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「ミラレーパの生涯」第一回(6)

【本文】

 しかしマルパが与える試練がどんどん厳しくなり、ついに耐え切れなくなったミラレーパは、密かにマルパのもとを去っていきました。
 行く当てもなく放浪しているとき、ある老人に、文字が読めるなら、報酬をあげるから、仏典を読んでほしいと頼まれました。それはアシュタサーハスリカー・プラジュニャー・パーラミターでした。その中に出てくるサダープラルディタの物語を読んで、ミラレーパは心を動かされました。サダープラルディタは、師に供養する供物を集めるために、自分の肉を切って売ろうとまでした菩薩でした。ミラレーパは、「サダープラルディタなら、教えを受けるために、自分の心臓さえも差し出しただろう。しかし私は、何も差し出していない」と考え、マルパの下へ戻る決心をしました。

 はい。ここはね、遂にもうミラレーパがまあ耐え切れなくなっちゃって、ちょっとこうふらっとマルパのもとを去ってしまったときがあったんだね。で、行くあてもなく放浪しているときに出会ったある老人に――もちろんね、ここはもう皆さん分かると思うけど、この老人さえもが、真実を言うならば、マルパの化身です。つまりここでいうマルパっていうのは個人的な人間であるマルパではなくて、仏陀そのものであるマルパと考えた場合、この老人もマルパの化身なんだね。つまりすべてがもうミラレーパの成就に向けて、全存在っていうかな、全世界がいろんなかたちで手助けをしてるわけですね。
 はい。そしてこの老人の頼みによって、アシュタサーハスリカー・プラジュニャー・パーラミター、これは八千頌般若経っていう経典なんですけどね。般若経の中の一つですけども、それをね、読んでほしいと。つまり昔のチベットっていうのは、文盲ね、文字が――言葉はしゃべれるけど、文字が読めないっていう人が昔の日本みたいに多かったから、「君、文字が読めるか」と。「読めるならば、お金をやるからちょっとわれわれのために仏典を読んでくれないか」と。そういうのを頼まれたわけですね。で、ミラレーパが頼まれて仏典を読んでいたら、ちょうどサダープラルディタ――このサダープラルディタっていうのは、別名、常泣菩薩。常泣、つまり常に泣いている菩薩ね。で、実はね、この常泣菩薩、サダープラルディタっていうのは、観音様の過去生です。観音様の過去生、つまりこのサダープラルディタがもっともっと何生も修行して観音菩薩になるんだね。観音菩薩っていうのは、皆さん知ってると思うけど、実はあれ菩薩といいながらほんとは仏陀なんです。マンジュシュリーもそうなんだけどね。マンジュシュリー、文殊菩薩もそうなんだけど、つまりわれわれの見本として、あえて菩薩の形をとって、救済し続けてる方なんだね。でもほんとは仏陀なんです。で、その観音様の前身っていうかな、このサダープラルディタが頑張って修行して観音菩薩になったんだね。
 はい。このサダープラルディタの話っていうのは、簡単に言うと、昔ね、観音様がサダープラルディタという修行者だったときに、ある示唆を受けてね、示唆、声が聞こえてきて、「東に行け」とね。東に行けば、おまえにね、智慧の完成――つまりこれがプラジュニャー・パーラミターなんだけど、完全である智慧の教えを与えてくれる存在に、師匠にね、巡り合えるだろうと言われて、東に旅していくんだね。
 で、途中でサダープラルディタは、東にっていう声は聞いたけど、どれくらい東に行けばいいのか聞くの忘れたって思っちゃって、で、大泣きするんだね。だからこれ、サダープラルディタって「いつも泣いてる」って意味なんだけど、超泣き虫なんだね(笑)。

(一同笑)

 すごい熱意あるんだけど、すごいすぐ泣くんだね。「どれくらいか聞くの忘れた! どうしよう!」って泣くんだけど(笑)、そしたらまた声が聞こえてきて、ね、「東にこれこれだけで行け」と。「そしたらそこに、ダルモードガタっていう偉大な菩薩がいる」と。「彼こそがおまえの師だ」と。「そこに行け」っていう声が聞こえてくるんだね。
