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「聖者の生涯 ナーロー」③(2)


◎両親をだます男

【本文】
 ナーローが気絶から覚め、再び旅を続けていると、自分の両親に悪さをしている男に出会いました。ナーローが、グル・ティローを見なかったかと聞くと、男は、
「見たよ。でも教える前に、俺を手伝ってくれ」
と言いました。ナーローは、
「たとえティローに会えなかったとしても、自分は悪に加担することはできない。なぜなら自分は王子であり、僧であり、学者なのだ。グルを探すなら、ダルマに従った恥ずかしくない方法で探そう。」
 すると男は虹の光を放って舞い上がり、こう言いました。

『この大慈悲の教えにおいて
 自己中心癖の頭蓋骨を
 無我と空性の木槌で砕かないのであれば
 どうしてグルを見出せようか。』

 男は消え、ナーローは気絶して倒れました。

 こういう感じでね、同じようなパターンでいくわけです。もう一回ここをまとめると、ナーローが旅をしていると、なんかいつも変な人に出会うわけだけど、ここでは自分の両親に悪さをしてる男と。ここでは一応悪さをしてるって訳したけども、別の訳とかではペテンとかいう言葉が使われてる。つまり詐欺ですね、両親をだまそうとしているというような表現が使われています。そういう男に出会ったと。で、その男にティローというグルを知らないかって聞いたら、実はその男は知っていると。知っているんだけども教える条件として、おれが両親をだますのを手伝えって言ってきたわけだね。
 しかしここでナーローは、毅然とした態度で、「いや、わたしはたとえグルを探すことができなかったとしても、悪には絶対加担しない」と。「なぜなら自分は王子であり――王子の出身なんだけどね――王族出身の者であって、僧であり学者なんだ」と。「ですから、グルを探すにしてもね、ダルマに従った恥ずかしくない方法で探すんだ」と考えるわけだね。そうすると、その両親をひどい目に遭わせていた男がいきなり空に舞い上がり虹の光を放って、この謎の教えをまた説くわけですね。はい、そして、ナーローはそこで気絶して倒れると。ね。
 で、もう一回言うけども、これはこの男も含めて、このヴィジョンっていうのは、出来事っていうのは、ナーロー自身の心の現われであると同時に、すべてグルなんだね。つまりティローが現わした幻なんだね。で、何回かその――これは三つ目かな、三つ目の試練なわけだけど、前回二回までの経験によってナーローは決心するわけです。決心っていうのは、つまり前回二回を経験したときに、もう本当にある程度からくりが分かったわけだね。すべてはグルの仕掛けであって、で、わたしの心の現われであったと。よって、次にそれが来たら、絶対そう見るぞ、と。つまりすべてがグルの現わした幻であってわたしの心の現われに過ぎないと。で、それを見抜いて――それを見抜くことによって実際にね、グルを見つけることができるわけだけど――で、それをするぞ、と決意をするんだけども、毎回失敗する。ね。
 これも前から言ってるけども、つまりこういった物語っていうのは、例えばそのピンポイントだけ抜き出してあるから分かりやすいけども、実際は日常において、いろんなことがもちろんあったと思うんだね。つまりある出来事があって、そのすぐあとにパッてまた次の出来事があったっていうわけじゃなくて、日常いろんなことがあって、忘れたころにそれがやってくるわけだね。だから客観的にこういう物語としてわれわれが見てると、なんで分かんないんだってこう感じがするわけだね(笑)。昔のドリフターズみたいなね(笑)、志村けんとかがこう後ろからね、こうなんかこうやってきて、「危ない危ない!」とか観客が言ってるように(笑)、客観的に見ると「ああ、ナーローパ! ナーローパ! それグルだぞ、グルだぞ!」って言いたいんだけども(笑)、そのドラマの中心にいるナーローパにはまったく分からない。

