◎呼吸に乗せて
◎呼吸に乗せて
はい、そして、
「この二つは呼吸に乗せて行なわれるべきである」。
はい、これはここでやってる瞑想みたいに、実際に息を吸うときにみんなの苦しみが自分に入ってくるっていうイメージ。そして息を吐くときに、自分の幸せがみんなに行くっていうイメージね。
まあこれは、いろんな意味があるわけだけど、まず呼吸とともにやると、当然イメージしやすいっていうのはあるよね。つまり、物理的に息を吸うってことは空気がグーって入ってくるから、それに乗せるとそのみんなの苦しみをこう引き受けるっていうイメージがしやすい。逆に息を吐くときは、自分の幸せをみんなにバーッて与えるっていうイメージをしやすい。そのイメージのしやすさっていうのが一つある。
それからもう一つは、呼吸っていうのは止められない。つまりずーっと呼吸してるわけです。だから、もしわれわれが呼吸に乗せてこのトンレンをやるっていう癖がついたら、完全についたら、ある意味ずーっとやっていられるわけです。だってずーっといつも呼吸してるわけだから。
瞑想ってなかなか難しいのは、持続が難しいじゃないですか。例えばね、この呼吸っていうのがなくて、「はい、あなた。今日から一日中トンレンしてください」と。「一日中、みんなの苦しみを背負い、自分の幸福を差し出すっていう瞑想をしてください」と。「ああ、分かりました」。「さあ、みんなの苦しみ来い。自分の幸せ行っちゃえ」――やってるけどだんだん違うこと考え出して(笑)、もうすぐに忘れてしまう。でも呼吸に乗せるっていう修習ができてると、呼吸はいつもしてるから、呼吸してる間、癖が付いちゃえば、他のこと考えてても呼吸とともにそういうイメージが継続する場合がある。もちろんそれでもやっぱり忘れちゃうけど。でも持続しやすいっていうかな。
ここで座ってやる瞑想のときもそうだね。座ってやる瞑想のときも、もし呼吸を使わなかったら――はい、みんなの苦しみが来て……はい、自分の幸せがみんなに行って……――このイメージだけだったら、どっかでたぶんつっかかっちゃうと思うね。はい、みんなの苦しみ背負って……ううう……どういう苦しみ背負おうかな……ううん、そうだな、そうだな、ああだなあ……とか考えて、全然今度違うことを考え出すとかね。でも呼吸っていうのはずーっと止まらずにやり続けてるから、その間はそのイメージを継続できる。だから呼吸を使うっていうのは、すごく現実的にメリットがある方法だね。
◎日常における応用
で、これはいつも言うように、日常においてリアルな形で、われわれは応用するとすごくいいね。リアルな形っていうのは、簡単にいうと、なんとなくね、なあんとなく「はい、わーって苦しみが来たー、わーって喜びが行ったー」だけじゃなくて、リアルに、例えば現実的にいうと、道を歩いていて目の見えない人がいたとしたら、単純にそのフワーってこう白い光が入って……とかそういうんじゃなくて、自分の目をあげる瞑想をする。で、相手のその盲目っていう状態を自分が受け取る瞑想をする、例えばね。例えば腕のない人がいたら、自分の腕をあげる瞑想をする。相手の腕のないっていう状態が自分に来る瞑想をする。あるいは精神的に悩んでいる、もう暗く苦しんでる人がいたら、その精神的な苦悩っていうものを自分が受ける、吸い取る瞑想をする。で、自分の中の精神的な安らぎを相手に与える瞑想をする。こういう感じでリアルな感じでやるとすごくいいんだね。
で、前から言ってるけど、それを本当にやり出すとエゴが嫌がります、非常に。でもエゴが嫌がってるっていうのは、これは効果が出てるっていうことです。で、それは、このトンレンを信じて思い切ってやってください。つまり、ある意味嫌がってでもいいから、エイッて感じでやるんです。十分に自分にまだ心構えができてなかったとしても、エイッて感じでやる。
