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「聖者の生涯 ナーロー」③(3)

◎心のあらわれ

 はい。で、次に、そこで教えが説かれるわけですが、この教えは、ちょっと読んでみると、

『この大慈悲の教えにおいて
 自己中心癖の頭蓋骨を
 無我と空性の木槌で砕かないのであれば
 どうしてグルを見出せようか。』

と。
 このナーローの生涯の教えっていうのは、非常にみなさん読んで分かるように、難解なんだね。だからわたしがここで言うことも、本当にいろんな人によって認められたセオリーというよりは、あくまでもわたしの見解だと思ってください。わたしがこれから説明することもね。だからみなさんがまた、みなさんなりにね修行を進めて、また違う見解が出ても、それはそれでいいと思う。あくまでちょっとわたしの見解として言うけどね。
 まず何度も言ってますけども、このナーローが何度も出会うこの幻というかヴィジョンというか、は、一つは、ナーローの心のけがれです。けがれというか心の現われですね。で、もうひとつは、グルからのメッセージです。
 で、まずナーローの心のけがれっていう面からいうならば、これはナーロー自身の持っている――なんて言ったらいいかな――邪悪な心っていうか、あるいは憎しみであるとか、怒りとかのまず現われなんだね。つまり両親をだますとか。両親に悪さをするとか。そういった男が現われるってこと自体が、ナーローがまだ――ここはね、微妙な問題なんだけど――空の悟りには到達しているんだが、まだしかしちょっと残っている憎しみとかの表われである、と。
 これはだから、われわれのその人生に当てはめるならば――当然これはね、いつも言うように、われわれが出会う、例えばひどい人間とかね、人に害を与えるような人物や出来事との出会いっていうのは、当然同じようにそういうふうに考えなきゃいけない。つまりわれわれの中にまだそういうね、怒りとか憎しみとか人を傷つけるとか、そういう発想っていうかな、カルマっていうか、それがあるんだと。
 で、ここで、それを「心の現われである」っていうのは二つ意味があります。二つっていうのは、一つは、そのような出来事と出会うことがそうだっていうのが一つね。で、もう一つは、そのように見えてしまうのがそうだってことだね。それは二重の意味があるわけですね。
 まずわれわれはその二番目のことを考えなきゃいけない。例えばさ、「ああ、あの人、本当になんて心が汚い人なんだろう」ってわれわれが思ったとしてね――でもそれはいつも言うように、われわれの中にそのようなけがれた発想がなければ、その相手のけがれっていうかな、そういうのは気づかないわけですね。まったくそれは、「あれ、あの人何言ってるんだろう?」と。「よく分かんないな」と(笑)。もしくは、本当に清らかだったら、逆に――ちょっとこれは極端に言うけどもね、どんなけがれた発想や言葉も、清らかな愛の言葉に聞こえる。ね。こっちにもしそれしかなかったらですよ。それしかなかったら、それを当てはめる形になるから、「あれ? この世って、わたしの周りって、なんか優しい人しかいないな」っていうその(笑)、感じになるんだね。うん。あるいはそこまでいかなくても、あんまり周りに嫌な人とかいうのが見えなくなります。これが二番目の意味ですね。
 だからまずわれわれは――これはユクテスワとかいろんな人が言ってるように――周りに「ああ、あの人いやだ」とか、「あの人こうだ!」っていうことを見てしまう自分のことをまず反省しなきゃいけない。自分の中にそういうのがまだいっぱいあるんだと。それを投影してるだけなんだと。だからそれは自分の心の状態を映し出している鏡として、他人を見なきゃいけない。
 だってこれはいつも言うけどさ、例えばM君というひとつの人物がいるとしたら、M君への印象っていうのは十人いれば多分十人違うわけですね。例えばM君のいいところ悪いところを挙げてくださいって言ったら、まあ例えば悪いところあげてくださいって言ったら、そうですね、もちろん十人が全員違うこと言うか分からないけども、まあたぶん三つぐらいに分かれるかもしれない。例えば最初の2~3人は、「こういうところです」と。で、次の2~3人は、「え!? そんなところM君にあるとは思いませんでしたけど、でもこういうところが悪いと思います」――つまり見える悪が違うわけだね。つまりそれは鏡だっていうことです。
 つまりぶっちゃけて言ってしまうと、M君の中には多くの良い部分と多くの悪い部分がある。っていうことは、こっち側の問題なんだね。
 だからこれがね、人を批判することの馬鹿馬鹿しさっていうか――これはみなさん分かると思うけども、ここに例えば百人人がいるとしたら、その百人全員がですよ、一人ひとり、百パーセント善だけの人はいない。逆に百パーセント悪だけの人もいないんです。ね。これは分かるよね。しかもその要素というのはですよ、要素というのは無数にあるんです。これをいわゆるサンスカーラといってもいいんだけど――カルマの種みたいなものは無数にある。例えばM君っていう一人の人物がいるとしたら、無数――でも無数っていってしまうとあまりなんで、じゃあ一応千にしましょう。千個の、M君を構成する要素があるんです。ね。で、この千個のうちの、その千個すべてを正確に見抜く人はいない。まあそれは仏陀だね。全智者。全智者は見抜く。でも普通は分からない。じゃあその千個のうちのどれくらい見られるんですかと。もちろんこれは数字では正確には言えないけども、まあそうですね、おそらく千個だったら、十個ぐらいでしょう。M君の、千持ってるうちの千分の十だけをわれわれは認識するんです。しかも、じゃあその千分の十のどこを認識するんですか、と。それが自分と合う、自分にもある部分を認識するんだね。つまりそれが鏡だっていうことですね。自分にも合うある部分をM君から認識すると。
 っていうことは、正確に相手を認識するなんてことは、まず不可能です。だって千分の十なんだから。しかも偏ってるんだから(笑)。ね。これがその、相手を批判したり、断定することの馬鹿馬鹿しさなんだね。
 だからそういう目で見なきゃいけない。だから決して自分の考え方やものの見方っていうのを、信じすぎてはいけない。自分はそう見ているけども、でもそれは一部なんだと。あるいは、自分の心の反映に過ぎないと。だから逆にそれで相手をどうしようではなくて、自分の心を変えるきっかけにしようと。
 例えば最近すごく心が平安だったんだけど、ある人物が現われて、すごくその相手の持っている、例えば意地汚さが目について、すごく嫌な気持ちになったと。そのとき考えるべきことは、「この意地汚い男が現われてくれなかったらよかったのに!」じゃなくて(笑)、「あ! わたしは今大きなメリットを得た」と。わたしは今まで自分が意地汚いとは思っていなかったが、この人意地汚いと思ってしまうっていうことは、わたしの中に実は意地汚さがまだあったんだと。これはまさに神からのプレゼントだと。「さあお前、今こそ意地汚さを一掃しろ」という示唆であると。だからちょっと言い方を変えると、「わたしはあの人が意地汚く見えなくなるまで、自分の意地汚さを浄化しよう」――というような発想が必要なんだね。これがだからわれわれにとって重要なものの見方の問題ね。
 で、そうじゃなくてもう一つの、一番目の問題っていうのは、そうじゃなくて現象としてね、そういった出来事が起きると。実際に――それは自分のカルマと言ってもいいわけだけど――自分の中にまだそのけがれがあるが故に、そのけがれに呼応した人物が現われたり、けがれに呼応した出来事が起きたりっていうことですね。でもそれも同じように自分のカルマや心の状態の鏡として、それを見る訓練が必要なんだね。
 だからこういった教えではいつも言ってるけども、すごく究極的にいえばですよ、この世はまさに鏡なんです。こういったふうに見ることを鏡のヨーガとかいうわけだけど。
 この鏡っていうのはどういうことかっていうと、つまりちょっと例え話でいうと、まさに鏡張りの部屋があってね、鏡張りの部屋っていうのは――しかもその鏡張りっていうのはそうですね、なめらかな鏡、丸い部屋というよりは、いくつもの角がある――つまり何角形もの角があるいびつな部屋だと考えてください。はい。そこに猫を一匹その部屋に入れたとしますよ。どうなりますか? 無智な猫ね。当然猫は無智だから――まあ鏡っていうのもね、もちろん知らない猫ね――その世界に入ったら、当然いびつな部屋だから、面ごとに、自分がいろんな角度から映し出される。そうすると猫は、例えばそれが十六面くらいあるとしたら、十六匹の猫がいるって見るわけです。で、その中である猫――つまり例えば正面で見た猫には怒りを覚えるかもしれない。「なんだこの猫! ふにー!」って感じでね(笑)。で、例えばこの七面目くらいにいる猫には愛着を覚えるかもしれない。その鏡の曲がり具合によってね。なんか結構いい猫に見えて(笑)。「ああ、なんかあの猫素敵だな」ってこう思うかもしれない(笑)。ね。そういう感じで十六面に対していろんな感情を抱くわけだけど、でもね、智慧ある人間から見たら、ああ馬鹿だなあと。猫はやっぱり馬鹿だと。ね。全部自分なのに、鏡の映り具合によって、執着したり嫌悪したりしてるだけなんだと。――これがわれわれの状態なんだね。
 だから実際に、この世界にいろんな人がいて、その人を自分の心の現われと見なさいっていうよりは、この世界は、実はすべてただの鏡なんだっていう発想だね。すべて、本当の意味での、われわれの心の反映っていうかね、現われしか、われわれが見ているものはないんだよっていう発想だね。その発想ができたら、修行はもちろんとても進むし、あるいはわれわれのこの世における悩みとか、余計な苦悩みたいなのは減ると思います。悟らないまでもね。悟らないまでも、その考え方を受け入れるだけでもね、大分楽になる。あるいは大分知性は高まるね。

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