◎神の導き

 で、これはね、よく修行者でも、もちろんわたし自身もそうだし、いろんな修行者で見受けられることですね。つまり例えば一つ二つの出来事で、終わった後には分かるわけです。終わった後に、「あ、これはやはりわたしの心の現われであった」とか、「至高者の仕掛けであった」と。「なるほど、こういうことか」と。「すべてはそのように見よう!」と思うんだけど、すぐにまた引っかかるわけだね。すぐに引っかかって、うわーって怒ったり、嫉妬したり、執着したり、わーってやって、ぐちゃぐちゃになって、すべてが終わった後に、「ああ、やっぱりこれもそうだった!」となるんだね(笑)。それだけわれわれは無智なわけだけど。
 まあ無智っていうよりも、カルマに翻弄されてるときっていうのはなかなか分からない。だからナーローも何度も自分のね、まだ――われわれに比べたら少ないわけだけども――少ないそのけがれが残っているうちは、こういった仕掛けに何度も何度も引っかかる。
 ただしこの仕掛けといっても、この種の仕掛けっていうのは、何て言ったらいいかな、微妙な話なんです。微妙な話っていうのは、じゃあこれはこのグル・ティローがやってんのかっていうと、そうともいえるしそうでもないともいえると。まあ、っていうのはさ、そのグル・ティロー、そういう偉大なね、グルっていうのは、もうほとんどその――例えばさ、こういう話聞いたことあるよね。仏陀というのは、一切意志もなければ努力もないと。意志もなければ努力もないっていうのは、例えば太陽がわれわれにね、「さあ植物よ育て!」って光をやってるわけじゃないよね(笑)。あるいは太陽が「みんなに恩恵を与えるか。じゃあそろそろ昇るか」と思って昇ってるわけじゃないよね(笑)。つまり、太陽に意志がないのに、自然に太陽のカルマというか、太陽の使命としてわれわれに多くの恩恵を与えてくれる。と同様に、仏陀の境地っていうのは、そこになんの意志も、あるいは努力もないんだっていうんだね。つまりこの宇宙の、われわれを救済するっていうのその偉大な法と完全に一体化した仏陀っていうのは、自然にそれを行なうというかな。
 だから偉大なるグルっていうのも、それと似たような感じがあるんで、非常に微妙なんだね。グルがやってるともいえるし、自然の法と一体化してるともいえる。まあ、それはどっちでもいいんだけども。
 これは修行に入っていようが入っていまいが、実際このナーローが経験したような出来事っていうのは、実はすべての生き物にとって起こってると言ってもいい。しかしそのレベルは違います、もちろん。これは何を言ってるのかというと、つまりわれわれは、自然に自然にやはり導かれてるんだね。それはヨーガ的な言い方をすると、それは神の愛ということになるわけだけども――仏教ではあまり神とかいう言葉は使いたがらないんだけど――ヨーガ的に言うと、神の愛によって導かれてるんです。すべては完璧だってよく言うけども、グルの愛によって、神の愛によって導かれていると。で、それが、いつも言うように、普通はつじつまが合うような形で、でもなんか導かれていくんだね。