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◎逆境を変容させる

◎逆境を変容させる

 もう一回言うと、まず寿命が短くなる。人間の煩悩が増える。そして人間のエゴが強くなる。そして物の見方がおかしくなる。そして最後が今言った、ちょっと広い意味でね、世界そのものの堕落。つまり実際に周りで変なことが起き出したり、苦しみが多くなったり、あるいは神が去って魔がはびこるようになったり。

 で、こういったことがこのカーリー・ユガでは起きるんだよと。しかしこのときにこそ、「逆境を悟りへの道に変容させよ」と。

 この「逆境を変容させる」――これこそ、仏教とか、まあヨーガもそうだけど――のエッセンスの中の一番かっこいい教えだね(笑)。そして一番重要な教えでもある。

 つまり修行者にとって、逆境っていうのは悪いもんじゃないんです。チベットのマハームドラー――つまりミラレ―パとかが修行した教えの一つの話としてはね、マハームドラーの修行においては、最悪の状況であればあるほど、最高の状況だっていう教えがある。

 つまりここでいう最悪っていうのは、つまり自分にとって「苦しい」「嫌だ」あるいは「やりにくい」っていう状況。これこそ最高だと。この逆境こそ、自分を鍛えてくれて、そして自分の悟りを目覚めさせてくれる最高の状況なんだね。

 もちろんその準備というかな、それだけの見解がこちらにないと駄目だよ。

 この話っていうのは、何ていうか、とても一般論としては言いにくい話なんだね。みなさんが将来的にね、いろんな逆境にあったときに、それをいかに変えていくかっていうのは、やっぱりそれぞれの智慧というか、考え方次第になってしまう。

 でも一般論というか土台として考えてほしいのは、逆境は悪いもんじゃない。逆境こそが――つまりオーソドックスな、何もない修行しやすい環境で修行するのは、それはもちろんやりやすい。やりやすいけども、まあ言ってみればそんなにジャンプ力はない。ゆっくりゆっくりと滑らかな山の道を登って行くようなもんなんだね。しかし逆境がわれわれに訪れたとき、われわれがそれを転換させることができたら、一気にジャンプできます。一気に自分の心をバッと変えることができる。

 よって、逆境がないときはないときでそれはそれで順調にね、やっていけばいいんだけど、逆境が来たらそれはチャンスだって考えなきゃいけない。「あ! 来た!」と。「チャンスだ!」と。「これこそわたしが一気に心を目覚めさせるチャンスがやってきたんだ」と。

 で、それはどういう意味でチャンスなのかっていうのは、そのときそのときで考えなきゃいけないけど。

 『入菩提行論』とかでそういうことがいっぱい書いてあるよね、考え方としてね。

 例えばみなさんの前に意地悪な人が現われて、みんなに意地悪したとするよ。それを修行者は、「あ、これは素晴らしいチャンスだ!」と考えなきゃいけないわけだね。こちら側にそういう謙虚さがあれば成功する。例えば、いじめられることによって目覚めるかもしれない――目覚めるっていうのは自分の心が引き締まる。ああ、おれは最近ちょっと堕落していたと。おれはあまり修行に身が入っていなかったと。なぜかっていうと、それはわたしが悟ったから安楽だったんじゃなくて、ただ周りが生ぬるい環境だったから安楽だっただけで、こういうたかだか一人の意地悪な人が現われただけで、わたしはこんなに心が乱されてしまうと。そうだ! と。もっと真剣に修行しなきゃいけなかったんだと――こういうふうに心を引き締めることもできる。「ありがとう」と。「あなたがわたしをいじめてくれたおかげで、わたしはちょとまた心が引き締まりました」と――こう考えることができるよね。

 あるいはもちろん、自分の慈悲の実践、慈愛の実践の素晴らしい練習相手として相手を見ることもできる。

 つまり、そういうふうに見ていく。

 もちろんこの背景には、いつも言うように、バクティ的な発想がなきゃ駄目です。バクティ的な発想っていうのは、仏陀やあるいは神に対する絶対的な信頼感だね。つまり「わたしは神や仏陀に導かれてるんだ」と――そういう意識。そういう意識があって、例えばいろんな苦しいことがやってくると、「これはまさに神の愛だ」と。「仏陀の愛だ」って考えることができる。その逆境が大きければ大きいほど、自分にとって悟りのチャンスっていうのは高まる。そういう見方ができるかどうかだね。

 で、そういうことを普段から考えてる人にとっては、「今の時代、この時代は最悪の時代ですよ」と。「魔がはびこっていて、いろんな悪いことが起きるし、修行しづらい、非常に最悪の時代ですよ」っていうのを聞いたときに、「そうか!」と。「ということは、最高の時代だな」と(笑)。「まさに今こそ、逆境をいかに悟りに変えるかっていう教えを実践すべき時だ」と――そういうことなんだね。

 だから単純に、今カーリー・ユガ、最悪の時代ですよ。「ああ、何でおれたちこんな時代に生まれちゃったんだろう。うまく早くこの人生終わっていいところに行きたいな」じゃなくて(笑)、「あ、これはラッキーだ」と。「おれたちがこの時代に生まれてきたのは、まさに自分の心を強烈に変化させるための神の愛だ」と。まさにかわいい子には旅をさせろ的なね(笑)、そのような強烈な神の激しい愛だと。よってこれを十分に受け止めて、今こそ逆境を変換させる教えを実践しようと考えるべきだね。

