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解説「ミラレーパの十万歌」第二回(5)

【本文】

 ミラレーパは、彼らの邪悪な意図を察知して、「カルマの真理」という歌を歌いました。

 すべての慈悲深きグル方に、
 帰依し、礼拝いたします。

 幻と蜃気楼によって、
 お前たち、邪悪な男女の悪魔たちは
 幻影である恐怖を作り出すことができる。

 お前たち、哀れむべきアーツァマの悪魔たち、餓鬼たちは、
 決してわたしを害することはできない。

 過去の罪深いカルマの成熟により
 今生は悪魔としての身体を得、
 醜い心と体を持って、
 永い間、空中をさまよっている。

 激しい煩悩に翻弄され、
 心は敵対的で、悪質な考えに満ちている。
 行為と言葉は、有害で破壊的である。
 そして、「やつを殺し、切り、たたき、切り刻め!」と叫んだ。

 わたしは、思考のないヨーギーであり
 心というものは存在しないことを知っている。

 ライオンのように雄々しく歩き、
 勇者のように恐れずに行為する。
 わたしの身体は、ブッダの身体と融合し、
 言葉は、如来の真理の言葉のようであり、
 心は、大いなる光の領域に没入している。
 六つの組の空性を、明白に知っている。
 わたしのようなヨーギーは、餓鬼たちの罵りを気にしない。

 もし、原因と結果の法則が確かであり、
 そして、ある者が報いに値するような行為を犯すなら、
 熟したカルマの力は、
 その者を、苦しみと悲しみのみじめな道へと、陥れるだろう。

 お前たち霊や悪魔たちが、真理を理解しないならば
 それは苦難であり、災いだ!
 わたし、公正に見るミラレーパは、
 今、ダルマの歌を説こう。

 食物によって生きているすべての衆生は
 わたしの父であり母である。
 感謝すべき者を苦しめることは、
 実に馬鹿げて、愚かである。

 もしお前たちが、邪悪な思いを捨てるなら
 それは、幸福でうれしいことではないか。
 もし十善を実践するなら、
 それは、祝福された喜ばしいことではないか。
 これを覚え、その意味を瞑想し、
 熟考して、自ら実践しなさい。

