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解説「王のための四十のドーハー」第二回(3)

【本文】

雲の塊は海の水を集め、地はその雨を吸う
海の水は減るが、その分、空の水は増え
空の水が落ちたときには、地と海の水が増える
全体的には、常に減ることも増えることもない

勝利者(ブッダ)は、完璧さに満ちている
それは比類なき自然の性質のような、生来の完璧さ
すべての生き物は、ここより生まれ、ここに死す
しかしそれは、存在でも非存在でもない

 はい。これは分かりますね。まず最初の詩は、これは例えですね。で、次の詩が、その達成の本質を表わしています。
 はい、まず最初の例えは、

雲の塊は海の水を集め、地はその雨を吸う
海の水は減るが、その分、空の水は増え
空の水が落ちたときには、地と海の水が増える
全体的には、常に減ることも増えることもない

 まあ、これは自然現象、つまり海の水が蒸発し、雲となりました。このときに、海の水が物理的に減るわけですね。しかしその水、つまり水という一つの分子は、水蒸気となって空にとどまっている。で、それが雨となって地や海に落ちる。まあ、海に落ちればそのまま海の水に返るし、あるいは地に落ちた場合、例えば川となったり湧き水となったりして、まあ、のちにまた海に注がれる。で、結局、なんというか、形を変えてるだけであって、全体的には何も変わってないんだよと。つまり減っても増えてもないと。まあ実際にその水という分子がね、厳密に減ったり増えたりしてないのかっていうと、それは分からない。ただまあ、これは昔の話なんで、もちろん、まだあまりそういった物理学的な知識ってないので、普通に、普通の無智な人でも、自然を見て分かることを一つの例えとしてるんだね。海の水が雲になりましたと。で、それが雨となって落ちてきますと。いろんなことが起きてるように見えるんだけど、実際には何も変わっていないと。
 ――で、それを例えとして、次に、

勝利者(ブッダ)は、完璧さに満ちている
それは比類なき自然の性質のような、生来の完璧さ
すべての生き物は、ここより生まれ、ここに死す
しかしそれは、存在でも非存在でもない

 これは、なんていうかな、ブッダの境地を比喩的に言ってるわけだけど、これはいくつもの重層的な解説が可能っていうか、重層的な意味を持つと思うんだね。
 この詩だけを見ると、まさに、さっきも言ったように、ヒンドゥー教、特にバクティヨーガの、至高者の存在、あるいは、ヒンドゥー教では不二一元論とかいうわけですが、その絶対的なブラフマンの存在、これを思わせる。つまり、われわれの心の本性、それはヒンドゥー教的にはこの宇宙の本性ブラフマンといってもいいわけだけど、それはまさに、もう完璧なんです。そしてこれはよく使われる表現なんだけど、生まれも死にもしない。あるいは生まれも滅しもしない。あるいは増えも減りもしない。過去も未来もない。ただ完璧なんだね。しかし同時に、この例えでいうと、水というのは、この地球において全く不動で変わってないんだが、表面上変わってるように見える。つまり雲が生じ、そして雨が降り。で、もしその全体を見れる者が、ちょっとこう客観的にその全体を見ていたならば、その地球というかな、世界の不動性に気付く。この世界というのは、何も変わっていない。しかし、その一つ一つに目を奪われてしまうと、いろんな変化があるように見える。例えば雲だけに目をとらわれた場合、「あ、雲が現われた。」「あ、雲が形を変えた。」「あ、雲が黒くなった。」「あ、雲が雨となって消えていった。」
 これは、なんていうかな、ヒンドゥー教の言い方をした方が実は分かりやすいんだけど、ヒンドゥー教ではブラフマン、つまり絶対なる完璧なる不動なる存在があって、で、そこからシャクティとかプラクリティとかいわれる、動きのエネルギーみたいなものが生まれる。まあ、これはシヴァとカーリーといってもいいんだけど。シヴァは不動で、完全なる寂静だと。そこからカーリーが生じる。つまり、動きが生じる。で、このカーリーっていうのは、もう非常に、なんていうかな、止まらずに動く。で、シヴァは完全なる絶対的な寂静。で、この二つは実は同じだっていうんだね。だからちょっと、論理的に考えるとこんがらがってくるんだけど、これが、ヒンドゥー教的表現をすれば絶対的な真理なんだね。
 で、これは仏教でも同じなんです。同じ真理を説いてるから。で、これを、今の例えでいうと、雲の動きであるとか雨が降ったりとか、これはまあシャクティとかの動きなんだね。で、それが、それもひっくるめて偉大なるシヴァ、ブラフマン、あるいはブッダの完璧なる存在であるっていうふうに理解できればいいんだけど、われわれは、その一つ一つに目を奪われるんです。雲が生じた、雨が降った――ここに目を奪われるから、世界は限定的に見えるんです。われわれが雲だけに目を奪われたら、限定的でしょ。だって、雲が生まれました、で、雨が降って消えます。ああ、消えちゃった。だからわれわれが日常のさまざまな現象に限定的に目を奪われると、「ああ、わたしはこんなに褒められた、けなされた」「あの人は成功した、失敗した」――こういう非常につまらない、限定的なことだけにガチッと心を奪われてしまう。それはまさに雲とか雨みたいなもんであって、その全体性を見ると、何も生じても減ってもいない。ただ完璧な、まあ一つのって言っていいのか分かんないけど、一つのものがあるだけなんだと。それがわれわれの心の本性であって、あるいはブッダの本性なんだよと。
 ちょっと難しいですね、この教えはね(笑)。われわれの悟りの境地を言ってるので。でも、そういうことですね。
 はい。ここまで何か質問ありますか?

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