yoga school kailas

「全肯定の道」

◎全肯定の道

【本文】
至高者はこうお説きになった。
『わたしに対して何の疑念も持たぬ君に、これから最高の秘密の叡智を授けるが、
 それを知ることによって、君は悪と苦悩から完全に解放されることであろう。

 はい。さて、こうして秘密が明かされると。ちょっとさっきも言ったように、内容的には前に解説したようなことが繰り返されるので、若干いつも以上にね、いつも自由な感じだけど、より自由な感じで解説しますが。
 「何の疑念も持たぬ君に」とありますが、結局バクティ・ヨーガの道においては、疑念というのはまさに悪魔の罠というか。バクティ・ヨーガが崩れる原因となるものなんだね。
 例えばそうじゃなくて、現代的な知性の道においては、正しい疑念っていうのはもちろんあるよね。「これでいいのだろうか」と。あるいは、「これは本当にこうなんだろうか」と。こういうような疑問を持って、それに対して「こうなんじゃないか」って展開していく。これは科学の道もそうだし、あるいは修行とか宗教においてもそういう道もある。
 ジュニャーナ・ヨーガはよく否定の道といわれる。「これはどうなんだろうか」「これは私の本質ではない」「これはどうなんだろうか」「いや、これも私の本質ではない」と。でもバクティ・ヨーガっていうのは、否定の道じゃなくて、全肯定の道なんだね。同じ真理を追求して、同じ真理に到達するんだけど、やり方が真逆なんです。
 つまりジュニャーナ・ヨーガのやり方っていうのは、私とは何であろうかと。肉体であろうか。いや肉体ではない。なぜかというと、こうこうこうだと。感覚だろうかと。いや、感覚でもないと。感覚というのはこうこうこうだと。これだろうか、これだろうかって全部やっていって、すべてを否定していく。すべてを否定したときに現われる本質みたいなものがある。それにそういう感じで到達しようとするのが、ジュニャーナ・ヨーガ。
 仏教っていうのはいろんなやり方があるけど、仏教の基礎的なやり方というのは、やはりこれに近いね。五蘊無我とか、四念処とか。人間やこの世界のいろいろな要素を一つ一つ取り出して、すべて否定していく。
 じゃなくて、バクティ・ヨーガっていうのは全肯定の道なんです。つまり、これは本質ではない――じゃなくて、これも神。これも神(笑)。ね。わが肉体も神だと。他人の肉体も神だと。感覚も神だと。わが経験はすべて神の現われであると(笑)。全肯定なんだね。
 これだけはちょっとちがうとか、そういうのはない(笑)。一切疑念をはさんじゃいけないというか。ここら辺がちょっと難しいところがあるんだね。

◎無知の知

 前も言ったけど、現代人にとっては、純粋な信仰というか、そのフィーリングがなかなかないというかな――ないというか、ある人が少ないというか。信仰という言葉に対するあまりよくないイメージが、特に日本人とかにはあるから。「すべて疑念をはさまずに、すべて神を信じる」となると、「ああ、それは妄信じゃないですか」とか、あるいは「それは思考停止じゃないか」っていう感覚に陥るんだけど、そうじゃないんだね。
 そうじゃなくて、もうちょっと高度なものの見方なんです、これは。
 何回も言っているけども、私はジュニャーナ・ヨーガ的な、「いや、これは違う、これは違う」と。「こうじゃないか」――その道から入って、最終的に「あ、すべて神だ」と(笑)。そういうところに行き着いた。ね。でもそうじゃなくて、最初から純粋なバクティ・ヨーガ的なセンスがある人は、最初からそれができる。すべては神であると。
 この道を行く上においては、疑念は差し挟んじゃいけないんです。ちょっとでもね。「あれ? これはこうじゃないんですか?」と――例えば、それぞれの段階があるだろうから一概には言えないんだけど、自分が見ている智慧の段階でね、すべては神であるっていう一つの考え方があったとして、それをちょっと崩すような考え方とか――極端に言えば――そのような言葉さえ聴いてはいけない。そんなことを考えてもいけない。
 修行っていうのは結局――これはどんな修行でもそうなんだけど――「自分は無智である」っていう自覚が必要なんだね。
 これはよく言われる、ソクラテスの「無知の知」っていう言葉があるけど。私は自分が無智であるということを知っていると。だから他の人よりも一つだけ多く知っているんだと(笑)。ちょっとだけ知者だと。ね。自分が無智だと知っていると。
 お釈迦様もこういうことを言っていますね。「自分が愚者――つまり、愚か者であると知っている愚者は知者だ」と。ね。「愚か者でありながら、知者だと思っている者は愚か者だ」と(笑)。面白いことを言っているね。

