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自己中心性

 ある物事が良いか悪いかが分からないとき、私たちは、自らの自己中心性のために、無用な期待を抱いたり、疑念を抱いたりします。自らの自己中心性のために、何とか生き延びようと考えながら戦争に赴いたり、明日の戦いのために生きようと考えながら、自分の命を危険にさらしたりします。

 「思い通りにならない」という取るに足らない問題に直面した時、私たちはいつも僧院長、教師、友人、あるいは両親を非難します。私たちの自己中心性の感覚は、恥知らずなのです。私たちは自分より優れた人には嫉妬し、自分と対等な人には競争的であり、自分より低い人には得意になり、尊大です。褒められれば幸福に感じ、批判されれば怒ります。全く自らの自己中心性のために、煩悩は、轡をつけていない馬のように、抑制が利かないのです。

 私たちは非常に自己中心的であるために、自分の枕の上にネズミが落ちたのに気づいた時、ネズミが耳をかじるのではないだろうかと不安になります。雷のバリバリという音を聞くと、閃光が自分の頭に落ちるのではないかと心配します。悪霊の出るところでは、最初に、そこに住む悪霊にとりつかれるのではないかと心配になります。自己中心性は、私たちの恐怖の源泉です。悪い知らせを聞きたくないことから苦しむ人もいますし、敵を抑えられなかったり、身内の暮らしを援助できなかったりすることから苦しむ人もいます。このようなあらゆる事例において、自己中心性は、一切の「責め」を負うべき根源なのです。

 私たちの不幸はすべて、教化されていない心のために起こってきます。「心」というものは、制御されないままに、自己中心的な態度に起因します。自己中心的な態度は、毒の源泉であるトリカブトのようなものです。それは、希望や不安のような感情の主人を作り出します。そしてこれらの感情のために、私たちは絶えず失敗と災難に直面するのです。

 通常、私たちは、悪くなったことは何でも他者のせいにして、他者を名指しで責めます。しかし問題の本当の根っこ、つまりあらゆるトラブルの根源、すべての不幸なことや悪い前兆の発端は、何ものにも邪魔されずに私たちの心を占拠している「自己中心的な態度」なのです。その始まりすら分からない遠い過去から、私たちは、忠実にその指導力に追随してきました。ですから、自己中心的な態度にすべての過失の責めを負わせるべきなのです。

 ――「ダライ・ラマ 他者と共に生きる」より

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