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母なる神(6-3)

◎個別的な存在の仕方

 しかし、マハーシャクティの創造には多くの次元が存在し、神の力には多くの歩が存在している。私たちがその一部を占めているこの顕現の頂点には、無限の実在と無限の意識と無限の力と無限の至福をたたえた様々な世界が存在していて、母なる神ご自身が、ヴェールを脱いだ永遠の力として、そこに君臨している。そこでは一切が、言語を絶するほどの完全性と、不変の統一性のうちにあって、生命あるものとして活動しているのであるが、それは、彼女がそれら一切を己の腕に抱きかかえて、永遠に守っているのである。
 また、私たちにいっそう身近なところには、超精神に基づく完全な創造を示す諸々の世界が存在しており、そこでは母なる神が、自ら超精神と化したマハーシャクティとして、完璧な自在さをたたえながらも決して誤ることのない営みを通して、神の聖なる全智の「意思」と、神の聖なる全能の「叡智」とから成る自らの力を、一挙手一投足ごとに、間断なく明らかにしている。そこではすべての動きが真理の歩みとなっており、一切の存在が、神の聖なる光の、魂にして力、力にして身体となっており、一切の経験が、強烈な絶対的至福の、海にして海流、海流にして波となっている。
 しかしここ、私たちの住むところは、精神と生命と身体が意識を通してそれぞれの源泉からバラバラに切り離されてしまった世界として、迷妄が支配する多元的な世界となっており、この地球が一つの重要なセンターとなり、そこにおける進化が一つの決定的なプロセスとなっている。
 とはいえ、この地球もまた、自らに固有の暗さと戦いと不完全性を抱えているにもかかわらず、やはり普遍的な「母なる神」は、迷妄が支配するこの精神と生命と身体の世界をあまねく統べるマハーシャクティとして、自ら一つの中間的次元を介して、二つの次元を仲立ちしている。その一つは、ここ地上にひきおろされるべき、超精神に基づく光、真の生命、真の創造の次元であり、もう一つは、いったんは「物質」の無智の中に消えた後、やがて生命と魂と精神の開花をたどって、再び魂の無限性へと立ち返っていくはずの、降下と上昇の二重のはしごで構成されているように見える意識の階層的次元である。
 そこで彼女は、これら低次の世界に、自らの多様な力と精神の一部を流出させて、そうした世界の循環に、介入と支配、戦いと征服、指導と転換を重ねて、様々な力からなるそうした世界の、全体的な方向と個別的な方向の両方を指揮・監督するのである。
 これらの「流出」の多様な様相は、古来人々が様々な名前で「母なる神」を崇拝してきたときの、神の聖なる多様な形態と人格に相当している。
 母なる神はまた、主・イーシュワラのヴィブーティを明らかにすべく、超物理的世界において神々の様々な精神と身体を準備し、また形作っているときにさえ、物理的世界の中でも、人間の意識にこと寄せて、自分の力と性質と威厳とが放つ威光を少しでも明らかにしようと、こうした力とその流出を通して、己のヴィブーティから諸々の人間的精神と身体を準備し、また形作っているのである。

 母なる神は、高みから一切を治めるだけではなく、この、よりささやかな精神・生命・身体の世界にまで、自ら下っても来られるのである。
 非人格的側面に限っていえば、ここでは一切が、迷妄の働きまでもが、シャクティのヴェールをまとった彼女自身なのであり、縮小された質料となった彼女自身の創造物なのであり、彼女自身の「自然という名の身体」なのであり、彼女自身の「自然という名の力」なのである。そして一切が実在するのは、彼女自身が、そこ、「無限者」の諸々の可能性の中にあったものを成就するようにという「至高者」の厳命を受けて、自ら大いなる犠牲を払うことに同意したからに他ならず、自ら迷妄の魂と形を仮面のようにまとうことに同意したことに他ならない。
 しかしまた同時に、人格的主体としては、「大いなる母神」は、闇を光に導こうと、自ら身をかがめてこの闇の中に下り、「偽り」と「誤り」を「真理」に転換しようと、自ら身をかがめてこの「偽り」と「誤り」の中に下り、己自身の崇高なる至福の、一切を変容させる恍惚を通して、世界の苦しみに終止符を打とうと、自ら身をかがめてこの苦しみと悲しみと苦難の中に下ってこられたのである。
 彼女は、己の子供たちへの深く大きな愛を通して、この定かならざる暗闇という衣をまとうことに自ら同意し、闇と偽りの勢力からの攻撃と試練に耐えることに自ら同意して、それ自体が死である誕生の門を自ら苦しみに耐えてくぐり抜け、天地万物の苦悶と悲しみと苦難を自ら身をもって引き受けたのである。
 そのようにしてこそ、天地万物は初めて「光」と「喜び」の世界へと引き上げられ、「真理」と「永遠の生命」の世界へと引き上げられるからだ。
 これは、時として「プルシャの犠牲(生け贄)」と呼ばれることもあるが、より深い意味においては、これはまさしく「プラクリティの生け贄」に他ならず、「聖なる母神の犠牲」に他ならない。

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