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「三つの困難なる行」

◎三つの困難なる行

【本文】
六.自己の煩悩の認識・煩悩の捨断・煩悩を持続させないことという、三つの困難なる行を実践してください。

 これは「困難なる行」と書いてあるわけだけど、この三つね。「煩悩の認識、捨断、そして持続させない」――つまりまず、しょっぱなから難しいです。「煩悩の認識」――これは念正智につながるわけだけだけど、二十四時間――理想を言うよ、理想としては、二十四時間、自分の心を観察して、煩悩が出てないかをチェックするんだね。

 でもさっき言ったように、潜在意識っていうのは、エゴというのは詐欺師みたいなもんだから、われわれがちょっと気を抜いた瞬間に、ガーッと煩悩増大します。で、知らぬ間に煩悩でいっぱいになってる。ここでいう煩悩っていうのはもちろん、執着とかだけじゃなくて、嫌悪とか怒りとか、あるいはプライドであるとか、嫉妬であるとか、いろんなのがあるよね。そういうのがもう、ちょっとした隙にガーッて出てくる。で、自分を日々観察することをしてないと、もうそれで気づかぬうちにいっぱいになってしまう。

 だからそうじゃなくて、常に自分をチェックして、「あ! 煩悩が出た! 今自分の中にはこのような悪しき思いがわいているんだ」っていうことを、まずは認識する。これが第一の困難な行なんだね。

 つまり難しいんです、これは。自分を認識するっていうのは、とても本当は難しいんだね。「認識しろ」って言われたらできるよ。例えばわたしが、「はい、じゃあ今、あなたたちの心の中を見てください」と。「さあ、どうでしょうか」と。あるいは時間を決めてたらできるよ。「毎日、夕方六時から十分間、自分の心を認識しましょう」――これはできるかもしれない。でも「二十四時間やれ」って言ったら、ちょっと難しいね。最初はいいかもしれないけど、すぐ忘れる。だから困難って書いてあるんだけど、でもそれをわれわれは努力しなきゃいけない。努力して自分の心を認識して、煩悩の出現を許さないようにする――というよりも、出てくるのはしょうがないんだけど、それをまずは認識できるようにする。これが第一ですね。

◎煩悩の捨断と、持続させないこと

 そして第二が「捨断」。つまり、出てきたものをしっかりと捨てると。これは難しいと。つまり認識するのがまず難しいんだけど、次に認識したからって捨てられるわけじゃない。ね。例えば何かがあって、ウワーッて人に嫉妬してしまったと。最初は嫉妬してることにあまり気付かない。で、ハッとして、「あ! 今嫉妬が出てる」と。「この嫉妬は醜い感情であって、修行者や菩薩としてはあるまじき感情だ」と。「でも嫉妬が消えない」と(笑)。こういうときがあるわけだね。だからこれもまた困難だと。でもこれも頑張って、認識したその煩悩をしっかりと捨てなさいと。

 はい。そして「持続させない」――まあこれも捨断につながるけども、もともとわれわれの煩悩というのは――まあ煩悩というよりも心の働きっていうのは、実際は、出ては消え、出ては消えしています。出ては消え出ては消えしてるんだけども、習性によって持続してしまうんだね。

 これはいつも言ってるけど、ちょと変な言い方すると、一生懸命われわれ自身が持続させてる感じなんです。例えば今の嫉妬でいうと、「あー、嫉妬が出た」と。瞬間的に嫉妬が出ました。でも習性によってずーっと嫉妬し続けるんだね。つまり持続させてしまってる。その持続をストップする。今この瞬間出ちゃったのはしょうがないでしょうと。でもそれはそれで終わればいい。つまり引きずらない。われわれには、引きずるっていう習性があります。これがわれわれにとっての大変なデメリットになります。だからよく「今この瞬間にだけ集中しろ」っていうけども、決して引きずっちゃいけない。

 ただしこれも理想です。これが本当にできていたら解脱してます。だから百パーセントはできないんだけども、やる努力はしなきゃいけない。

 引きずられることイコール無明といってもいい。われわれが引きずられなかったら悟っています。だから百パーセントは、何度も言うけど無理なんだけど、努力をしてください。引きずらない。

