはできません。誰も身代わりになってくれる人はいません。それは不可能なのです。唯一つ、自分を救ってくれるのが、福善、つまり自分の功徳、良いカルマ、善業です。
 にもかかわらず、前回も書いたように、懺悔によってリアルに検討するなら、我々はほとんどの人が、多くの悪業を積み、善業はほとんど積んでこなかったのです。唯一我々を死と地獄の苦しみから救いうるものを、我々は積み上げてこなかったのです。死と共に消え去るお金や名誉やプライドや愛情などはたくさん積み上げてきたのに。
 
 そのようなことをリアルに考えれば考えるほど、我々はその恐怖におののき、そして偉大なブッダや菩薩方にすがらずにはいられません。そしてもちろん、我々自身の努力によって、善業増大、悪業浄化、そして死を超えた解脱の境地を得ることのみに、全力を突くさずにはいられなくなるのです。

 「先に享受してすでに滅び去り、また、それに愛著して私が師の言葉にそむいたその享楽--それから今、どんな価値が私に残っているか。」・・・ここは耳の痛い人が多いのではないでしょうか(笑)。
 一時的な煩悩に心奪われ、ブッダや聖者の教えや、自分の師の言葉にそむき、いろいろな享楽にうつつを抜かしてしまったことが何度もあったかも知れません。しかし、教えや師の言葉にそむいてまでも行なったその行為によって、何も価値あるものは今、自分の中に残っていないのです。あるとすればそれは、聖なるものとの縁を傷つけたということと、悪業とでしょう。そんな行為に、意味があったのでしょうか? 

 シャーンティデーヴァのこれらの一連の表現は、何もただ過去への後悔の言葉をつらつらと述べているわけではありません。「多くの悪業を積んできた我々が今死ぬとしたら」というシュミレーションによって(同時にそれはシュミレーションではなく現実でもあるのですが)、決して今からはそのような過ちは起こさないぞ、繰り返さないぞという、強烈なショックを心に与えようとしているわけですね。ですからこの経典は論書というよりは、実際に修行に役立てるための道の書として読むべきだと思いますね。

 客観的論書としてこの書を読むより、我々もシャーンティデーヴァ自身になりきって、ここに書いてあるような感情を、瞑想するのです。そして強い恐怖と後悔と決意の気持ちを意識的にわき起こさせるのです。このような恐怖と後悔は、唯一価値のある、そして最高の恐怖と後悔なのです。なぜなら有無を言わせず、我々を解脱の修行と菩薩行へと強く駆り立ててくれるからです。
 そのようなシャーンティデーヴァのシナリオを、我々も演じきるべきですね。そのような読み方をするなら、この書は最高の利益を発揮すると思います。

 「不浄行(悪行)によって必然に生ずる苦しみから、どうして免れうるかと、昼夜常に考えることこそ、私にふさわしいことだ。」・・・これもいいところですね。前にも書きましたが、このような表現は、卑屈さとは違います。逆にこれを読んで卑屈さやマイナスイメージを感じる人は、プライドが高い人かも知れません。
 繰り返しになりますが、我々は仏教やヨーガでいうところの善悪のカルマの定義でいえば、数限りない悪業を積んできたのです。それらのダルマに信があるとしたら、どうしてのほほんとしていられましょうか。信がないから、あるいは信はあってもリアルに現実的に思索をしていないから、余裕を持っていられるのでしょう。
 だから本当に、「早くこの悪業をすべて浄化したい! どうすればいいんだ!」と、いてもたってもいられなくなるほど、自分のカルマと死のリアリティを常に考えなくてはならないのです。

 ブッダ、菩薩、そして現実の自分の師などに対して、本当に心を開いて、悪業を懺悔すること。そして二度と悪業を犯さないという誓い。これによってこの章は結ばれています。この二つの思いが本当に心から強くわいて来るように、この章を何度も何度も、心をこめて読むと良いと思います。

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