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解説「王のための四十のドーハー」第三回(2)

【本文】

牛の足跡に溜まった水も
やがて蒸発し涸れ尽きるように
本来完璧な心の上に溜まった、経験へのとらわれという無明も
やがては涸れ尽きる

 はい。これはね、ここはちょっと、なんていうかな、表現として非常に分かりにくいです。これは、言葉に表わされてない、ちょっと隠れた意味があるんですね。隠れた意味っていうのは、意味としてはこれは二つあります。二つの意味があります。で、そのまず一つの意味から言うと、まず隠れた意味っていうのは――まずここに書いてあるのは分かるね。牛の足跡――まあサラハはインド人だから、インドっていうのは牛がいっぱいいる。で、そこら中に牛がいて、いっぱい足跡がある。で、当然雨季とかになると雨が降って、で、牛のその足跡に、水がたまる。この様子ですね。でも、牛の足跡に水がたまってても、まあ、はっきり言ってすぐに枯れます。特にインドっていうのは例えばバーッて雨が降るわけだけど、すぐにまたカラッと晴れる。まあスコールみたいにバーッて降ってカラッと晴れる。そうするとまたインドの猛暑の熱い陽が照って――だから牛の足跡なんて非常にちっちゃくて浅いから、バーッて雨が降って、ちょっとたまるんだけど、数時間もすればもうまたカラカラに枯れてしまう。この例え。この例えで何を言おうとしてるのかっていうと、この詩には出てこないんだけど、対比として、海っていうのを置いています。海ね。つまり海という広大な水たまりだね、言ってみれば。海という広大な水と、牛の足跡にたまった小さな水の対比なんだね。
 これで何を言おうとしてるのかっていうと、二つあると思います。一つは、自分の、まあ、特にまだ初期段階の瞑想経験です。で、この海と、それから牛の足跡の対比っていうのは、まず一つは大きさっていうのがあるよね。大きさってある。で、もう一つは、海というのは、惠みに満ちてる、という意味でもあります。つまり海というのは、もちろん多くの海産物も採れるし、あるいは昔のインドとかのイメージでは、例えばサンゴとか、あるいは真珠とか、そういういろんな宝石類も採れる。あるいは、なんか海賊とか、あるいは商人とかが落っことした、いろんな宝物とかも眠ってるかもしれない。――そういうイメージだね。海というのはまず非常に広大であって、そして多くの、まあ恵みに満ちているっていうイメージだね。で、一方、牛の足跡っていうのは、非常に小さい。で、かつ何もない。ただ泥水がたまってるだけであって何もないんだと。
 で、この対比で、一つは今言った、自分の瞑想経験です。つまりこれは、修行を始めて、で、瞑想しましたと。で、いろんな体験が生じる。それにとらわれてしまうことの、まあ無智っていうかな、危険性を一つは言っています。つまり、当然いろんな経験をします。で、それは、経験っていうのは言ってみれば良くも悪くもない。つまり、何かが進んでることを表わしてることは、もちろんそれはそれでいいわけだけど、それが最後ではないから、当たり前のようにそれは過ぎ去っていくから。特にね、ここでやってるようなクンダリニーヨーガ的な修行をやると、やっぱりいろんな経験がバーッて出てくる。これはタイプによるけどね。バーッて出やすい人と、いつも言うように、実際は進んでるんだけどあんまり認識できない人と、タイプがあるけども。あまりそういう、なんていうかな、修行の世界に慣れてない人っていうのは、一つ一つの経験を――もちろん喜ぶのはいいんだよ。いつも言うように喜覚支として喜ぶのはいいんだけど、とらわれてしまう。「おれはすごい経験をした」と。まあよくここに無料体験とかで来る人でもよくそういう人はいます。つまり、「いや、先生、わたしはこういう経験をしたんです」と。「こういう経験もしたんです」と。「どうなんでしょうか?」と。「これはどういうすごい経験なんでしょうか?」って言ってくる人が、まあ、たまにいるわけだけど。それに対してだいたいわたしは、さらっと受け流す。もちろんほんとに価値ある経験だったら別だけど、多くの場合は、クンダリニーヨーガとか、まあ、あるいは心の修行――このサラハとかの世界ではマハームドラーっていう瞑想世界なんだけど――そういう修行をして、付随して現われる多くの経験の一つなんだね。
 それはどういうことかっていうと、そうですね、例えば修行っていうのがね、例えば湘南台の、この部屋にいた人が、さあ――そうですね、大阪に行きましょうと。大阪がゴールだと。この旅を始めたようなもんだね。大阪に着いたらそれが解脱だと。で、当然その段階――つまりわれわれはまだ、修行してないときっていうのは、ガチガチの観念的世界に固定されている。これはちょうどわれわれが生まれてからずっと、この湘南台のこの部屋から出たことがないようなもんです。われわれはこの世界しか知らない。この世界がすべてだと思ってる。で、師匠がこう手を取って、「さあ、君の本当の幸せは大阪にある」と。まあ、これは例えだけどね。「大阪が真の悟りの世界だ」と。「さあ、行こう」と。で、弟子は、「え、そんな世界があるんですか?」と。この世界以外の世界があるとは知らないと。分からないと。で、まず師匠がその扉を開けてくれるわけだね。扉を開けて、弟子が歩き始める。そうするとわれわれはまず、ね、ここの場合、マンションの前の道路を目にするわけだね。道路を目にしたときに、この部屋とは違う風景が見えてくる。で、そこでその人は大変驚く。あるいは喜ぶ。「なんですか、これは!」と。なんかアスファルトがあって、あるいは車が走ってるかもしれない。あるいは子供が歩いてるかもしれない。でもこれは、大阪への第一歩ではあるが、まだもちろん大阪ではない。しょせんただ、玄関を出ただけなんだね。でも無智な人は、そこに没入してしまう。「ああ、これは素晴らしい」と。で、こうなるともう終わりです。終わりっていうのは、自分をあんまり信じ過ぎて、自分の経験は素晴らしいんだって思ってそこにとどまっちゃうと、この人は、玄関を出たはいいが、そこの道路で一歩も動かないと。例えば師匠が、「そんなのは大したことないよ」と、「早くこっちに来い」と言っても全く分からない。