 一瞬怒りが出た――しょうがないでしょう。しょうがないけども、引きずらないでください。あるいは一瞬誰かに嫌な思いが出た――それはしょうがないけども、引きずらないでください。

 つまりちょっと具体的にいうと、例えばTさんがわたしにちょっと変なことを言ってきて、一瞬カチンときたとして、「え?」って一瞬Tさんに対するネガティブなイメージが出ると。「何だこいつ!」って一瞬出たと。「あ! これは駄目だ!」って思って、次の瞬間には完全なにこやかな(笑)、心からの愛を持ってTさんに接すると。ね。

 例えばそれは、日常のいろんな場面でもそうです。例えば会社で上司がひどいことを言ってきたと。普通はそこで、上司に対するネガティブイメージが一個加算されます。それによって上司に対するイメージがちょっと悪くなります。これをどんどんどんどん増大させていって、われわれは過去の経験からくる非常に観念的なレッテルによって世界を見てるんだね。それをすべてやめる。今から一瞬前のこと全部関係なしにするんです(笑)。ね。

 例えばある上司がワーッとひどいことを言ってきた。次の日も言ってきた。三日目も言ってきた。でも四日目に出社したときに、まるでその上司と初めて会うように、心からの笑顔を持って会うんです(笑)、例えばですよ。このように決して引きずらない。

 もちろんね、いいものは引きずっていいですよ。素晴らしい人々の幸福を願う気持ちがパーッと出たと――「あ、引きずらない」ってやめちゃだめだよ、それは(笑)。それはずーっと持ち続けてください。持続させてください。でも悪いものはシャットアウトする。この努力が必要ですね。

 はい、で、その三つっていうのは大変難しいと、実際は。煩悩の認識は難しいし、捨てるっていうことも難しいし、持続させないっていうのも難しい、困難なんだけど、でも努力してがんばってやってくださいっていうことですね。

◎神の愛

(J)ちょっと質問だけいいですか? 

 はい、どうぞ。

(J)煩悩を捨断するとか認識するっていうのは、すごくやっぱり難しいと思うんですけど、例えば捨断をする方法として、そういう煩悩が浮いてきたときにジャパを行なうだったり、バクティで神の愛とかでその心を埋めるっていう考えでも別に大丈夫ですか? 捨てるっていう感覚が、何かちょっと僕できないんですけど……。むしろ「それは愛だ」っていうふうに考えた方が反対に……

 それはね、それも実は捨ててることになるんだけど、それは方法論としては逆にね、高度な方法論だね。それはだから、それができるんだったら素晴らしい。

 まあ大体ここに来てる人っていうのはバクティ的なカルマの人が多いから、そのやり方の方がいいのかもしれないけど、それは素晴らしいね。それは結果的に捨ててることになるんだね。

 実際わたし自身もそうだった。わたし自身も、捨てるっていうよりは、神の愛って考えたり、あるいは別パターンとしては、四無量心だね。慈愛とかあるいは感謝であるとか、そういう方向で考えた方が、心が納得する。

 だからそれはさっきも言ったように、それぞれにおいていろいろなやり方があるから、神の愛で捨てられるんだったらそれはそれでとても素晴らしい。

◎止観

(K)止観っていうのは同じような感じですか……? サマタ、ヴィパッサナー。

 止観って実際はいろんな意味があって、でもまあ今の話に当てはめようとすれば、確かに止観にも当てはまるね。

 つまり、止観の止っていうのはまず心を止めると。で、観察すると。あるいは逆の場合もあるけどね。まず観察して、で、止めていくっていう場合もあるけど。その観の部分ね。ヴィパッサナーの。

 このヴィパッサナーっていうのは、すごく初歩から究極までいろんな段階的な意味があるんだけど、今言ったのもヴィパッサナーといえばヴィパッサナーだね。自己観察。これを、二十四時間怠らない。

 前もちょっと言ったけど、現代のテーラワーダとかの教えでは、「手が動いてる、動いてる」とか、「歩いてる、歩いてる」とか、それを認識しろって言うんだけど――まあそれはそれでやり方としてはあるんだろうけど、それよりも、自己の心の動きの認識ね。その方がわれわれにとっては重要だと思うね。