つじつまが合うようなっていうのは、物事としては普通につじつまが合う出来事なんだけども、しかし例えば振り返ると、あるいは大きな目で見ると、何かに導かれていろいろな経験をさせられてるとか、あるいは確実にある方向にこう持っていかれているとか、そういう流れがあるわけですね。で、それは修行者じゃない人でも起こるわけだけど、ただ修行者じゃない人っていうのは、まだ急速な進化の過程には入っていないので、当然急速に悟りに導かれるとかそういう道ではない。しかしいろんな経験をさせられて、だんだんだんだん――それは今生では目覚めないかもしれないけども――だんだんその魂が本格的なね、自分を浄化して、修行して、悟りに向かうような道に入るような導きがされるわけですね。
 で、修行の道に入ると、それは当然急速化される。つまり――その人の求道心にもよるけどね――その人が悟りであるとか、あるいは真実を知りたいとか、そういったことを求めれば求めるほど、それに呼応するように、その現象っていうのはその人を導く方向に働きだす。
 だからね、いつも言うけども、決意とか熱意っていうのはやっぱり大事なんだね。神とかあるいは悟りとか、あるいはこの世の真実を知りたいんだっていう強い欲求っていうかな、それを持つことっていうのはとても大事です。すべては心の現われっていうけども、そういった強い心に応じて――まあ神といってもいいしこの宇宙の法といってもいいんだけども――法則性っていうのは、その人を導く方向で働きだす。
 で、その修行者における導きも、最初はやはりつじつまが合うような形で進むわけだけど、だんだんね、その修行者のステージ、修行のステージがあがっていくと――これはバクティ・ヨーガがね、いつも言うように、一番真髄に近づいたことを言うわけだけど――すべては神の愛ですよと。すべては神の導きですよと。ね。表面的ないろんなことっていうのは、表面的には合理性が合っているような、つじつまが合っているような感じがするけども、実際はそれはそうじゃなくて、すべて神が導いているんですよっていうことを、だんだん一生懸命修行してるとね、直感的にあるいは経験的に、なんとなく理解できてくる。「あっ、なんか本当にそうなんだな」っていうのがだんだん理解できてくる。
 で、その本人の確信っていうかな、あるいは浄信といってもいいけども――浄らかな信ね――これも、そういったものに目が開けてくると、面白いことに、だんだんそのつじつまが合わない現象が起きてくるんだね。つまりつじつまが合わないんだけども、明らかに自分を導くような現象が起きてくる。それはちょうどこのナーローが体験してるようにね。つまり一般的にいうと「なんじゃそりゃ」っていうような現象がいろいろ起きると。ね。それはだからだんだんだんだん非常にストレートに導きがやってきたっていうパターンですね。
 で、もう一回言うけども、これは修行の道に入ると特にそうだけども、誰もがその導きの中にあると。ね。で、そこにグルっていう存在ね――つまり生きた生身の肉体を持った師匠っていうのが介在するわけだけど。つまりそのグルの存在っていうのがつじつまの役割をしてくれるというか。その神の導きの非常に具現化した形で、われわれをこう導いてくれるというわけですね。