 で、このダルモードガタっていうのは、実は未来の阿弥陀如来です。つまりアミターバね。つまり観音様って阿弥陀如来の弟子なんだけど、まだこの時点では阿弥陀如来もまだ如来じゃなくて、ダルモードガタっていう菩薩だったんだね。で、観音様が弟子のサダープラルディタだったときの話ですね。
 で、まだ菩薩ではあったけども、偉大な智慧を悟っていた、ね、のちの阿弥陀如来、ダルモードガタのことを知ってね、喜んでサダープラルディタはそこへ向かうわけだね。
 で、サダープラルディタがやっとそのダルモードガタがいるといわれる町に着いた。で、そこでサダープラルディタは、ものすごいね、法を求める思いでいっぱいになるわけだけど、しかし同時にそこでハッとするわけだね。ハッとしたっていうのは、サダープラルディタっていうのは一文無しの貧乏な修行者だったんで、何も財産がない。で、これから自分のすべてをかけて、ね、師に弟子入りして、教えを、完全なる智慧の教えを乞うというのに、何も供養しないなんてことは、ね、失礼であると。もちろん、優しいね、偉大な大らかな師であろうから、そんなことは気にしないだろうけども、自分の心がそれを許さないと。何か供物を持っていかなきゃいけないと。しかし、自分には何もないと、ね。お金もない、芸もない。ね(笑)。現世的能力が何もないと。
 あのケツン・サンポみたいに――わたしこの話好きなんだけど、ケツン・サンポ・リンポチェがその中沢新一さんに会ったときにね、「わたしは現世的には何もできない」と。全く現世的能力がないんだよと。「しかし、心の本性を探ることに関しては一生をかけてやってきた」と。「だからそれは君に教えることができる」と。「しかし現世的には何もできないんだ」って言ってたんだね。で、それを聞いて中沢さんは感動して、なんて謙虚な方なんだと。つまり現世的には何もできないって、謙遜だと思ったらしいんだね。でも付き合ってたら、ほんとに何もできなかったっていうんだね(笑)。はさみも使えなかったし、計算もできなかったらしくて、なんかこう数えるときも、「一、二、三、四、五、たくさん」とか言ってたらしいのね(笑)。で、逆にそれに中沢さんは感動したって書いていた。「ああ、こんな人がいるんだ」と。つまりほんとにもう現世になんの興味もなくて、心とは何かだけを一生をかけてやってきた人なんだね。まあその話をちょっと思い出すけども。このサダープラルディタも現世的にはなんの能力もなかった。
 まあだからね、ちょっと話が飛ぶけど、皆さんも、もし自分は能力がないって人がいたら、それはもう全く問題ないっていうか、それが最高最大の能力だと思ってください。もちろんね、いろいろ能力があって、それによって救済を進めるとかね、それはそれで素晴らしいと思いますよ。でも別の観点からいうならば、何もないのは最高の能力です。だからそのどっちかで考えたらいい。だから自分にもしある何か得意なものがあるとしたら、それは何かやるためにね、神から授けられたんだと思ってそれは喜べばいいし、自分はなんの取り柄もないんだって思う人は、これはもう最高であると。わたしはあのケツン・サンポのように、あるいはサダープラルディタのようになろうと。ね。純粋にただ心の中を神でいっぱいにすればいいじゃないかと。で、必要があれば、ね、力は与えられると。必要があれば、自然にそういった能力は身に付くだろうと考えたらいいね。
 はい。で、とにかく、なんの芸もないし、お金もないから、どうしようと考えて、で、ハッと気付いた。何もないが体はあると。体があるじゃないかと。で、そこで町に出ていって、「皆さん! 人間買いませんか?」ってね(笑)。「人間買いませんか?」と。つまり自分の体を売って、それでお金を得て、師匠に供養しようと思ったんだね。「人間買いませんか?」――しかしそこで面白いことにね、悪魔が登場するんです。悪魔がそれを見てて、町中の人の耳を塞いだっていうんです。これどういうことか分かります? 悪魔がやってきて耳を塞いだんですよ。まるで悪魔、助けてるみたいだよね。だってそこの町中の人がそれ聞いて、悪い人がいたら、やってきて「じゃあ、おまえの腕くれ」とか言ったら、サダープラルディタが自分の腕を切ってあげちゃうかもしれない。で、悪魔が耳塞いだおかげで、誰もサダープラルディタに声をかける人がいなかったんだね。