◎信がすべてのスタート

 いつも言うように、現代のわれわれは、情報化社会だからいろんな情報が入ってきて、情報イコール智慧だと思っている。情報って智慧じゃないですからね。情報はただの情報に過ぎない。その情報が本当にリアリティをあらわしているかどうかは別問題。
 でも現代の人っていうのは、情報を集めることが智慧だと思ってしまっている。情報を集めましたと。「はい、じゃああなた分かってるんですか」と。「はい、分かってますよ。こうでしょ、こうでしょ……」って情報の寄せ集めに過ぎないっていうか。
 智慧っていうのは、眼を開くことなんだね。私のこの眼を開くことが智慧なんです。心の眼をね。でもそうじゃなくて、単なる情報を――「はい、はい、はい、私は知っています、知っています」。「え? 見たんですか」と。「いや、書いてありました」と(笑)――こういう世界なんだね、現代の智慧っていうのは。じゃなくて、心の眼を開かなきゃいけない。
 そういう観点でいったら、誰もがね――誰もがというか、少なくとも私は、私たちは無智だと。ああだこうだいろいろ教わったけども、実際にリアリティをもって悟りを得ているわけではない。この世の本質を本当に分かっているわけではない。だから修行しなきゃいけないんだと。だから私は、まず謙虚な態度で、ある道に入ったらその道に全身全霊をこめて従わなきゃいけないんだと――こういう発想が必要なんだね。これを仏教の言葉でよく「慙愧」とかいうけども。ちょっと難しい字で慙愧っていうんですけども。自分はまだまだだと。自分は全然何も知らないんだと。よって、努力してその道を歩まなきゃいけないんだっていう気持ちだね。
 だからこれはバクティ・ヨーガじゃなくても、全てそうなんだけど――ジュニャーナ・ヨーガでも仏教でも、全部そうなんだけど――その態度がまずなきゃいけない。その考え方でバクティ・ヨーガの道に入ったら、何度も言うけども、疑念を差し挟んじゃいけないんだね、バクティ・ヨーガの場合は。完全に純粋な信仰というか、純粋な信の中に自分を置かなきゃいけない。その純粋な信っていうのは、また修行を進めるごとにどんどんグレードアップしていくんだけどね。そのグレードアップしたものを、決して変な疑いでけがしてはいけない。
 これはバクティ・ヨーガだけじゃないけど、密教とか仏教とかもそういうのがあるんだけどね――例えば密教とかではちょっと厳しくて、例えば自分の師匠とかあるいは仏陀でもいいけども、それに信仰を持って一生懸命頑張っている修行者がいたとして、その仏陀とかあるいは仏教が説く真理に対して、疑いを持っている人、あるいは信仰がない人と、一緒にいてはいけない――ぐらいのことまでいうんだね。それによっていろいろ影響を受けてしまって、せっかくのその道がだめになってしまうと。これは言っていること、多分分かってくれていると思うけども、そのシステムに入ったら、そうしなきゃいけないんです。それが一番いいというか。
 いったんそのシステムに入ったら、そういうふうにセッテイングしなきゃいけない。いったんそのシステムを邪魔するものから自分を離して、そのシステムに自分を完全に委ねなきゃいけない。で、この密教とかバクティ・ヨーガの道では、「純粋な信仰」というのが、非常に重要になるんです。これは何をおいても優先される信仰です。
 カイラスの人っていうのは、結構そういうセンスがある人が多いね。何をおいても優先されるっていうのは、「こうだったら嫌だな」とか、そういうのはないんです。師匠と弟子の関係で言うと分かりやすいんだけども、例えば、その師匠に弟子入りする前は全く自由です。その師匠を別に批判してもいいし、疑いを持っても全く構わないんだけども、いったんその関係が確立されたら、決して条件によって師を否定してはならない。例えばどういうことかって言うと、「うちの師匠はこういうふうに謙虚で、質素で、しかもいろんなことを知っていて、智慧も高くて。いやあ、すばらしい」と。で、ある時、師匠の嫌なところを見てしまった場合。「これはちょっと許せない」とか。「こうだから私はもうあなたについて行きません」とか――これは駄目なんだね。仮に嫌なことをやっていたとしても、自分の観念の外にあることをやっていたとしても、「それは全く問題はありません」と。「自分を委ねます」と。
 これは一人の人間として、分かりやすいから例に挙げたけども、そうじゃなくて、ここに書いてあるクリシュナとか、あるいは自分が感じた自分のレベルでの、ここに書いてある「神」というものの理解ね。この道に入ったならば、疑念を生じさせてはいけないよと。逆に言うと、そのような疑念を持たずに一心にバクティの道に励む者に、最高の秘密が明かされると。
 今日はかなり自由な感じで話しているけども、私は実際はなんでもそうだと思うね。「信」がスタートです。ちょっとかっこいいことを言うと、「信」によってすべては始まり、「疑念」ですべては終わる――という私の言葉があるけども(笑)。例えば、何かスポーツのコーチにつく場合でもね――もちろんそれが成功か失敗かは別なんだよ。変なコーチについちゃったら終わりだけど(笑)。優秀なコーチ、もしくは良いところも悪いところもあるコーチについたとして、自分の好きなところだけ取り入れて、ちょっと嫌なところは「それはいいです」っていうやり方だとさ、いかにコーチが優秀でも、その人の弱点を克服するとかね、そういうことはなかなかできない。完全に信じて、全部自分を委ねるような感じで、そのコーチでもいいし、あるいは何らかの道に対して全力でぶつからないと、なかなか道は開けないと思うんだね。それがさっきから言っている「無智の智」というか。自分は少なくとも知らないことが沢山あると。経験してないことが沢山あると。だから完全に謙虚になって、自分をそこに委ねないといけないんだと。こういう基本的な発想だね。
 これは現代の人はすごく弱いと思うんだね。変なプライドがあるから、現代の人っていうのは。だから修行においては、低いプライドっていうか、そういうのはなくさないといけないね。そうしないとなかなかこういった秘密の真理というか、真髄みたいなのはなかなか明かされない。

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