yoga school kailas

「カルマヨーガ」

【本文】

 煩悩の朋党に取り巻かるれば、彼(誇りを持った菩薩)は千倍にも傲然となろう。あたかも鹿の群れにライオンが負かされないように、彼は煩悩の群れに打ち負かされない。

 非常の急迫に際しても、目が味を知覚することはありえない。それと同様に、彼は煩悩に支配されないであろう。

 (菩薩行のための)いかなる行為に携わろうとも、その行為に身をささげるであろう。彼はその行為に集中して、しかも飽くことを知らない。それはあたかも、競技の結果の楽しみに夢中になっているもののごとくである。

 全ての行為は、楽しみを目的としてなされる。ただし、ある場合には楽しい結果が生じ、ある場合には生じない。しかし、行為そのものを楽しみとしている人において、行為をしないでどうして楽しさがありうるか。

 かみそりの刃の上に塗られた蜜のように、輪廻界では欲望によって満足は得られない。
 (同様に、)甘美な結果をもたらす吉祥な「功徳の甘露」によって、どうして満足が得られるか(かかる甘露を菩薩はあくまでも追求すべきである)。

 それだから、一つの行為が終われば、彼は他の行為に没入するであろう。あたかも日中(の暑熱)に悩まされた象が、見当たった池にまず第一に没入するように。

 しかし、力が尽きた場合には、改めてなすために、それを捨てるべきである。また、それがよく完了したときには、順次に次の行為をしようと熱望して、それを捨てるべきである。

【解説】

 ここはまさにカルマ・ヨーガに通じる話ですね。
 この入菩提行論は、見方を変えるとまさに、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどの思想が満載された、まさに「バガヴァッド・ギーター」のような本であるということもいえるかもしれません(笑)。

 とにかく菩薩行とは、ここにあるように、かくも行動的なのです。単に静かに座って、「ああ、あの人は寂静な聖者ですね」といわれているだけでは駄目なのです。菩薩のなすべき行ないを、あくことなく行動し続ける。しかもその結果、成功とか失敗とかには心を奪われず、行為そのものに喜びを見出し、次から次へと菩薩行に没頭し続ける。--それにより、「功徳の甘露」が増大します。
 功徳の甘露とは比喩的な表現ではなく、実際、多くの功徳を積みつつ進む菩薩行は、その功徳の力により、そして修行によってその功徳が昇華された甘露(アムリタ)の力により、実際に心身に強烈な歓喜、至福、エクスタシーが生じます。それは、もうこの現世の性欲や食欲の喜びなど全く必要なくなるような、自然で強力な内的エクスタシーです。
 そのようなエクスタシーを感じつつも、あくことなく、菩薩は行動し続けるのです。菩薩行そのものに喜びを見出して。それによりいっそうそのエクスタシーも増大していきます。この宇宙の全ての衆生が救済されるまで、彼はその菩薩行の疾走をやめることはないでしょう。

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