それはまあ、でも逆なんです、その発想はね。もしここでサダープラルディタが、そのような、つまり自分の師匠の供養のために肉体を犠牲にするっていうようなことをやったとしたらですよ、これは偉大な菩薩行であって、あるいは偉大な帰依の修行であって、ものすごくこのサダープラルディタは修行が進むんだね。で、それを悪魔は邪魔したんです。そんないいことさせないぞって感じだね(笑)。ああ、なんかすごい菩薩行やろうとしているなと。そうはいくかといって(笑)、みんなの耳を塞いだんだね。だからサダープラルディタが、「皆さん! わたしの体買いませんか?」って言っても、みんな普通に通り過ぎていくっていうかな。
 しかしそれを見ていた一人の神がね――まあこれはインドラ神なんだけど、インドラ神が試そうと――なんかすごい偉大なやつがいると。あの彼の心がほんとかどうか試そうといって、人間に姿を変えて、その町に降りてきたんだね。で、人間のまあお坊さんに、ヒンドゥー教のお坊さんに姿を変えて、サダープラルディタのところへやってきて、「いやあ、実はわたしはちょっと儀式をやろうと思っていて、その儀式には人間の血とそれから骨髄と、そして心臓が必要なんだ」って言うんだね。そこでサダープラルディタは、まさにナーローと同じように、なんの躊躇もなく「分かりました!」と。「喜んで!」って言って(笑)、まあこれはリアルに言うと、経典に書いてあることをリアルに言うと、まず肘、ナイフで肘を切ったっていうんだね。肘を切って、血をしたたらせて、で、それをあげたと。で、次に、脇腹をぐっと切って肋骨を切り出して、中から骨髄を出してあげたっていうんだね。で、最後に心臓にいく前に、ここである少女がそれを見ていて、「何やってるんですか!」ってやってきて、「何バカなことやってるんですか!」って来たんだね。で、その少女はとても心の美しい少女でね、そのようなことをやっているのを見てられなくて、来て、で、話を聞いたら、「いや実は、偉大な師に供養するために肉体を売ろうとしてるんだ」っていうことを言うんだね。そしたらその少女は、「そんなに素晴らしい教えが受けられるならば」――まあその少女はお金持ちの少女だったんだけど――「わたしがそのお金を援助しますから、どうか肉体を傷つけないでください」って言って、まあその場はおさまるんだね。
 ただまあここで大事なのはさ、なんていうかな、もちろんサダープラルディタの純粋な決意と、その投げ出した心と、それから簡素さなんだね。簡素さっていうのは、ナーローももちろんそうなんだけど、さっきの最初のね、例えば体を売ろうという決意もそうだけどね。ちょっと変な言い方をすれば、何も考えてないんです(笑)。何も考えてないっていうのは、なんていうかな、小賢しくないんだね。小賢しくないっていうのは、「何もない! おれには何もすることがない!」「じゃあ体を売ろう」とね(笑)。「体、要りませんか!?」
 ここで小賢しかったら、まずその前になんか考えるよね、普通(笑)。あるいは体を売ろうっていう発想が出たときも、いろいろ計算すると思うんです。でも体売っちゃったら修行できないじゃんとかね、いろいろ計算すると思んだけど、なんの計算もない。ただその場の純粋な思いで、わたしには体しかないから、師に供養をするには体を売ってもそれは全く損はないんだという思いでそういうふうにやるんだね。で、そこでそのお坊さんがやって来て、血と骨髄と心臓と言われたときにね、もうなんの躊躇もなくやるわけだけども。
 まあ、でもですよ、血と骨髄は、まあそれはそれでもちろん大変だけども、心臓をあげちゃったらどうなります? 死ぬよね。教えを受けるも何もないじゃないですか(笑)。でもね――これは皆さんにそういう生き方をしろっては言わないよ。もちろん皆さんがそういう状況になったときは、もちろん心臓は布施しないで修行を続けた方がいいとは思うけども。なぜかっていうと、まだそのレベルじゃないからね。多分皆さんは、その前にもっと浄化しなきゃいけないことがいっぱいあるから。でもこのレベルに達した人っていうのは――無智ではないんですよ、これは。無智ではなく、何も考えないんです。