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「それぞれの生命体がバルドを渡る方法」

◎それぞれの生命体がバルドを渡る方法

【本文】
②それぞれの生命体がバルドを渡る方法

 最も優れた生命体は、生きているうちに仏陀の境地に至るので、完全に生死からもバルドからも自由になっている。

 優れた生命体で、しかし生きているうちに仏陀の境地には至れなかった者は、バルドにおいて仏陀に至る。

 その他の生命体は、死が近づいたなら、すべての財産を師や聖者に供養し、すべての欲を捨てて、悪業を懺悔し、心に何のとらわれもなくし、覚悟を決めて死を迎えるべきである。
 生きているうちにバルドの教えを何度も修習し、真理の教えを思念しつつ、息子が愛する父の部屋に行くように、喜ばしい心をもって死を迎えるべきである。
 それから自分をイダムとして明らかに観想し、面前にグルと種々の仏陀や菩薩を観想し、それらに供養して、「死の光明を悟り、バルドにおいて幻身を成就できますように」と強く祈願するべきである。

 「中くらいの生命体」は、生きているうちに、生命エネルギーを中央気道に集めること、四つの空を経験すること、その空からイダムとして生起すること、また睡眠の四つの空を経験すること、夢の幻身と、夢から変化身として目覚めることなどを、繰り返し修習しておかなければならない。

 これは、最初の二つは、さっき言ったことですね。生きてるうちに完全に完成した人は、それはもうバルドとかは関係ないですよと。次に、ほぼ完成していた魂は、バルドの瞬間に仏陀になりますよと。
 で、そうじゃない、その他大勢の普通の魂は、「死が近づいたなら、すべての財産を師や聖者に供養し、すべての欲を捨てて、悪業を懺悔し、心に何のとらわれもなくし、覚悟を決めて死を迎える」と。
 財産を師や聖者に供養するって分かるよね、この意味は。T君、どういう意味だと思いますか。

(T)徳を積む。

 そうだね。一つは徳を積む。もう一つは?

(T)執着を取る。

 そうだね。徳を積むっていう意味と執着を取るっていう二つの意味があります。
 つまり一つは、その師や聖者への供養によって、高い世界に行くための徳をしっかりと積むと。
 で、もう一つは、財産にとらわれていたらその財産にまつわる世界――例えばお金にとらわれてたら餓鬼になっちゃうし、権力とかにとらわれてたら――まあその権力の種類にもよるけどね――餓鬼、もしくはその人が本当は天界に行けるはずだったのに阿修羅になっちゃうとか、いろいろある。よって、一切のとらわれをなくさなきゃいけない。
 で、それを、一番いいのは、自分の師とか聖者に供養すると。で、もちろん物質的なそういった供養だけじゃなくて、心の中からもできるだけそのようなとらわれ、欲、すべて捨てると。そしてその死の準備をしなさいと。
 もちろん、そんなこといっても、急死するかもしれない。だから布施、あるいは供養っていうのは、生きている間から徹底的にやっといた方がいいね。
 例えばT君が大金持ちで、「いや、先生、僕死ぬ直前になったら、徹底的に布施しますよー」とか言ってたら、明日死んじゃうかも(笑)。「ああ、あのときやっとけばよかったのに……」。

(一同笑)

