yoga school kailas

解説「ミラレーパの十万歌」第二回(8)

【本文】

 大部分の悪魔たちは、この歌によって改心し、ミラレーパを信仰し敬い、そして悪い魔法は消えました。彼らは言いました。
「あなたは本当に素晴らしい力を持った、偉大なるヨーギーです。あなたに真理を説いてもらわず、神通力を見せられることがなかったなら、われわれは決して理解できなかったでしょう。今後は決して困らせません。
 カルマという真理の話には、非常に感謝しています。正直なところ、われわれの理性は限られ、迷妄は無限です。心はかたくなな習気の沼地に浸っています。どうか、深遠な意味を持ち、大きな利益があり、そして理解しやすく観察しやすい教えをお説きください。」

 そこでミラレーパは、「七つの真理の歌」を歌いました。

 翻訳者マルパに礼拝いたします。
 どうか、菩提心を成熟させてください。

 歌の言葉がどんなに美しくても
 真理の言葉を理解しない者にとっては、
 それはただの曲である。

 たとえ話がブッダの教えと調和しないなら、
 どんなに雄弁に聞こえても、
 それは、ただのうるさい音の響きである。

 ダルマの実践をしないなら、
 どんなに教義に精通していると自称しても
 それはただの自己欺瞞である。

 口頭伝授の教えを実践しないなら、
 隠遁生活は、ただの自己監禁である。
 ブッダの教えを無視するなら、
 農場労働は、ただの自己懲罰である。

 戒律を守らない者にとって、
 祈りは、ただの希望的観測である。
 自らの説くことを実践しない者にとって、
 美辞麗句は、ただの不誠実な虚言である。

 悪行を避けるなら、悪業はおのずから減少し、
 善行をなすなら、功徳は増大する。
 隠遁し、一人瞑想せよ。
 しゃべりすぎても利益はない。
 わたしの歌に従い、ダルマを実践しなさい!

 はい。これは非常に、なんていうかな、リアリティーを持った、まあ、教訓だね。
 これはわれわれ自身が、自分にこう言い聞かせなきゃいけない。あるいは、そうですね、最近の精神世界にはまってる人たち、この人たちに対しての一つの教訓とも言ってもいい。
 「ダルマの実践をしないなら、どんなに競技に精通してると実証しても、それはただの自己欺瞞である。」
 はい。つまり、分かると思うけど、仏教にしろヨーガにしろ、教えというのは実践するためにある。例えば、多くの教えを知っていますよと。論理的にその意味を説明できますよと。でも実践してません。――これはなんの意味もないんだね。
 「ん? 十二縁起? こうこうこうです」と。「ん? 八正道? こうこうこれである」と。まあネットでもそういう人が多いけど、例えばね(笑)、「これこれの瞑想についてどうなんでしょうか?」「それはこうでこうでこうでこうでこうでこうである」と。で、喧嘩したりしてるわけだね(笑)。あれ? 仏法を実践してないじゃない(笑)。つまり、何のために仏教があるのか――それは自己の心を清らかにし、そして徳を積み、悪業を滅するっていうことを実践するための、なんていうかな、教科書としてあるわけだね。しかしそれを実践しない。ただ、教えの内容は知ってると。
 例えば野球博士とかいたとしてね(笑)。もうあらゆる野球理論を述べられると。でも野球したことがないと(笑)。この人がプロ野球選手になれるかっていう問題があるんだね(笑)。もちろんなれないよね。
 例えば小さいころに、ね、二人の少年がいて――わたしも小さいころ野球選手になりたかったんだけど――例えばAくんとBくんがいて、二人で誓いあったと。「おれたちは将来ジャイアンツに入ろうぜ」と。Aくんは徹底的に野球理論を学び――例えばピッチャーの投げるボールは何種類あって、その握り方はこうであるとか、あるいは、野球って結構緻密なスポーツだから、いろいろセオリーがあるわけだね。例えばこういう状況のときにはこういう球種しか投げないとか、いろいろある。徹底的にそれをマスターしたと。しかし全く運動してないんで、体弱いと(笑)。野球やったことがないと(笑)。もう一方は、まあもちろん理論はそこそこ学ぶが、それ以上に懸命に――例えば野球で有名な学校に入り、もう人の何倍も努力して野球に打ち込んだと。二人が十八歳になりました。さあ、約束守ったかなと思って二人が会ったら、最初のAくんは、もうBくんなんて敵わないほどの野球の知識を持ってる。「お、おまえそんなことも知ってんのか」と。「すげえな、おまえすげえな」と。でもなんか太ってて体弱いと(笑)。野球やったことがないと(笑)。でもBくんは、全く知識は弱いんだが、もうほんとにいろんな球団から声がかかるほどのすごい、例えばね、多くのホームラン打ち、あるいは多くの三振を取れるような人に成長していたと。
 つまり、仏教や真理の教えっていうのはそういうものなんだね。もちろん知識っていうのは大事です。なぜならば、そのとおりに正しく実践しなきゃいけないから。でもあくまでも実践のための知識であるっていうのはちゃんと考えなきゃいけない。そうじゃなくて、実践してないのに知識を学んだ――つまり、野球とかはさ、目に見える話だから分かりやすいじゃないですか。つまり、太ってて体弱くて野球やったことがないやつがね、「おれはスーパースターだ」って言っても、そんな訳がないじゃないですか(笑)。それはもう分かりやすい。でも宗教とか精神世界って曖昧だから、分かりにくいんだね。つまり頭で論理的に教えをいっぱい理解してる人が、まるで悟ったかのように思っちゃうんだね。分かりづらいから。ホームランとかそういう分かりやすい世界じゃないから(笑)。だから自分でも勘違いしてしまうし、周りも勘違いしてしまう。教えをいっぱい知ってる人がまるで仏教をマスターした人かのように見えてしまう。
 じゃないんです。教えを一個しか知らなくても、それを完璧に実践していたら、その人こそが聖者なんだね。「七科三十七道品、知らないんです。八正道、知らないんです。いやあ、六波羅蜜も知りません」と。「しかしわたしは仏教に出会ってから、一度も嘘をついたことがない。一度も人を憎んだことがない。一度も人に対して邪悪な思いを持ったことがない」と。「一度もブッダから意識を離したことがない」と。「でもそれ以外のことはあんまり知らないんです」と(笑)。「あ、それは大聖者ですね」と(笑)。で、もう一方はあらゆる教えを、もう仏教経典書けるぐらいの知識はあるんだけども、いつも怒ってると(笑)。いつも人の不満を言ってると。ね。これは全く意味がないんだね。
 だからこれもう――今言ったことっていうのはもちろん当たり前のことなんだけど、でも忘れがちなことなんですね。つまり実践して初めて意味があるんだね、真理っていうのは。だからそれも、われわれも忘れないようにしなきゃいけない。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする