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「害を与えてくれる相手を」

【本文】

 かようなわけで、この忍辱の修行の果報は、私と彼の両方によって受け取られねばならぬ。しかし彼に対して、第一に分け前が与えられるべきである。なぜなら、彼が忍辱の発端であるから。

【解説】

 「害を与える人」が出現し、それに自分が耐えることによって、「忍辱」の修行が成立します。
 ちょうどそれは、ピッチャーがボールを投げ、キャッチャーが受けることで「ピッチング」が成立するようなものです。
 よってこの修行の果報、つまりメリットは、「害を与えてくれた相手」と「それに耐えた自分」の両方によって受け取られるべきだと。そして、そもそも「害を与えてくれる人」が最初に現われなければ、この修行は発生すらしなかったのだから、まず第一に彼にこそ、その修行の功徳、メリットは与えられるべきだ、ということですね。
 
 さて、このような教えを受けても、エゴというのは嫌がるものです。仮に「苦しみに耐える修行」はできたとしても、「害を与える人」に感謝したり、修行の功徳を彼にささげるなどとんでもない、と思うかもしれません。
 そんなエゴの言い訳、反論と、それに対する智慧の答えが、次に続きます。

【本文】

 「彼には、私の忍辱の修行を手伝おうという意志はない。だから、敵をあがめる必要はない」
というなら--解脱の因である正法は、無心であるのに、なぜあがめられるか。

 「彼には加害の意志があるから、仇敵はあがめられない」
というなら--彼に加害の意志がなければ、それは友情にあふれた医師に接した場合のようになり、忍辱の修行にならないではないか。

 そこで、彼の悪しき意志を条件として、忍辱の修行が成立する。かくして、彼はまさに忍辱の修行の因である。正法のように、私によってあがめられねばならぬ。

【解説】

 まず、私に害を与えてくれた相手は、別に「忍辱の修行の手助けをしてあげよう」という慈愛によって私に害を与えてきたわけではないのだから、その相手をあがめる必要はない、というエゴの反論ですね。
 しかしそもそも、たとえば「真理の教え」そのものも、無心です。しかし私達はその真理の教えによって恩恵を受けるので、真理の教えをあがめます。
 もっとわかりやすい例で言うと、仏陀の心というのは、無心であると言われます。仏陀は、「彼らはかわいそうだから、このように救ってあげよう」と考えて救済活動を行なうのではなく、過去の修行の成果として、無心に、自然に、人々を救うのです。しかし我々はそのような無心の仏陀、そして真理の教えを、感謝し、あがめます。同様に、我々の修行を手伝おうとは思っていなかったけど、結果的に我々の忍辱の修行の手助けをしてくれた「害を与える人」に対しても、仏陀や教えに対するのと同様に、感謝と崇敬の気持ちを持つべきだ、ということですね。

 次に、「害を与える人」が、無心どころか、実際に加害の意志がある場合ですね。
 実際、「害を与えてくれる人」は、本人に自覚がなく害を与えてくれる場合と、実際に憎しみによって害を与えようという意志をもって害を与えてくれる場合がありますね。この後者の場合、無心どころか、実際に加害の意志を自分に向けているわけだから、あがめる意味がない、という反論ですね。
 しかし実際は、そのように本気で私を憎み、害を与えようとする人こそ、忍辱の修行のパートナーとしては最適なのです。
 たとえば友情にあふれた医師が、慈愛によって我々の体をメスで切るとき、当然、痛みがあったとしても、その医師への怒りは生じるはずがないので、そもそも忍辱の実践になりません。
 あるいは、本人に自覚がなく、こちらに苦しみを与えてくる人の場合、忍辱の修行の実践の相手になりますが、それよりもやはり最高の忍辱の機会は、実際に相手が自分に害意を持っている場合ですね。つまり、そのような場合、こちら側は「怒って当然だ」というエゴが発動するわけです。その条件下において、怒りを起こさずに耐えること。それこそ最高の忍辱の機会になるのです。
 だからこの点におけるエゴの言い訳、つまり「相手に害意があるから、あがめられない」という反論も、成り立たないわけですね。害意がある相手こそ、最も忍辱の修行に適したパートナーなのですから。

【本文】

 「衆生は幸福の田地であり、勝者(仏陀)は幸福の田地である」と、聖者は説かれた。なぜなら、これらに帰敬して、多くの人々が幸福の彼岸に達したから。

 衆生からも、仏陀からも、等しく仏陀の法に達しうるからには、
「勝者に対しては尊敬するが、衆生に対して尊敬はない」
という順位が、どうしてありうるか。

 そして、意志の偉大さは、それ自体からではなく、もたらす結果からはかるべきである。したがって衆生の偉大性は(勝者のそれと)等しく、彼らは(勝者と)同等である。

 衆生の偉大性とはまさに、それに人々が供養をささげる慈愛の意志であり、ブッダの偉大性とは、まさに、ブッダに対して自らの心を清めることから生ずる功徳である。

 それゆえ、衆生はブッダの特質を一部分得ていることで、勝者(ブッダ)と等しい。しかし、いずれの衆生も、無限の部分よりなれる徳の海たるブッダに等しくはない。

 もっぱら徳の精粋を積み重ねた者(ブッダ)の、徳の微分でも、ある衆生に認められるならば、彼を供養するために、三界をもってしても十分ではない。

 衆生の中に、ブッダの法の出現の、最も優れた小部分が認められる。この部分に順応して、衆生に対する供養がなされるべきである。

【解説】

 衆生と仏陀は、「幸福の田地」と呼ばれます。つまり彼らをよりどころとして、幸福の芽が生じ、成長し、実際に幸福の果報が生じるからです。

 仏陀は我々に、教えを与え、修行法を与え、あるいは神聖な波動を与えることで、導いてくれます。
 そして実際の修行においては、我々は衆生を--つまり他者をよりどころとして、修行を進めるのです。他者がいなければ、布施の実践も、持戒の実践も、忍辱の実践も、慈悲の実践もできないわけですから。
 
 つまり仏陀と、衆生(他者)と、その双方の存在によって我々は解脱できるわけですから、この二つのうち、仏陀に対しては感謝・尊敬し、衆生に対しては感謝・尊敬しない、というのは不合理である、という理論ですね。

 「衆生は仏陀の特質を一部分得ている」--この言葉には、二つの意味があるのではないかと思います。まずひとつは、今まで説明されてきたように、衆生の手助けによって自分の修行が進むのだから、という意味ですね。
 そしてもう一つは、たとえば優しさとか、智慧とか--それは仏陀に比べたら微々たるものでしょうが--しかしその一部とも言える徳を、誰でも持っているものです。ならばその部分に感応して、彼をあがめるべきである、という意味ですね。
 
 しかしそのあらゆる徳の相を完全に備えた仏陀と、一部分しか具えていない衆生は、同じではないのです。

 もう一度書きますと、衆生は、仏陀の徳の一部分を具えているという理由によって、仏陀と等しいのです。
 しかし、一部分しか具えていないという理由で、仏陀と等しくないのです。
 この辺の理論は一見矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、柔軟な思考で理解してください。

 衆生はまさに仏陀のように尊敬されるべきなのです。
 しかし仏陀以上に尊敬されるべきものはないのです。

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