 「さあ、今わたしはそういう思いが出てきてるんだろうか。正しい思いをしてるかな? してないかな?」――で、そこに四無量心を加えたら素晴らしい。

 これは前も言ったけど、具体的に言うとね、「さあ、わたしの思いは今、四無量心に基づいているだろうか?」――つまり衆生の幸福を願うとか、苦しみを哀れむとか、良いところを称賛するとか。で、自己のエゴ――つまり自分が苦しんだり喜んだりっていうことはどうでもいいんだと――これが四無量心だけど、簡単に言うと――「それから外れていないだろうか?」。あるいは、「わたしの心、言葉、行ないっていうのは人々のためになってるんだろうか?」――これを繰り返し自己認識し続ける。個人的にはやっぱりヴィパッサナーっていう意味では、そういうやり方が一番良いと思うね。

 もちろんそこに、Tさんが言ったような、神の愛を入れてもいい。まあ神の愛を入れるとするならば、「さあ、すべては神の愛だと思えているだろうか?」と。「わたしはまたエゴに引きずられていないかな? 神の愛だとか言いながら、いろんな自己のエゴに基づいたはからいをしてないかな?」とか。それはだから、その人の縁であるとか、どの教えが好きかによっていろいろ変わってくるだろうね。

(K)怒りが一番出てきますね。

 あ、Kさんが(笑)? 

(K)「こんちくしょう」みたいな感じで(笑)。

 (笑)。まあ、だから、そういう話をするとまた細かくなっていくわけだけど、つまり――じゃあ、怒りが出てきますと。で、そこで、もう本当にね、これは個人個人が工夫するしかないんだね。万人に通じるセオリーってないんです。例えば、自分が怒りが出てきますと。「じゃあどうすればいいんですか?」っていうことに関しては、自分がどんな教えが好きなのか、あるいは過去を振り返ってどれが効いたのか、その煩悩にね。

 例えば中国の故事でね、ある王様がね――王様だったか、文筆家か忘れたけど――自分が怒りっぽいっていうのを認識してた。だからいつもベルトに、何かの動物のなめし革ね、ダラーンとしたなめし革をこう着けてたっていうんだね。で、カッときそうになったらそれを見るっていう訓練をしてたんだって(笑)。カッときそうになったら、ウッて見て、「ああ、そうだ」と。「もっと心をリラックスさせないと」って。つまり、この人は智慧が相当ある。そういう工夫ができてたんだね。

 カッときても普通は、カッとくることがいけないんだとか、わたしはこの怒りっていう欠点をなんとかしたいっていうことまで頭が回らないんです。でも習性として、なめし革を見ることによって心をリラックスさせるってことを、自分で準備しておいたら、ガーッて怒りが出てきても、オッとそれを見ただけで、スーッと怒りがなくなると(笑)。

 これは一つの例だけど、そういういろんな工夫が必要だね。

 お釈迦様の時代、ある王様がね、すごい食いしん坊だった。で、食にとらわれてた。でもお釈迦様の教えを聴いて、すごく感動してね――お釈迦様が食物にとらわれることのデメリットとか、無意味さを説いたんだね。で、王様はそれに感動したわけだけど、「でも多分、わたしはすぐ忘れて食いすぎちゃうだろう」と。そこで大臣を呼んで、それを暗記させたんだね。暗記させて、「食事のときに言ってくれ」と(笑)。ね。で、食事のときに、「食物というのは楽しみのために食べるのではなく……」とかこう言うわけだね(笑)。「それにより餓鬼界に落ちる……」とかいろいろ言われる(笑)。で、それでアーッって食ってたんだけど、「あ、そうだ!」と思って(笑)――これはこの王様の――まあ現代だったらテープレコーダーとかあるかもしれないけど――王様の工夫だったんだね。だからそういう工夫をしなきゃいけないんだね。

 だからまあKさんに「じゃあこれだ!」っていうのはないわけだけど、自分でいろいろ工夫して取り除いていくしかないね。

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