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◎他者を優れた者として

◎他者を優れた者として

【本文】
 いつであれ、他者と交流するときは、自分自身を最も劣った者と見なし、自らの心の奥底から、他者を優れた者として慈しむことを学べますように。

 これもね、あまり考え過ぎて突っ込まなくていいです(笑)。実践してください。

 「いつであれ、他者と交流するときは、自分自身を最も劣った者と見なし、自らの心の奥底から、他者を優れた者として慈しむ」と。

 ここで「突っ込まなくていい」っていうのはどういうことかっていうと、「本当にわたしはこの中で最も劣っているんですか?」っていうことは考えなくていい。そういう質問されると、こっちも困る(笑)。

 例えばM君にそういう教えを与えて、M君が、「先生、僕って一番劣っているんでしょうか」って(笑)、そういう問題じゃないんだと(笑)。じゃなくて、こういう考えをすることで得られるメリットがすごいよっていうことだね。

 だからもう一回話を戻すけど、エゴの破壊、そして慈悲の訓練。これのみがエッセンスだと。これを身につけることのメリットは、ものすごいと。じゃあ、どうやれば身につくんですかと。日常でどう考えたらいいんですかと。日常単純に、「慈悲、慈悲、慈悲……」とか、「エゴを捨てるぞ、エゴを捨てるぞ」とか――まあ、それでもいいけどね。それでもいいけど、それはあまりにも大雑把すぎる。細やかな心の働きに対処する教えがないと、分かんないんだね、自分ではね。それがエゴだってことすら分からない。よって、それへの対処なんです。

 例えば、自分ではエゴだと思ってない、自分では、例えば傲慢な感じでこの人に教えてやってるんだって思っているときに、エゴが増大している可能性がある。そういうときにこの教えがパッとあると――いや、わたしは劣っていると。他者に奉仕しなきゃいけない、慈しまなきゃいけないっていうのがあると――それを表現しなくてもいいんだよ。「皆さん、僕、一番劣ってますから」とか言わなくても――それを言ったのはナーグ・マハーシャヤだけど(笑)。ナーグ・マハーシャヤは、もう本当にリアルにみんなの前で、「本当にわたしは劣っていますから!」っていう、そういう人だったんだけど(笑)、そこまでは別にやらなくてもいいんだけど、心の背景としてこういう教えが入ってると、矯正されるんです、われわれの考え方が。

◎エゴの逃げ道をつぶしていく

 もう一回根本的なことをいうけども、教えっていうのは、最終的には百パーセント身につかなきゃいけないんです。どういうことかっていうと、例えば怒っちゃいけないっていう教えがあったとしたらね、絶対怒っちゃいけないんです。つまり、例外はないんです。しかしその例外が認められてしまう。自分の中でね。それを一つ一つつぶしていくんだね。

 例えば、これも何度も例に出してるけど、有名な話では、ある仏教の修行者がいて、瞑想してると。ある男が近づいて、「あなた何の瞑想してるんですか」と。「仏教の六波羅蜜の忍辱について瞑想しています」と。「忍辱って何ですか?」と。「忍辱っていうのは、何をされても決して怒らないっていうことです」と。そうしたらその聞いてた人が大笑いして、「何やってるの、お前馬鹿じゃない? そんなの意味ないよ」って言ったら、その瞑想家は、「何を言うんだ! このやろう!」って怒ったと(笑)。つまりこれは全く駄目なわけです。これが、心の訓練になってないっていうことだね。

 つまり、かたち上、忍辱っていう瞑想があってそれをやってるんだけど、実際は全然怒ってしまうと(笑)。でもこの人は気づいてないんだよ。「何だお前! ふざけるな! おれは忍辱をやってるんだから!」と(笑)。それ、やってないじゃん!っていう話なんです(笑)。自分では、なんとなく大まかに「怒らない」っていうのがあるんだけど、自分が今怒ってるということに気づけないんだね。自分は外れてないと思ってしまう。よって、それを駆逐するんです。

 あるいは別の話としては、これはラーマクリシュナの話だけど、ラーマクリシュナの友達のある聖者がいて、この聖者っていうのは、ヒンドゥー教の最高の教えである不二一元論だね、つまりすべてはブラフマンだと。すべては唯一の神の現われに過ぎないと。つまり、あの人もこの人もすべてブラフマンだという教えを説いていた。で、ラーマクリシュナと二人でいたら、その人は火を拝んで神に供物をささげたりしてたんだけど、その聖なる火に、ある男がやってきて、なんと吸い終わったタバコを投げ込んじゃった。そしたらその聖者が「何てことするんだ!」と怒った。そうしたらラーマクリシュナがすごい笑い出して、「何で笑っているんですか?」って言ったら、「あなた、すべてはブラフマンって言ってたばかりじゃないですか」と。「あなたの『すべてはブラフマン』っていう悟りは、いったいどこに行っちゃったんですか?」と。

 それを聞いてその聖者はハッとしたんです。つまり、言われるまで気づかなかったんだね。すべてはブラフマンと観てたのに、ひどいことをされた瞬間に、完全に二元的になって、あいつはひどいやつで、っていうすごく相対的な世界に入ってしまった。それをハッとした聖者は、静かに自分の心を観察してね、思索して、ついにパッと分かった。まあ単純な話なんだけど、「怒りは悟りを阻害する」って分かった。それに確信を得て、「怒りは悟りを阻害する」と。「よし、今日から怒りを捨てよう!」と思って、それから一生怒らなかった(笑)。

 ここがその聖者のすごいところで、それまでは怒りが自分の悟りの障害になると分かってなかっただね。で、分かったんです。分かったら、もう一生怒らなかったんだね。

 これは何かっていうと、はっきりいうと、やる気の違いです(笑)。つまりみなさんは、教えとしてはそういうことをいっぱい学んでるでしょ。シャーンティデーヴァの入菩提行論でも、一瞬の怒りが何カルパもの功徳を破壊しますよとか、いろいろいわれてる。そういうことをいっぱい学んでるのに、みなさんは日々怒ってる(笑)。はっきりいってやる気ないんです(笑)。本気で悟ろうとか、神に至ろうとかいうやる気が少なすぎる。

 でもこの聖者は本気だったから、それを自分で確信してからは、もうそれを捨てたんです。

 このような聖者には、心の訓練の教えは必要ないんです。でもわれわれは必要なんです。なぜかというと、教えと実践があまりにもかけ離れてるから(笑)。だから、単純におおまかな、怒っちゃ駄目だよとか、執着しちゃ駄目だよとか、プライドは駄目だよとか、そんな大まかなものではエゴの逃げ道が多過ぎるんだね。

◎サイン

 そうだね、前も言ったように、エゴっていうのはすごい詐欺師です。心があって――まあ心とエゴっていうのは、またちょっと違うんだけど――われわれの心をエゴが、詐欺で徹底的にだますんだね。つまり、「これは真理である」と。「これはいけない」と。でもエゴは、そのいけないって言ったものをやりたくてしょうがないわけです。だから自分自身をいろんな方法でだますんです。「……でもこれだったらいいんじゃない?」とか(笑)、「これはこういう条件だから、多分これぐらい許される」とかね。あるいは全然そういうふうにも思わない。いつの間にかエゴにだまされているときもある。つまり、これだけわれわれはエゴに弱いんだね。

 よって、また戻るけども、それを非常に具体的に駆逐するためのポイント、エッセンスとしてまとめられてるのが、この心の訓練の教えなんです。 

 だからもう一回今読んだところを言うとね、

「他者と交流するときは、自分自身を最も劣った者と見なせ」

と。

 そして、

「心の奥底から、他者を優れた者として慈しめ」

と。

 これはどうしてなんでしょう?――じゃなくて、サインなんです。サイン。

 どうしてなのかはどうでもいいと。だってお前、分かんないからと(笑)。とにかくやってみろと。サインっていうのはつまり、それをやりさえすればそこから抜けられるよっていうサインなんです。

◎ピンポイント的な教え

 よくこういう教えって「秘訣の教え」とかいうんだけど。秘訣の教えっていうのは、その教え自体は何を意味するのかよく分からないんだけど、それを学んだり実践したりすることで、自分がパッと変わる教えなんです。そういうものとしてこういうのがあるんだね。

 だから、そういう教えにめぐり合えるみなさんはとてもすばらしいというか、徳があると思う。

 はい、だからこれもこれ自体を説明するのはすごく難しいんだけど、みなさんもこれを忘れずに実際に実践してみてください。

 あの、ただ一つ言っておくと、そういう人はいないかもしれないけど、卑屈になっちゃ駄目だよ。劣ってると書いてあるから、「おれは劣ってる、劣ってる……」って暗く卑屈になる――それは駄目です。意味分かるよね? 

 善い誇りは持っていいから。つまり、「わたしは偉大な道を歩いてるんだ」。これは別に悪いことではない。それで修行が進むんだったら、それはそれですばらしい。

 じゃなくて、これはもう一回言うと、非常にピンポイント的な教えなんです。例えばこの一行ね――「いつであれ他者と交流するときは、自分自身を最も劣った者と見なし、他者を優れた者として見なせ」っていうのは、いつも適用されるものではありません。適用されない場合もあります。あるというか、多いです。

 例えば普通に誰かと接しているときに、それは別に要らない場合がある。別の教えの方がパッと適用されている場合がある。そのときはこの教えは、ちょっとスタンバイしているわけだね。

 でも確実にこの教えが必要なときがあるんです。それがちゃんとその言葉が心に根付いていると、出てくるんです。で、「あ、そうだ! 今はこれだ」と。「あ、おれ、傲慢だった」と。「いつのまにか傲慢になってた」と。「そうだ、おれは劣ってるんだ」と。

 例えば、ちょっとしたことで誰かのことが気に入らなくて怒りそうになったとき。「くそ、何だこいつ?」って思いそうになったとき、「わたしは劣っています」と(笑)。「この人にこんな文句をいう筋合いは、わたしにはない」と――とかね。いろんなかたちでピンポイントで、自分の間違いを修正してくれる教えだね。こういうのはね。

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