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解説「ダンマパダ」第一回(1)

2006年9月27日勉強会 「ダンマパダ 第一章」

◎すべては心

 今日はダンマパダ。これは原始仏典ですね。漢訳では、中国や日本では昔から法句経っていう言葉でよく知られています。
 で、どちらかというとこれは、様々なお釈迦様の教えのエッセンスを集めたようなものですが、欧米とかではものすごくこれは普及していて、まあ世界で一番知られている仏典と言っても過言ではないぐらいのものなんです、このダンマパダは。それだけ、素晴らしさ――それは内容的素晴らしさもそうだし、説き方の美しさもすごく評価されている作品ですね。

【本文】

第一章 ひと組みずつ

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。

 はい。まあ、この辺は読んで字のごとくだね。全ては心ですよと。心こそが、全ての主であって、すべては心によって作り出されるんだよと。つまり、誰かもし苦しんでいるとしたら、それはその人の心が、一番の原因なんだよと。あるいは喜んでいる人がいたら、それはその人の心が原因なんだよと。

◎心の科学

 これについてT君、どう思いますか?

(T)いやー、もう、唯物論の対極にある考え方だなーって。

 ああ、そうだね。
 でもこれは大雑把に言うと、西洋と東洋の、科学の違いだね。
 科学という言葉っていうのは、決してその唯物論的なものだけじゃなくて、例えば「魂の科学」っていう本があるように、東洋っていうのはすごく、心理的な科学っていうか、あるいは霊的な科学っていうか、それをどんどん追求してきたわけですね。その一番中心的なのが仏教でありヨーガであるわけだけど、結局その、大きなその大元の考え方の違いっていうのは、西洋で発展した科学っていうのは、まず全ては物質的な働きがあると。で、それを自然科学として、外側の世界の物理的な仕組みを解明しようとした。で、東洋の発想っていうのはそうじゃなくて、いや、全ては心が作り出しているんではないかと。よって心の解明に、数千年、あるいは数万年をかけて、聖者方が瞑想で解明していったわけだね。その辺の大きな違いが確かにありますね。

◎善い思いを持っていますか

 そしてこのお釈迦様ももちろん、修行によって一つ得た、まあ気付きっていうか、悟ったこととして、すべては心に基づくものなんですよと。
 まあこれはだから、なんていうかな、ここの部分っていうのは二つの見方があると思うね。ひとつは壮大な、「すべては心から世界は作り出される」っていう部分と、もうちょっと現実的な、日常の中で、いや、私たちは心こそが大事なんだよっていう部分ね。
 で、この後者の部分っていうのは、これもまた非常に重要なところで、例えばある昔の聖者は、誰かと会って挨拶する時に、「おはよう」とか「こんにちは」とか言わないで、
「善い思いを持っていますか?」
と挨拶したっていう聖者がいると。もう常に、パッと会ったときに、
「あ、どうもS君、善い思いを持っていますか?」
と(笑)。
「あ、U君、善い思いを持っていますか?」
と。これが挨拶の言葉になっていると。
 つまりそれが最も重要なことだっていうことが分かるね。

◎第一義的なもの

 つまりこれは逆の言い方をすると、仏教ではよく身・口・意っていって、体、言葉、心の三つに我々の行動を分けるわけですが、体と言葉が二次的なものだと考えればいい。つまり逆の言い方をすると、いかに体や言葉で聖者っぽい、修行者っぽいことをやっていても、心が全然汚れていたら、それは意味ないんだよっていう発想なんだね。心こそがメインなんだよと。
 で、さらに言えば、心の清らかさを保つために、仮に一時的にちょっと、体や言葉が汚れているように見えたとしても、それは心の方が大事なんだよと。
 これはまあ、いろんな場面で考えることができるね。例えば、人を救うために嘘をつくっていうことが必要なこともあるのかもしれない。で、それは、本当にこの人を救いたいっていう思いで嘘をついたとしたら、それは心の浄化になるわけです。でも言葉は汚れるわけ。さあ、どっちがいいのかっていう問題になる。
 あるいはそうじゃなくて、ピシっと修行者っぽい人生を送り、言葉も美しいと。しかしその裏側には、さあ、俺を見ろと(笑)。そう傲慢な心があったと。これはいいのかどうか、っていう問題がある。
 もちろんこれはねえ、ここでもう一つ言えるのは、じゃあ心が汚くて、言葉や体だけきれいにする作業がいいのか悪いのかっていうと、これは実はいいんです。全部汚いよりは(笑)。つまり体や言葉をきれいにしていくことで、心も影響を受けていくから、それはそれでいいんだけど、ただポイントをいうならば、心こそナンバーワンだよと。つまりもし心の浄化を第一位に置ける人がいるとしたら、それが一番素晴らしいよと。それを我々の心に留めておかなきゃいけない。
 もちろん、もう一度繰り返すけど、形を整えるっていうのももちろん大事なんだよ。この身の行ないをしっかり正すとか、あるいは言葉をきれいにするっていうのは大事なんだけど、一番メインに置かなきゃいけないのは心なんだね。
 で、それは普通の人もそうだし、修行者も同じだけども、我々の不幸のすべての源は心にあると。あるいは幸福のすべての源はすべて心にあると。
 これはもうちょっと発展させると、シャーンティデーヴァの入菩提行論にあったように――この世で楽しんでいる人はすべて、利他、つまり他人の幸福を願ったからだと。あるいは、この世で苦しんでいる人はすべて、自分の幸福のみを、つまりエゴを追求したからだと。そういうものすごくこう断定的な、ズバッとした教えがあるわけだけど、これはまあ、この教えの発展形ですね。
 つまり目に見える現象っていうのはすべて、つじつま合わせに過ぎないんだね。カルマのつじつま合わせ。
 例えば、よく論理的にこう、人生哲学を語る人がいるよね。こうこうこうしたら幸福になるんだよとか、成功するんだよと。あるいは例えば、いや、君はここでこう、この仕事を成功させるには、まずこのプログラムを組んで、このステップを踏んでこうやらないとダメだよ、あ、やっぱり失敗したねと。それはこうやらなかったからだよと。もちろんそのような表面的な条件っていうのも、この世で生きる上で当然働いているんだが、それはあくまでも二次的なものなんです。それをやったから成功したとか、それをやんなかったから成功したとかいうよりももっと奥の、第一次的な因として、心があるんです、っていうことをここで言っているわけですね。よって、すべては心に基づき幸せになり、心に基づき不幸になるんだよと。
 もちろんこれはいつもカルマの法則でいうように、我々は、過去世からのカルマの積み重ねとか、あるいは、表面的には汚れているとかきれいだっていっても何層も我々の心はあるわけだから、一見心の汚い人がこの世で幸せになったりとか、一見心のきれいそうな人が不幸だっていう場合も当然あるわけだ。それはそういった、過去世のカルマなり、あるいはまだ表面に現われていない奥底のその精神の状態によるのかもしれない。
 でも本当にその人の心が、けがれが本当に少なくなってきたら、少なくともその人は不幸にはなかなかならない。あるいは逆にけがれがほとんどになってきたら、その人は幸福にはなかなかならない。何でかっていうと、当たり前の話だけれども、結局、幸不幸を感じるのは心だから(笑)。ね。外側をいかにこう整えたとしても、それを感じるものは心だから、例えば心が本当に清らかであるとしたら、その人はどこにいても幸福です。どんな状況でも幸福になってしまう。で、心が本当に汚れている人がいるとしたら、どんな状況でも小さな不幸を見つけて、ああ俺は不幸だって思ってしまう。
 それはまあ皆さんの周りを見ても分かると思うけども、なんでこの人はこんな、客観的には幸せな環境にあるのに、こんなに一人で不満や苦悩を抱え込んでいるんだろうとか。あるいは逆に、あ、この人はこんなにいろんな苦境に陥っているのに、すごい明るいなとかね。いろいろそれはあると思うけども、結局それは第一義的に来るのは心なんだね。

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