 だから特に今の時代においては、逆境を跳ね返す――跳ね返すというよりも利用する。逆境を利用して自分の心を変革させるような習性ね。そういう才能っていうかな。それはみなさんしっかり身につけた方がいい。特に今の時代においてはね。

 良いカルマが出て、非常にいい人生の流れのときに、真理を実践できる――これはある意味当たり前なんです。もちろんそれもできないんだったらしょうがないけども、それができるのはある意味当たり前。すべてがやりやすい状態でやるのは非常に当たり前の状態。で、そこに、やりにくい状態、あるいは多くの魔的な状態が来たときに――さあ、どこまで対抗できるか。あるいは対抗どころか、すべてをひっくり返して、逆境を逆に自分のプラスに変えてしまうか。これがある意味、修行者の価値を決めるといってもいい。

 もう一回言うよ。修行しやすいときに修行できるのは当たり前なんです。だからちょっと厳しい言い方だけどね。厳しい言い方っていうのは、修行しやすいときにも修行できないんだったらそれは話にならないっていうことです(笑)。修行しやすいときに修行できるのは当たり前。修行しにくい――これは自分の内面も含めて、あるいは外側のことも含めて――そういうのが訪れたときに、いかにそれを逆手にとるか。

◎魔さえも神

 わたしは自分の人生を振り返ると、やっぱり逆境はいろいろ多かったと思う。でも逆境を乗り越えた経験もたくさんある。そうなるとね、よく分かるんです。よく分かるっていうのは、悪魔さえも完全なる神の使いだったって分かる。それは実感としてだけどね。実感として、つまりもういかにも魔的なものにやられてるとしか思えないような状況がいろいろ続くと。「ウワーッ」てなってるんだけど、なんとかそれを心を入れ替えて乗り越えると、とても素晴らしいプレゼントというかな、とても素晴らしい自分の心の進化があることに気付く。そうすると――つまり悪役としてやって来た魔に感謝したくなるんだね。

 「お前、おれの修行を進めてくれるために、そんな悪い顔で来てくれたのか」と(笑)。「そんな悪役をかって出てまで、おれを進化させてくれたのか」と(笑)。

 魔さえも実は神の仕業――まあ神の仕業っていうよりも、神なんです(笑)、もっと言えば。つまり、神自身があえて悪役を演じてやって来てくれたんだね。

 もちろん最初からそういう感じで魔を受け入れちゃだめだよ。魔的なものが来て、「ああ、魔、ありがとう」ってやってたら、ただ魔にウワーッてやられて、魔の仲間として引きずりこまれちゃうから(笑)。じゃなくて、「さあ、逆境をどうやって乗り越えるか」ってバーッと戦って、それを変換させてしまった暁には、そういうようなことに気がつきます。だからそういう意味でいったら魔も悪いもんじゃない。

 でもそれには、何度も言うけども、それができるだけの土台が必要なんだね。つまりこちら側の高い智慧とか、あるいは忍辱――つまり苦しみに耐える力とか、あるいは教えだね。教えがどれだけ根付いてるか。教えが根付いていれば、その教えによってあらゆる苦悩とか、あらゆるものに耐えられるし、あるいは耐えるだけじゃなくて変換させることもできる。

◎なめらかな時期と激しい時期

 だからいつも言うけど、修行人生っていうのは滑らかな道と激しい道の繰り返し的なところがある。この中でもさ、「別に今、日々苦悩がないですよ」っていう人と、「日々苦悩だらけだ」っていう人がいるかもしれないけど、もし苦悩がないとしたら、蓄えの時期だと思ってください。将来必ずまた苦悩が来ます。そのときのためにちゃんと蓄えておいてください。つまり戦うときの準備です。つまり、それは教えをしっかりといっぱい学んだり、あるいは日々しっかりと気を上げたり、あるいは徳を積んだり、戒律を守ったり。そういうことをちゃんと滑らかな時期にやっておくんだね。そうすると、次にバーッと激しい時期がやってきたときに、それによって戦えるんです。それによって、さっきから言ってるような、逆境を逆転させることも可能になってくる。でも平凡な滑らかな時期にあまり力を入れて修行していないと、ウワーッてやって来たときに、ウワーッとなってしまう。ウワーッてなってしまって修行やめてしまう人もいるし、修行やめないまでもね、修行やめなかったとしても非常にもったいないです。つまりこれは、もし逆境を利用できたならば、百倍、千倍のメリットがあったにも関わらず、逆にその逆境にやられてしまったらば、百倍、千倍のマイナス、デメリットがある。つまりそれだけの価値の差が出てくるんだね。

 だから単純に、「ああ、わたしは魔にやられたけど、修行やめなかったからよかった」――まあそれは良かったけども、それは非常にもったいないんです。せっかく魔がやって来てくれた。せっかく逆境という最高の環境がやって来てくれたのに、何やってるんですかと(笑)。あなた準備してこなかったでしょと。あなたまだ修行しやすい時期に、あれだけ多くの教えや修行が与えられたにも関わらず、あまり真剣にやってきませんでしたねと(笑)。よって、次のチャンスを逃してしまいましたねと。で、また次の滑らかな時期が来る。だからその繰り返しだね。

 だから修行しやすいときにいかに蓄えるか。それによって逆境のときっていうものの価値が変わってくる。

 だからちょっと話が長くなっちゃいましたが、逆境をいかに逆転させるか。この性質っていうのはぜひみなさん身につけて欲しいね。で、将来的に、そういうような「これはわたしにとって逆境の時が来た」と思ったらそれは喜んで、それを最高のときが来たと思って、それと戦うっていうかな。そういう習性を身につけて欲しいですね。

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