 でももしその弟子が謙虚になってね、「わたしの経験は、なんかいろいろな経験が今あるけども、まだまだこんなのは大したことないんだ」と思って、純粋な気持ちで修行していったならば――例えばですよ、外に出ましたと。道路があります。「なんだ、この道路というのは?」……車が走ってる、人も歩いてる。こんな光景初めて見たと。でもずーっと歩いてれば、慣れてくる。で、それがあまり大したものではなかったいうことが分かってくる。それは当たり前の話であると。で、てくてく歩いていると、また新たないろんな光景が目に入るかもしれない。今度は駅に着いたら電車が目に入る。「なんだ、この電車というのは?」でもそこでとらわれずにその電車に乗れば、また次の光景が見えてくる。
 つまり、途中途中の経験っていうのは、進歩を表わすものではあるんだが、そこにとらわれたらもう終わりなんです。だからまあ、当たり前のように過ぎ去ればいい。
 特に、もう一回言うけど、クンダリニーヨーガ的な修行とかっていうのは、いっぱい経験します。でもその経験自体はあまり意味がない。もちろん意味があるものもあるけども。それはもう、なんていうかな、喜びながらも、とらわれずに過ぎ去らなきゃいけない。でも無智な人、あるいは器の狭い人っていうかな、あるいは傲慢な人、あるいはあまり前生からの修行経験が少ない人っていうのは、ちょっとした経験にとらわれてしまう。
 まあ、何度も言うけども、喜ぶのはいいんだよ。喜ぶのはいいんだけど、とらわれてはいけない。とらわれてしまうと、ね、それはただの序の口にすぎないんだけど、そこから先に進めない。
 何度もここでも言ってるけど、わたしは修行始めたころ、ものすごいいろんな経験がありました。中学生とか高校生のときね。もう毎日目まぐるしい経験がバーッて来た。でもやっぱり、多分それは前生の記憶だと思うけど、「なんか違うな?」って思ってました。つまり、その一つ一つを取ると、それを文字にするとね、素晴らしい、それだけでなんか宗教の教祖になれそうな(笑)、経験がいっぱいあったわけだけど、いや、こんなんじゃないだろうと。これがわたしの修行の終わりなわけがないと。
 何回も言ってるけどね、もう一回言うと、例えば高校生のときにね、よくあった経験として、例えば全身が光になってしまう。バーッて光になる。もしわたしが、修行経験が薄くて傲慢な人だったら、そこでもう宗教つくってます(笑)。「わたしは光になった」と。ね。「光の教え」とかこう説いてる(笑)。あるいは、よく意識の拡大ってあった。意識の拡大って、なんとなくじゃないんですよ。もう、物理的なんです。これはまあ、こういう体験ってさ、皆さんに移せないから、なかなか説明しづらいんだけど、皆さんにこれ、例えばちょっとわたしの体験を取ってね、誰かにパッて移せたとしたら、多分みんな超驚きます(笑)。それくらいのすごい経験だね。つまりもう物理世界として、このわれわれの周りの空間がガーッて広がるんです。それはもう、まさに無限に広がるんだね。無限っていうのは、自分のイメージしてる限界を超えるぐらいまでガーッて広がる。こういう経験も高校生のときによくしてた。
 でもこれも、なんていうか、客観的には、「なんかおれ、今すごい経験してるな」っていうのはあったけど、心がそれで満足するとか、あるいは、すごく「すごいなー!」っては思わなかった。「ああ、なんか起きてるな」と。でもこんなんで――つまり精神状態はそんなに変わってないから、「こんなんでなんか、わたしのヨーガ修行が達成したとは思えないな」と。「まあ、ヨーガの付随的な現象なんだな」ぐらいに思ってた。それぐらいが一番いいです。そんなの当たり前なんだと。山を歩けば草とか花が生えてるのは当たり前だと。でも草とか花が見えたことがない人はそこにとらわれてしまう。だからそういう感じで、なんていうかな、飽くなき向上欲求っていうかね。いろんな、例えば心が良く変わったとしても、それは素晴らしいけども、まだまだだと。光が見えました。それは素晴らしいけども、まだまだだと。わたしが目指す境地っていうのは、衆生を完璧に救うことができるブッダの境地なんだ、ということだね。
 で、それが、ちょっと話を戻すけど、そんな、君の経験したその一つ二つの経験なんていうのは、牛の足跡の上にたまった水のようなもんだよと。それには――完全な悟りの境地っていうのは海なわけだけど、海と比べてなんの恵みもないと。それに、すぐ枯れると。ね。大したことはないと。そんな経験なんてすぐに消えてしまうし、それにそんな経験なんて、なんていうかな、深みがない、なんの広さも深さもない。ただ君が、水たまりっていうのを見たことがないために生じてる心の錯覚にすぎない、というのが一つの、まあ、ここのポイントだね。

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