つまり、そこで師への供養のために心臓が必要だと思ったら――「でも心臓を取った瞬間に死んじゃって師と出会えないじゃん」とか考えないんです(笑)。その簡素さがあるんだね。「あ! 分かりました」と。「あなたが現われてくれて良かった」って言って、心臓も取ろうとするんだね。でもまあカルマによってね、彼はそののちの阿弥陀如来である宝生菩薩のもとに弟子入りして教えを受けなきゃいけないカルマがあったから、当然最後、死ぬまではいかなかったんだけどね。自分の心臓をあげようとする直前で、助け舟っていうかな、少女がやってくるわけですね。で、少女がお金を工面してくれて、一緒にダルモードガタのもとに行ってお布施をして、偉大な教えを聞いたっていう話なんですけどね。
 はい。この話をミラレーパは、まあつまり誰かから聞いたわけじゃなくてね、偶然出会ったおじいさんに読んでくれと言われた経典に書いてあったんですね。で、それを読んで感動して、自分を恥ずかしく思うんだね。もしこのサダープラルディタだったならば、ね、どうしただろうかと。ね。つまり心臓さえも帰依のために、教えのために売ろうとしたほどの人だから。それと比べたら、わたしは何も犠牲にしていないと。何もグルに供養していないと。ただちょっと心身の疲労と傷を負っただけであると。それで非常に恥ずかしくなったわけだね。それで勇気が出てきて、わたしもサダープラルディタのようになろうと思って、また戻るんだね。
 はい。これは前のアサンガの話とかにもそういうのあったけども、くじけそうになると、例えばマルパがナーローの話をしてくれたり、あるいは今回の場合は、まあ偶然読んだ経典にそれが書いてあると。これもまさに、何度も言うけども、マルパの、あるいは偉大なる神の計画なんだね。導きなんですね。だから本気で本気で道を求めてる人には、必ずこういうような巡り合わせがきます。これはわたしも何度も経験しています。
 これと同じようなことも実際にあるんだよ。同じようなことっていうのは、みんなも経験しているかもしれないけど、ほんとになんか心がすごく弱ってるとか、あるいはくじけそうになってるときに、ほんとに偶然読んだ本とかに答えが書いてあったりするんだね。本当に偶然、もうほんとになんにもやる気がなくて、ちょっと落ちてたのが、偶然読んだ本に自分のための何かメッセージが書いてあったりすると。ね。あるいはまあ現代でいうとインターネットとかあるけども、ほんとに偶然ね、見たものとかにその答えが書いてある。
 あとわたしもよく言われるけどね、例えば、わたしがブログに記事とか書いたときにメールが来てね、「先生、本当にありがとうございました」と。「まさにピッタリでした」と。「先生はすごい」とか書いてあるんだけど、わたし何も考えてないからね、別に(笑)。何も考えずになんとなくパッと書いただけで、つまりそれは何度も言うけども、わたしというよりは、ね、神あるいは偉大なる仏陀が操作してるんだね。まあそれはだからその修行者自体が大いなる真理との縁があり、そして熱意があるからこそそういうことが起きるんだね。
 だからもう一回言うけども、皆さんは全力で熱意を持って法を求め、そして、高い境地を目指して菩薩道を歩んでください。で、そこにおいてもちろん、今の実力では何度も挫折するでしょう。あるいは今の実力では、ね、心の弱さとかカルマとかによって、何度も壁にぶつかり、ちょっと辛酸をなめることがあるだろうと。しかし、皆さんが熱意や純粋な求道心を持ち続ける限りは、必ず導かれます、なんらかのかたちで。転んでも手が差しのべられます。あるいはヒントが与えられます。だからそれはぜひ、なんていうかな、その純粋な熱意、決意みたいなのを持ち続けてほしいですね。
 皆さんがどんなに多くの仏教やヨーガの経典を読もうが、そしてそれを論理的に理解しようが、そんなものはあまり重要ではない。それよりも、もし無智だったとしても、あまり論理的な教えを知らなかったとしても、今言った純粋なる帰依やあるいは燃えるような修行や菩薩道への熱意とか、あるいは神への熱意があったならば、もうそれで十分です。自動的に導かれます。だからそれが一番大事なんだね。

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