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「ヴィヴェーカーナンダ」(28)

 ヴィヴェーカーナンダは一見、師であるラーマクリシュナをあまり表に出すことなく、自分なりの方法で救済活動を行なっているようでしたが、実際にはその背後には常に師の存在があったのでした。あるとき彼はこう言いました。

「聖ラーマクリシュナは、弟子たちが理解しているよりもはるかに偉大であります。
 師は、無限の方法において発展の可能性を持っている永遠の宗教的理想の具現者です。
 彼の慈悲深い一瞥によって、たちまち十万のヴィヴェーカーナンダを作り出すこともできました。
 その代わりにもし彼がいま私を道具として仕事をしようとされるならば、私はただ彼の意思に従うのみであります。」

 しかしヴィヴェーカーナンダの考えややり方がいつも兄弟弟子に理解されるとは限らず、彼らがぶつかることもたびたびありました。
 ある日、この問題は頂点に達しました。兄弟弟子のひとりであるヨーガーナンダが、ヴィヴェーカーナンダに対して率直にこう言いました。
「師は、霊性の探究者に対して、神への愛のみを強調された。だから、愛国的仕事のための慈善事業とか、奉仕のための施設などを作るのは、西洋の教育と欧米の影響を受けたヴィヴェーカーナンダ独自の考えである。」

 これに対して、ヴィヴェーカーナンダも率直に、厳しく、堂々とこう言い返しました。

「あなたは私よりも聖ラーマクリシュナを深く理解しているとでも思っているのか!
 神の叡智は、心の最も優しい働きを殺してしまう荒野の小道を通って得られるような干からびた知識だと思っているのか!
 あなたのいうバクティは、人を無力にする、感傷的で愚かなものです。
 あなたは自分が理解した聖ラーマクリシュナを説こうとしている。しかしその理解は浅いものだ! そんなものは振り棄てなさい!
 あなたのラーマクリシュナなんかに、誰が目を輝かせますか。あなたのいうバクティや解脱に、誰が注意をむけますか。あなたの聖典が述べることに、誰が耳を傾けますか。
 もし私がタマスに沈んでいるわが同朋を、自力で起き上がるように目覚めさせ、そしてカルマ・ヨーガの精神によって彼らを奮い立たせることができるならば、私は喜んで千の地獄にも落ちていこう。
 私はラーマクリシュナの、また誰の信奉者でもなく、自己のバクティや解脱に心を奪われる者でもありません。ただ他人のために奉仕し、援助する人の信奉者です!」

 感情の高まりで声は詰まり、体は震え、目は燃えるように輝いていました。そしてヴィヴェーカーナンダは隣の部屋へと消えました。兄弟弟子たちが心配して見に行くと、ヴィヴェーカーナンダは半ば閉じた眼に涙を浮かべて、瞑想にふけっていました。
 
 一時間ほどして瞑想から立ち上がると、ヴィヴェーカーナンダは再び兄弟弟子たちのところへやってきました。彼は冷静さを取り戻しており、穏やかにこう言いました。

「人がバクティ(神への信愛)に到達したときには、その心と神経は、花に触れることさえも耐えられないほど、実に柔らかで繊細になるのです。
 私は圧倒されずに、聖ラーマクリシュナのことを思ったり語ったりすることはできません。だからいつもジュニャーナの鉄の鎖で自らを縛りつけようと努めています。なぜなら、母国のための仕事がまだ終わっていないし、世界へのメッセージがまだ十分に伝えられていないからです。
 神への愛の感情が湧き出て、自分がそれに没入しようとしているのに気づくと、私はそれを激しく鞭打ち、厳しいジュニャーナによって、自分を石のように堅固にします。
 ああ、私にはなさねばならない仕事があります。私はラーマクリシュナのしもべです。師は、なすべき師の仕事を私に残された。その仕事をなし終えるまで、私に休息は与えられません。ああ、私は師のことをどのように話せばよいのだろう。私に対する師の愛を!」

 この出来事があってから、兄弟弟子たちはヴィヴェーカーナンダを批判することをやめました。ヴィヴェーカーナンダが、いかに心の奥に純粋なバクティを持ち、またラーマクリシュナがヴィヴェーカーナンダを通じて仕事をしようとしているかを知ったからでした。
 そして兄弟弟子もまた、ヴィヴェーカーナンダの生き方にならって、自分だけの瞑想的安らぎに没入することなく、苦しむインドや世界の人々のための奉仕に全力を注ぐようになっていったのでした。

 ヴィヴェーカーナンダはこのような救済活動の順調な進歩を非常に喜びました。

 キリスト教をはじめとする他宗教の人たちや、その他の知識人からも、ヴィヴェーカーナンダは、無理解から来る多くの批判や中傷を受けつづけてきました。しかしヴィヴェーカーナンダはそれらに一切構うことなく、自分の道を進み続けました。

 1897年7月9日付のメリー・へールあての手紙で、ヴィヴェーカーナンダは次のように書いています。

「神は私と共におられます。私がアメリカやイギリスにいた時も、またインドの見知らぬ土地をあちこちと放浪していた時も、神は私と共におられました。
 彼ら【批判者】が何を言おうと、私は少しも気にとめません。赤ん坊はよりよいことを何も知らない。魂なるものを知り、この地上のすべてが愚かで空虚であることを知った私が、なぜ赤ん坊の片言によって己の道を踏み外すでしょうか。
 私はせいぜい、あと3、4年の命です。自己救済の願いは全くなくなりました。私は世俗的な楽しみなどは決して必要としません。自分の機械が正常に運転できる状態にあるのを見なければなりません。それから、少なくともインドにおいて、私は人類の幸福のために、いかなる力をもってしても逆転することのできないレバーを操っているということをはっきりと知り、そして次に何が起きるかということも気にも留めずに眠るでしょう。
 何度も何度も生まれ変わり、そして数え切れないほどの苦難に出会いますように。存在する唯一の神、私が信じる唯一の神、あらゆる魂の総和の唯一の神を、私は崇拝できますから。とりわけ私の神は、よこしまな人、悲惨な人、あらゆる民族・種族の貧しい人です。これらの神こそ、私の崇拝の特別な対象なのです。」

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