つまりさ、本当にそうなったらどうしようっていう気持ちがあるから。われわれの中にはね。目の見えない人がいて、「さあ目玉を与えよう――ちょっと、本当にそうなったらどうしよう」と。「本当におれが失明しちゃったらどうしよう。怖いな・・・・・・」ってあるんだけど、「それでもいい!」と思ってバーッて目を与える。「それでもいい!」と思って盲目を受け取るっていう瞑想をする。他のことも全部そうだけどね。
例えば、愛する人を失って苦しんでいる人がいる。その愛する人を失うっていう苦しみ、こっちに来てくれと。わたしの、愛する人に囲まれて幸せだっていう幸せを、あなたが受け取ってくださいと。本当にそうなったらどうしようっていうのがあるけど、「それでもいい!」って思ってやるわけです。
これをやっているうちに、だんだんだんだんそれができるようになってきます。で、だんだん喜びをもってできるようになってくる。で、そのころには相当心が安定しています。自分の心がね。
あるいは自分の引っかかり、あるいは自分に生じた苦しみにもちろん応用することもできるね。だから逆のパターンでいうと、みなさんが何か苦しいことがあったとき、このトンレンをやってみてください。つまり、まあ何でもいいんだけど、みんなから仲間はずれにされてすごく苦しかったとするよ。そのときこそトンレンをやるんです。つまり、世界中で仲間はずれにされてる人たち。そのカルマが全部、今こそわたしに来てくださいと。つまりそこで逃げようって思っちゃいけない。「仲間はずれにされてて嫌だな、嫌だな、嫌だな」じゃなくて、「よし、もっと来い」と。「みんなが、仲間はずれにされてる人たちが、これによって楽になってくれ」と。で、自分の中の仲間はずれにされない――つまりみんなとわきあいあいできるっていう喜びのカルマは、世界中の苦しんでいる人にいってくださいと。こういう瞑想をそのときこそやるんだね。それによって自分は非常に楽になります。まあ楽になるっていう打算を持っちゃいけないんだけど(笑)、でも結果的に楽になります。
だから苦しいときこそ、それから逃げる瞑想じゃなくて、逆にその何倍もの人々の同じような苦しみを受け取る瞑想をするんです。で、逆に自分の中のそれから解放された喜びをみんなに与える瞑想をする。
これはもちろん最初は勇気が必要だね。勇気が必要だけど、何度も何度もやってるうちに、それは身に付いてきます。だからそういう癖をつけるといいね。
あるいは自分に執着があるときも、それは応用できる。自分がある何かの執着でとらわれてて、いつも頭の中でそれが回ってて、それで苦しいと。そういうときはもう思い切って、そのそういった喜びを得たいと思ってる多くの人々にそれを与える瞑想をする。で、それが得られなくて苦しいっていうその苦しみは、全部自分が引き受ける瞑想をする。こういうのも応用できるね。
だからこれはもう単純になんとなくイメージで、パーッと黒いものが来てパーッと光が行くだけじゃなくて、今みたいに自分の状況に応じて、あらゆる形で応用していけばいいね。
で、何度も言うけど、これは心の訓練の瞑想なわけだけど、われわれの人生の根本、生きる根本にはこういう発想がなきゃいけない。
◎自己を変革する覚悟
だから逆にいうと、いつも言うけども、この観点からいうとですよ、占いであるとか、あるいは何かの方法で凶を避けるとか、あとお祓いとかね、あとまあ、そうだね、そういういろんなエネルギーをもらって幸せになるとか、そういうのはもう意味がないんだね。
人間って弱いもんで、何でもかんでも運命のせいにしたり、何でもかんでもあるいは霊のせいにしたり、あるいは何かの――例えば今日こういうことをやったからこういうふうになってしまったんだとか、目に見えないなんか証明できないもののせいにしたりするね。チベットですら、あとインドもそうだけど、もちろんそういう傾向ってあるんだね。霊的なお祓いをしたりする伝統っていうのは、やっぱりまだ残っている。
