◎普遍の存在
◎普遍の存在
【本文】
『カルマ・ヨーガを行ずる人は、すべての執着を捨てて、体と心と知性を用いてさまざまな行為をするが、
それはただ、自分を浄化するためにやっているだけなのだ。
カルマ・ヨーガを行ずる人は、すべての行為の結果を捨て、真の平安の境地に達していく。
しかし行じない人は、行為の果報を求め、心は行為にとらわれ、絶えず不安を抱えている。
肉体感覚を抑制し、識別の力によっていかなる行為にも執着しない魂は、
自分が行為することも他人を行為させることもなく、九門の町(肉体)に常に楽しく住むようになる。
至高者が、この世の生き物のため、行為する力や、行為そのものや、行為の結果を作り出しているのではない。
ただ(至高者によって創造された)自性がそういうものを生み出しているのに過ぎないのだ。
普遍的存在者としての大霊は、いかなる者の罪にも、徳にも、かかわることはない。
だが、生き物はそのことを知らぬがゆえに、迷い苦しむことになる。
だが真我に精通することによって無智の闇を打ち破った人は、
その完全なる叡智によって至高者の存在を明らかにする。ちょうど太陽が万物を明らかに照らすように。』
はい。まあここのところの前半は、まあ、さっきからの続きの、同じようなことですね。で、後半。これはヨーガの一つの最高の真理であり、同時に仏教、特にマハームドラーとかゾクチェンとかいう密教で説くところの最高真理と全く同じですが、『普遍的存在者としての大霊』っていう表現がされてますが、これはまあブラフマンといってもいいし、シヴァといってもいいし、あるいは真我といってもいいし、あるいはわれわれの心の本性といってもいいし、ブッダといってもいいし、もともと全く何とも関わらない、純粋なわれわれの本質があるわけですね。で、それは、いかなるものにも関わらない。それは罪にも徳にも関わらない。
そうじゃなくて、至高者――つまりシヴァやクリシュナや如来といった――が創り出したとされる、自性といわれる――まあこれはいつもいってることだけどね、つまり、われわれとは本来全く関係のない映画のような、ものの動きがあって、その自性と呼ばれるものが創り出したいろんな劇みたいなものが、われわれの全ての行為なんだよと。あるいは、行為の――カルマの法則も含めて、この世のいろんな動きなんだよと。しかしそれに惑わされずに、われわれの心の本性、真我に覚醒した人っていうのは、ちょうど万物が――太陽が万物を明らかにするように、至高者の存在を明らかにすると。まあ、これはいつもいってるようなことですね。
結局われわれの行為っていうのが、何度も繰り返すけども、われわれが実際は為しているわけではないと。だから、ここら辺はちょっと深く読み解かなきゃいけないのは、ここで至高者っていう言葉っていうのは、クリシュナとかシヴァとかいった、われわれが供養すべき偉大な魂であると同時に、われわれ自身だっていうふうに考えなきゃいけない。で、この宇宙の絶対的存在としての至高者がいるんだけど、でもこれが「ああ、至高者ー」ってわれわれが言ってるっていうことは、われわれは今この幻影の中に巻き込まれてるからです。でも本当の本当のこというと、われわれも至高者と一体なんです。これに気づかなきゃいけない。これに気づいたら、実は私は何にもやってなかったと。最初から動いてないし、最初から苦しんでもいないし、常に至高者と一体の、完全なる純粋だったっていうのに最後は気づくんだけど――っていうとこだね。
-
前の記事
心の湖 -
次の記事
「コーサラ国王の前生」