◎乗り越えるべき壁

 はい。で、ちょっと話を具体的なところに戻しますが、で、ナーローが気絶から覚め、再び旅を続けていると、自分の両親に悪さをしている男に出会いましたと。で、この男はティローのことを知っていたわけだけども、教える条件として、おれを手伝ってくれと。で、ここでさっきも言ったように、ナーローは断るわけだね。それはなぜかというと、まあいい意味でのプライドですね。わたしは修行者であると。あるいは真理の実践をしている者であると。あるいは偉大な王子であると。ね。だから悪というものに加担しないと。
 あのね、この部分っていうのは――ここにもちろんいろんな人がいるだろうし、考え方はいろいろあっていいと思うので、こう考えなきゃいけないっていうふうにみなさんにその――まあ特にこのナーローの話ってかなり高度な話なので「こう考えなさい!」ってみなさんに強制することはできない。だからここはいろんな考えがあっていいと思う。みなさんだったらどうでしょうかね。どう考えますか? 
 例えば、条件としてはですよ、条件としては、偉大なグルを探していると。で、ある男が「おれはグルを知っている」と。ね。「その代わり、おれの両親をひどい目に合わせる手伝いをしろ」と。ね。つまり悪の加担をしろと言ってきたと。そこでナーローは「いや、たとえグルが見つけられなくても、わたしは悪はやりません」という、ある意味正統的な、ある意味正しいとも言える態度をとったわけだね。さあ、みなさんだったらどうでしょうかね。
 これはね、だからここで、みなさんが例えばこういう場面にあって、このナーローと同じようなことを考えたとしても、それはそれでいいと思う。あるいは、いや、これはここでナーローがとった道が正しいんだって考える人がいたとしても、それはそれでいいと思います。しかし、この経典自体は、それを間違いだと言っているわけだね。
 これはね、誤解を恐れずに言うけども、つまりこういう話はここでは何度もしてるけども――一体、法、つまり教えというのはなんなんだっていう話だね。教えっていうのは、当然、われわれを悟りや真理の真髄に導くための、まあ法則みたいなものだよね。法則性みたいなものだね。で、それは何から出てるのか? っていうと、当然それは悟った人、あるいは導き手から発しているわけですね。というのは、教えっていうのはあくまでも便宜上のものに過ぎない。なぜ便宜上のものにすぎないかっていうと、これはいつも言うように、ヒンドゥー教でいうとブラフマン、あるいは仏教でいうところの心の本性とかいうものっていうのは、決して言葉や概念で表わすことはできない。しかしそこに至る道っていうのは、言葉とか概念で表わすしかないんだね。よってさまざまな教えっていうのが登場する。そしてこれが善で、これが悪ですよっていう表面的な概念が登場する。しかしそれはあくまでも概念なんだと。じゃあその概念を説いた人は誰なんだっていうと、当然それは仏陀であり、あるいはいろんな聖者なわけですね。
 つまり――もう一回まとめますよ――仏陀や聖者といった人が、言葉では表現できない真理を悟りましたと。でもみんなを導かなきゃいけないから、それをあえて言葉で表現しましたと。そのあえて言葉で表現したものが、ダルマなんだね。で、そのあえて言葉で表現したものっていうのは、もう一回言うけども、答えではない。つまりヒントなんだね。そしてそのヒントの作成者、あるいは作成者と同等といえる存在が、グルなわけだね。よって、この密教とかの教えにおいては、ダルマよりも、つまり教えよりもグルを上に置くんです。師匠をね。
 これはちょうど、これも何度かそういうたとえで言ってるけど、受験の例えだととても分かりやすいんだね。受験の例えでいうと、つまり大乗仏教とかあるいは基本的な仏教とかの教えっていうのは、当然そういう考え方はしない。つまり師というのは、あくまでもちょと手伝ってくれる存在であって、法こそが、つまりダルマこそが最高なんだっていう、最初はね、言い方をするわけだね。これは例えば受験でいうと、教科書というのがあって、その教科書を最高に信じて――つまりその教科書全部、例えばですよ、丸暗記すれば東大も受かるだろう、という発想だね。で、もちろん学校の先生とかいるわけだけど、学校の先生のことは別にそんな信じていないと。ね。一応教えてくれるけども、例えば学校の先生がこうしなさい、ここやりなさいって言っても、自分なりに「いや、でもな、なんかうちの先生はあんまり信用できないから自分なりにこういう勉強しよう」ってやったとしても、まああまり問題はないと。