 「ちょっと徳足りなくて変な世界行っちゃったね」――って言われるかもしれない(笑)。だからできるときに布施とか供養っていうのは徹底的にやっといた方がいい。うん。
 さっき言った徳を積む、それから執着をなくす、もう一個加えるとしたら、絆を強めるっていうのがもちろんあります。自分の師、あるいは聖なる存在との絆をそれによって強くしていくんだね。まあいつも言うけど、本当はそれが一番大事なのかもしれない。
 徳を積むっていうこと、それからとらわれをなくす――つまり浄化をするっていうこと。それから絆を強める。この三つが修行のポイントだと思います。それは今言った話だけじゃなくて、日々のいろんな修行もそれを狙ってやってるわけだけど。
 この中で最高のことを挙げるとしたら、絆を強めるっていうことです。これは何回か言ってるけどね。つまり徳があるってことは、もしわれわれが死んで徳があったとしたら、もう何の障害もなく、普通にスムーズにいい世界に行きます。膨大な徳があったらね。次に、執着とかあるいは心のけがれとかがあるっていうのは、これは逆に、われわれが低い世界とのいろんな引きずり下ろされる絆ができちゃってるっていうことです。で、そうじゃなくて師や聖者と絆を作るっていうのは、その師や聖者や神々、仏陀というものから垂れてるロープみたいなものに、しっかりとつかまってるっていうことです。これがなんで一番大事かっていうと、これは環境に左右されないから。
 つまりちょっとすごい変な言い方すれば、超・徳がなく、超・悪業に満ちてるけども、絆がしっかりしてる人がいたとするよ。この人はどうなるかっていうと、つまりイメージでいうと、バルドにおいて超暴風雨(笑)。もうありえないような、「うわー!!」っていう状態に巻き込まれます。でも絆があるから、なんとか吹き飛ばされないんです。「うわー!!」ってなるんだけど、「うわー!!」ってなっても、なんとかそれさえ離さなければ、もう超大変な思いはしたけども助かったってなるんだね。
 だから本当はその大変な思いもする必要はないんだよ、ちゃんと徳を積んで執着を切っておけばね。だから全部こう徳もしっかりあり、執着もなく、けがれもなく、悪業もなく、そして絆がしっかりしてる。これが最高だけど。それは当たり前っていうか全部やんなきゃいけないんだけど、でも一番をいうとしたら、やはり絆です。
 だから自分の師、あるいは仏陀、あるいは自分の信じる神、こういったものとは徹底的に強い絆を作る。まあ言い方を換えれば「縁を強める」っていうことです。「縁を強める」っていうのは、とても抽象的な言葉で難しいんだけど、まあそれはいろんなね、例えば日々そういうものを思うとか、それももちろんいいわけだけど、一つヒントを言うと、「常にそっちを選択する」っていうことです。それが縁を強めることになります。
 これは分かるよね。つまり、簡単な話でいうとさ、例えば「あ、今日、ヨーガ教室の勉強会だ」と。「あ、でも今日、友達とちょっと映画観に行きたいな」と。さあどっちを取るかっていう問題がある。まあどっちを取っても、その場面だけを見るとそんなに影響はないんだけど、そこで例えば友達との映画を取ったら、自分と友達との縁、それから自分がそういった映画とかを観る縁が強まる。修行との縁はちょっと弱まります。ちょっとだけね。で、ヨーガ教室に来たら、わたしとか修行仲間との縁、修行との縁はちょっと強まります。で、その友達とかとの縁はちょっと弱まります。一回はちょっとなんだけどね。でもこれを何度も繰り返すうちに、どんどんその縁っていうのがこう方向性が固まってくるんだね。
 で、それは何度も言うけど、一回はちょっとです。でもですよ、よく考えてみてください。一日っていうのはその選択の連続なんです。今言ったのはちょっと大きな選択だけど、じゃなくて考え方とか、あとちょっとした行動とかね。
 だからヒンドゥー教のヨーガにしろ、あと密教にしろ、徹底的にその師匠の言うことに従わせるっていうのはそういう意味もある。例えば師匠が指示を出す。それは一見「別にこっちのやり方でも問題ないかな」って思うものでも、師のやり方を取るわけだね。あるいは師のやり方が、それは論理的にいってちょっと面倒くさいよっていうやり方でも、師の言ったことを取る。これを繰り返すことによって縁が強まるんだね。
 あるいは教えっていう意味でいったら、もちろん教えがあり、自分の煩悩があり、さあどっちを取りますか?――教えからいったらこっちの道しかないと。で、煩悩からいうとこっちしかないと。でもちょっと煩悩取っちゃおうかな。・・・・・・これも一回はそんなたいしたことではない。しかしその集積が縁っていうのを作り上げるんだね。
 だからこれは一つのヒントだけども、縁を強める一つの方法としては、「常にそっちを選択する」っていうことです。自分のね、心を観察してたら分かります。常に人生っていうのは選択です。一瞬一瞬。つまり自分の中にいろんな縁があるから。さあどっちを取りますか?――この連続なんだね。
 考え方からしてそうなんだよ。実際の行動までいかなくても、どういうふうにそれを考えるか。それ一つとってもそうです。だから二十四時間選択なんだね。
 だからまたいつも言うけど、念正智が一番大事なんだね。自分の心を観察して、間違った方向に進まないように気をつけなきゃいけない。
 はい。まあとにかく、生きてる間からそれは徹底的にやらなきゃいけないわけだけど、もし死が来たっていうのが分かったら、しっかりとここら辺のね――供養、布施、懺悔、そして覚悟を決めると。それをまずやりなさいと。

 はい、そして「生きているうちにバルドの教えを何度も修習し、真理の教えを思念しつつ、息子が愛する父の部屋に行くように、喜ばしい心をもって死を迎えるべきである」。
 そうですね、ここに集まっている皆さんのカルマでいうと、ここはやはりバクティ・ヨーガもしくは菩薩行的な意識を持っていくといいね。つまり、バクティでいったら――さあ死ぬと。そのときに「さあ、わたしは至高者のもとに帰りましょう」と。「さあ、至高者、わたしを受け取ってください」という気持ちをもって死になさいと。つまりここは、心を乱しちゃいけないっていうことです。つまり「あ、もう死ぬかもしれない。ああ、どうしよう、どうしよう……」「あ! おれはもう死んでしまう……うわー!」――これは変な世界へ行きます。心が乱れてるとね。変な世界へ行く可能性が強まってしまう。だからゆったりとした、安定した、そして高い世界にゆだねるような気持ちで死になさいと。
 あるいは菩薩行の場合は、別パターンとしてはね、「さあ、今生のわたしの肉体は終わりを告げようとしている」と。「来世はもっともっと人々の役に立てるように――例えば地獄に生まれ変わって救済したい。もしくは人間界でもいいけども、いろんな苦しむ人々のいるところに行ってみんなの苦しみを背負いたい」って思いながら死ぬと。これはこれで素晴らしい。とにかくそのような覚悟をもって、しっかりと死になさいっていうことですね。
 はい。これはまあ普通の、つまりまだ仏陀の境地まで達してない人たちのことが書かれてるわけですが、その中間の人たち。中間っていうのはつまり、普通の人よりは結構修行が進んでいるが、でもまだ死んですぐに仏陀になれるほどまでいってるかどうか分からない。つまりこれは可能性としては、そのような素晴らしい境地に死んで達する可能性もあるが、まあそこまでいけないかもしれない――こういう状態だね。こういう状態の人は、でもそれだけの要素は結構いいものを持ってるから、それを生きてる間にしっかりと修習しときなさいということですね、ここはね。

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