でもそれは、この仏教の本質的な発想からいうと誤りなんだね。本質的な発想っていうのは、まさに、何度も言うけども、すべてのトラブルの原因は自分のエゴなんです。それだけなんです。だからわれわれが幸せになる方法は、エゴを捨てるしかないんです。お祓いしてもしょうがないです(笑)。ね。あるいは占いを見てもしょうがない。あるいは人に何らかのエネルギーで幸せにしてもらってもしょうがない。自分がエゴを捨てるしかない。そこだけに焦点を置くんだね。
そうじゃなくて、表面的な条件だけ整えようとする幸せ――つまりお祓いをしたり、占いで今日の幸せを見たり――これは問題を先延ばししてるだけであって。
まだ真理と縁がないならまだいい。しかしわれわれは、この仏教という、あるいは本当のヨーガという、本質的なものに出合ってしまった。しかもですよ、今日勉強するようなこの心の訓練という、真理の真髄みたいなものに出合ってしまった。そしたらもうその人にはそんな表面的な吉凶とか、表面的な条件のつじつま合わせの喜びなんていらない。本質的に自分を改造しなきゃいけない。
つまり根本的な、何度も言うけども、ただ一つの原因、ただ一つの悪の根源であるエゴを捨てなきゃいけない。これがわれわれの唯一の問題なんだね。
で、シャーンティデーヴァがいうように、シャーンティデーヴァの『入菩提行論』の言葉を借りると、「あらゆる苦しみはエゴのせいだ」と。「あらゆる喜びは利他心のせいだ」と。ね。これは何度も言ってるけど、これは百パーセントそうなんだっていうことを、確信しなきゃいけない。
今日は何度も同じことを言ってるけど、例外はないんです。まあ、そういうこともあるけどこういうこともあるよね――じゃないんです。百パーセントそうなんです。百パーセント、自分の苦しみはエゴのせい。百パーセント、自分の喜びは利他心のせいなんです。
で、この言葉を聞いて、みなさんどう思うか分かんない。「え?」って思う人もいるかもしれないし、「そうかもな」って思う人もいるかもしれないし、「あ! 先生、そう思います!」と感動する人もいるかもしれないし、あるいは、「先生、それ違いますよ」と(笑)、いう人もいるかもしれない。それはみなさんの智慧であるとか、あるいはこういった教えとの縁にもよるんだけど。これにまず気付かなきゃいけないんだね。
そして、そのような方向性で自分を変革していこうっていう覚悟が必要なんですね。で、それを日々いろんな形でやっていくのが、この心の訓練の教えなんです、簡単にいうとね。
だからここではね、完全に二元的な発想が必要です。よく仏教で、すべては二元を超えてるっていうような発想をするけど、ここでは完全に二元化してOKです。つまり、エゴは敵だと。エゴは敵だっていう非常に二元的な意識を持つんだね。エゴは敵だからこいつを追い出すんだと。あるいは、打ちのめすんだと。あるいは、ギタギタになぶり倒すぞと(笑)。――わたしはね、よくそういうイメージしたけどね。わたしはもともと格闘技とか戦いとか好きな方だったから、そういうイメージを乗っけてね、自分のエゴを引っぺがして、もうグワーッてこう(笑)、ぐじゃぐじゃにもう踏み倒して、もう再起不能にして、追い出すと。あるいは刀で切り刻む。そういうような発想が必要なんだね。
「すべては一つですから・・・・・・」とかそういう曖昧な悟りっぽいイメージを持っちゃいけない。もうエゴはすべての敵だと。そしてわたしが達成しなきゃいけないのは、エゴの逆の利他心であると。四無量心、菩提心だと。で、わたしにはまだそれが全然ないと。よって、心の大手術をしなきゃいけないんだと。そういうような根本的な発想が必要だね。
そのような発想を持って日々生きる。それをいろんな日常の場面に応用して生きる。これが心の訓練の一つのポイントですね。
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