 じゃなくて密教における師弟関係っていうのは――つまりここでいう師匠っていうのは、非常に優秀な個人教師みたいなものですね。ここでいう優秀っていうのは、受験について、あるいは例えばその人が入りたい東大だったら東大を、今年東大に受かるにはどうすればいいかということ、まあもしくはその受験のからくりであるとかシステムであるとか、さまざまなことについて完璧に理解している人物ということです。まあこれは受験じゃなくてもいい、例えばオリンピックのある競技で、この競技で最高点をとって金メダルをとるには――っていうことを熟知している人物といってもいい。ね。あるいはいろんな趣味とか他のスポーツとかでもいいけどね。それがここでいうグルなわけだね。
 で、そうじゃなくてオーソドックスな、教えっていうのがある。で、このオーソドックスな教えっていうのは、いわゆる最大公約数的な教えなんだね。最大公約数っていうのはつまり、誰にとっても利益があるっていうか。誰にとっても利益があるっていうのは、ピンポイントじゃなくて、誰にとっても、まあそれやっとけば問題ないかな、みたいな教えなんだね。
 しかしもう一回言うけども、ここに、受験だったらその受験のシステムや、あるいは今年どうやったら受かるかっていうのを完璧に理解している師匠がいると。で、そこに弟子入りをするわけだね。で、その場合、当然一般的にいわれている――例えばドリルとか買ってきてドリルをやることよりも、あるいは教科書を丸暗記することよりも、あるいは一般的にいわれてる受験方法をやるよりも、その師をいかに信じられるか、ゆだねられるかが、分かれ目になってくるわけだね。
 つまりもう一回言うけども、その場合は「じゃあ大事なのは何なの?」ってことになるよね。大事なのは、受かることでしょ? 大事なのは受かることなんです。大事なのは、教科書を暗記することじゃないんです。だから本末転倒になっちゃだめなんだね。もう一回言うけども、教えっていうのは人を悟りに導く方便なんです。しかしその方便が、例えばゴールのような見方をされてしまうと、本末転倒になってしまうんだね。つまり例えばその人は教科書丸暗記しました「やった! 大成功!」、でも受験落ちました、とかね(笑)。何やってたんだっていうことになるよね(笑)。その人の努力はなんだったんだと。つまりその人は努力目標は達成したわけです。努力目標は達成したのに、何落ちてんのっていうことになるよね(笑)。だからそれが、密教のちょっと難しさっていうかな、複雑さなんだね。
 だから当然このナーローっていう方は、本当の意味でのグルっていうものに――一応ね、そういった学校の先生みたいな仏教の師匠にはついただろうけど、本当の意味での密教におけるグルと弟子の関係の師匠にはまだ出会っていなかった。だからまだそのようなことは知らないっていうかな、そういう世界にはまだ慣れていなかったわけですね。
 はい、だからここで――まあ、ある意味では正しいんだけども、つまり大乗仏教とか基本的な教えとしては正しいんだが、しかし密教においてはちょっとこう――間違っているというよりも、ナーローが乗り越えなきゃいけなかった壁みたいなのがここで登場するわけですね。
 この話っていうのは本当に非常に微妙な問題なので、わたしもあんまりストレートに、あるいは細かくは言えない部分でもある。それはみなさん自身が考えてもらったらいいね。
 密教って本当にね、みなさん分かると思うけども、リアルにストレートにもしいろんなこと言おうと思ったら、相当危ない教えになります(笑)。ね。そうなるとなんか、あそこは危ない教えを説いてる、とかなってしまう(笑)。だからまあ密教なんだけどね。もちろん危ないっていうのは、分かると思うけど、別にあえて危険なことや過激なことをやろうとしているわけではない。しかし、よりスピーディに道を極めようとした場合、やはり現実的な――われわれが一般的に感じている常識とかとはちょっとかけ離れる場合があるんだね。だから非常にデリケートな問題になってくるね。だからこれは、みなさん自身が考えたらいいと思う。
 もちろんここで、「いや、やはりわたしは師匠よりも法が大事だと思う」と思うんならそれでかまわない。現代ではさ、これも何回か言ってるけど、ダライ・ラマ法王をはじめとして、まあそうですね、欧米とか日本で教えを広めてる、チベットのラマたちは、大体そういうことを言います。つまり、法が大事ですよ、つまり仏典とか教えこそが大事ですよと。師匠に帰依することは素晴らしいけども、もし師匠が教えと違うことを言っていたら、それは教えをとってくださいって言います。つまり密教なんです(笑)。つまり、それはそうじゃない、グルが最高なんだってことは、言っちゃいけないんだ、本当はね。まあわたしは言っちゃってるわけだけども(笑)。一応こういう勉強会なんでね、言っちゃってるわけだけど、でもそれはもう一回言うけども、考え方としてはもちろんみなさんがそれぞれ考えたらいいと思います。ただ一応物語としては、ナーローがそこで法よりもグルっていう教えをとれなかったが故に、ひとつ失敗したわけですね。

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