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「恐ろしい釣り針」

【本文】

 汝の養うべき者を養う人は、汝に与える人である。(それなのに)汝の家族(全ての衆生)を養う人があれば、汝はそれを喜ばないで、かえって怒りを発する。 

 衆生の覚醒を願う者が、彼ら衆生に何を望まないということがあろうか。他人の幸福に怒りを発する者に、どこから菩提心が現われるか。

 彼(汝が嫉妬する衆生)によって施物が受け取られないときには、それは施主の家に留まっている。いずれにしても、それは汝のものではない。与えられようと与えられまいと、何の関係があるか。

 彼は功徳を拒むべきであるか。また(他人の)好意、自己の徳を拒むべきであるか。物を与えられても、取得してならないというのか。どのような仕方ならば、汝の怒りが生じないというのか。それを説け。

 汝は自身の犯した罪悪を悲しまないばかりか、他人の作った功徳と張り合おうと願う。

【解説】

 ここはちょっとわかりにくいかも知れませんが、つまりまず、たとえば、自分がある程度信者を持つ僧だとしてね、そして他に、自分がライバル視している僧がいたとして、その僧の下に信者が多く集まるという状態。この状態において生じる嫉妬心を戒めているわけですね。
 だって、自分の目的は、「全ての衆生の幸福」じゃないかと。その全ての衆生のうち、わずかな衆生に対してね、彼が教えを説いている。それは自分の目的を助けてくれているのも同じだから、そこで感謝することはあっても、嫉妬したり怒ったりするのはおかしいという解き方ですね。
 
 そして私は、全ての衆生の完全なる幸福、すなわち解脱を願っているはずじゃなかったのかと。解脱を願うくらいなんだから、もっと小さな幸せも、願わないはずはない。それなのに今自分は、わずかな信者にわずかな尊敬を受けている彼に対して、怒りや嫉妬を持つというのはいったいどういうことなんだ、ということですね。

 そして次のところは、そのライバルの僧が、信者から何か施物を贈られたとき、また嫉妬が出るわけだけど、それは最初から、贈られようが贈られまいが、自分とは何の関係もないということだね。まあ、当たり前のことなんだけど、嫉妬などの醜い感情に心が襲われているときは、そういう当たり前のことがわからなくなってしまうから、このように自己に言い聞かせるわけですね。

 「どのような仕方ならば、汝の怒りが生じないというのか。」というのは、自分自身に対する、辛らつな皮肉めいた言葉だね。つまりその嫉妬という誤った感情がある以上、その人は不当な怒りと嫉妬を、その相手に向けるわけだね。しかしそれは全く不当であって、醜く間違っているのは自分自身である、と気付かなければいけないわけですね。
 
 そして嫉妬が出るときというのは、そもそも懺悔ができていない。懺悔がしっかりとできていたら、他に嫉妬する前に、自分が過去に積んだ悪業を悲しみ、それを浄化することに全力を尽くすでしょう。しかし懺悔ができていないがゆえに、たかだかちっぽけな自分の功徳に傲慢になり、他者の功徳--本来はそれは喜び、称賛されなければならないのに--それに嫉妬を向けてしまうわけだね。それはもう、全く恥ずべきことなんだ。だからこの辺はしっかり修習して、そういう過ちに陥らないようにしなければいけない。

 この文章を読んでいる皆さんも、いつの日か、仏教とかヨーガの修行や教えを、人々に説く立場になることがあるかもしれない。そのときのために、こういう教えはしっかり心に刻み込んでおいた方がいいでしょうね。

【本文】

 敵に不幸が起こるとして、どうして汝の希望だけでそれが生じよう。原因のないものは、汝の期待だけでは生じないであろう。

 また、汝の望みだけでそれが成立するとして、彼が苦しめば汝に何の楽が現われるか。それに利益があるとしても、それより以上のどんな不利益があるか。

 なぜならこれ(他人の不幸を願う心)は、煩悩という漁夫の投じた恐ろしい釣り針である。地獄の看守(獄卒)は、(魚を漁夫から買い取るように)汝を彼から買い取って、釜の中で煮るであろう。

【解説】

 ある高名な僧は、ミラレーパの人気に嫉妬して、毒殺しようとした。つまり仏教というすばらしい教えに出会い、教えを学び、修行をしてきたはずの僧も、自分がみんなから尊敬されるようになると、慢心が生じ、嫉妬心に襲われ、魔に心おおわれ、そういうことを考えてしまう。

 まあ、ここでは別に、そういう指導者が持つ嫉妬に限定する必要はありませんが、何らかの誤った考えによって他者の不幸を願ってしまうときの状況について、ここでは言及されていますね。

 まず、すべてはカルマだから、その自分が悪意を持つ相手に不幸が生じるとしたら、その因が彼の中にあるわけであって、こちら側の悪意っていうのは関係ないわけですね。だから、敵の不幸を願うことの無意味さをまず説いています。
 そして次に、仮に、こちらの願いによって、相手に不幸を与えることができるとしましょう。しかしそこにどんな利益が、自分に生じるのか、冷静に考えろ、ということですね。「憎い敵を不幸にして、満足した」なんていう喜びが生じるのか?--生じるとしたら、すでに相当、こころが腐っている。そして、その満足感など比べ物にならないような不利益を、自分は受けることになるでしょう。多くの悪業を積むことになるし、心も魔に覆われるし、真理との縁も大きく弱まるでしょう。そういうことを合理的に、冷静に考えろということですね。

 そして最後の一文は、非常に面白い比喩ですね。

 「他人の不幸を願う心」というのは--つまり嫉妬その他によって、他人の不幸を願ってしまうような状況、その状況自体が、煩悩の悪魔がたらした、恐ろしい釣り針に引っかかっているえさなんだよと。悪魔は、そのような状況を作り、我々の悪しき心を沸き起こさせようと、常にうかがっているんだ。
 そしてわれわれがその罠に引っかかり、実際に他人の不幸を願ってしまったとき、あるいはそれによって実際に他者を陥れる何らかの行為に走ってしまったとき--それはまさに、悪魔の釣り針に食いついてしまったことと同じなんだと。そうして自分は見事に煩悩の悪魔という漁師に釣り上げられてしまう。
 漁師が釣った魚を主婦とかが買って、家で調理のために釜で煮る。
 それと同じように、悪魔という漁師が我々を吊り上げ、地獄の獄卒に売り渡し、我々は地獄の釜で煮られるだろうと。
 非常に面白く、的確で、恐ろしい比喩ですね。

 だからどんなときでも、どんな理由があっても、他人の不幸を願うなどということは絶対にやめましょう。

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