 はい。この辺はまあ、簡単に言うとね、まずミラレーパが、自分は霊や悪魔には全く脅かされないよということを雄々しく宣言するわけだね。「わたしは思考のないヨーギーであり、心というのは存在しないことを知ってる」と。つまり完全に心が止まってるというかな、つまり相対的な世界から完全に解脱してるんだと。
 「わたしの身体はブッダの身体と融合し、言葉は如来の真理の言葉のようであり、心は大いなる光の領域に没入している。」と。つまり身・口・意と言われる心と言葉と体が、そのような究極の状態にもう入ってるんだと。
 そして、「六つの組の空性を、明白に知っている。」と。六つの組の空性っていうのは、六つの組っていうのはいわゆる眼耳鼻舌身意ってやつですね。つまり目とその目で見る、まあ形ね。それから耳と耳で聞く音。まあこういう感じで、目、耳、鼻、舌、触覚、そして意識と、その対象ね、これを六つの組って言ってるわけですが。つまり人間っていうのはこの五つの感覚と、それからプラス一は意識なんだけど、これによって世界っていうのを感じてるわけだね、当然ね。これがなかったらわれわれが世界を感じるっていうことはない。そうでしょ? 何か見て何かを聞いて、あるいはまあ、その五感プラス、何か観念的なことを考える。で、そのすべてが空なんだと。実際には実体がないんだと。それを完全に悟ってる。だからその境地に達してる者にとって――悪魔がね、いろんなヴィジョンを作って脅そうとするわけだけど、そんなのは全く関係がないと。つまりすべてがもう幻影だと悟ってるから。そういう宣言をしてね、そしてその上で、その哀れな悪魔たちに対して、まあミラレーパが教えを説くわけだね。
 はい。で、ここでまず説く教えが非常に、なんていうか、まず基本的な教えね。「すべての衆生は父であり母である」と。つまり、これもいつも言ってるようにね、ものすごい輪廻の中で多くの縁があって、で、すべての衆生はわたしのことをとても慈しんでくれたことがあると。つまり感謝すべき存在なんだと。感謝すべき存在なのに、その人たちを苦しめるのは非常に愚かじゃないかと。ね。これがまあ伝統的な仏教の考え方だね。
 ここではだから悪魔について言ってるわけだけど、もちろんわれわれもそういう気持ちを常に持たなきゃいけない。つまり例えばなんかちょっとカチンとくるようなことをやってくる人がいたとしても、心の中でこう考えるわけだね。――「ああ、この人も過去世においてわたしのお母さんだったかもしれない。」「あるいはお父さんだったかもしれない。」「あるいはお父さんとかお母さんとかじゃなくても、何かすごくわたしのために尽くしてくれたことがあったかもしれない」と。「だからわたしはこの人に感謝しなきゃいけないし、逆に恩返ししなきゃいけないんだ」と。「恩返ししなきゃいけない人に、怒ったりひどいことをしたりするのは間違ってる」と、そういう思いを常に持つといいんだね。
 そうですね、恩返ししなきゃいけないっていう強い思いをやっぱり持ったらいいね。リアルに考えると、皆さん多分分かると思うんですよ。リアルな例として考えるとね。リアルな例っていうのは、そうだな……例えば誰かがね、自分の命を救ってくれたとか、あるいは誰かが自分が無智なときに真理を教えてくれたとか、まあ、いろんなパターンがあるだろうけど、もうほんとにこの人には頭が上がらないと。もうほんとにこの人には恩返してもし切れないっていう人が仮にいるとしてね、「すべての人がそうなんだ」って考える。自分がちょっと無智でよく覚えてないだけで、すべての人にそういう恩をわたしは返さなきゃいけないんだって強く思うんだね。そういう思いを日ごろから、なんていうかな、養うといいね。そうすると、ちょっとぐらいなんか人から嫌なことやられたって、あまり関係ない。それはそうでしょ。ものすごい恩を感じてる人が、ちょっとぐらいなんか悪口言ってきたって――つまり膨大な恩に比べたら(笑)、そんなことはどうでもいいじゃないですか。――まあ、例えばリアルに考えましょう。例えば百生ぐらい、ね、百生ぐらいずーっと自分のお母さんだったとか、あるいは百生ぐらいずーっと恩人だったとしますよ。今回もわたしを救ってくれた、今回もわたしをほんとに、身を粉にして育ててくれた。あるいは自分を犠牲にしていろんな愛を注いでくれた。「あなた、いつもわたしにほんとにこんなにしてくれてありがとう」と。「本当にありがとう」と。で、それが百回ぐらい続いて、次の生でたまたま「バーカ」とか言われたりしてね(笑)、「あ、もう駄目。もうおまえ嫌」ってならないでしょ、普通。その前の百生の、何億年もの恩があるわけだから、ちょっとぐらいバカとか言ってきたって関係ない。
 あるいは、もうちょっとリアルに考えましょう。例えばある人がいて、ほんとに自分に尽くしてくれた。もうほんとに返せないぐらいの恩を与えられたんだけど、その人が例えばですよ、三十年ぐらい自分にいろんなことをやってくれたとして、その後、ちょっと病気にかかった。ちょっと頭がおかしくなってる。で、自分にいろんなひどいことをやってくる。あるいは悪口を言ってくる。ここで相手を憎めないよね。つまり三十年も自分に尽くしてくれた。でも病気のせいで今ちょっと自分に害を与えてくる。そこで相手を憎めないよね。なんとか、それでもその人に恩を返したいと普通は思う。だからそういう感じだね。つまり衆生は今、煩悩という病気にかかってる。だから周りに害を振りまいてるけども、この人も、この人もあの人もあの人も、かつては自分に恩を与えてくれたと。だからたまたま今ちょっと病気にかかって変な状態になってるからといって見捨てるわけにはいかない。あるいはひどい目に合わすわけにはいかない。そういう気持ちを常に持たなきゃいけない。
 はい。そして、「邪悪な思いを捨てるならそれは、幸福でうれしいことではないか。もし十善を実践するなら、それは、祝福された喜ばしいことではないか。」と。はい。これはまあ読んだとおりですね。つまり十善、十善っていうのは、いわゆるその十戒とか十悪の逆ね。つまり生き物を殺さずに慈しむ。物を盗まずに人に施すと。あるいは邪淫をせずに、正常な清らかな人間関係を保つとかね。まあ十悪知ってるよね、その十悪の逆の生き方っていうわけです。おまえたちが邪悪な思いを捨て、そして十善ね、つまり十戒、十の戒律を守って正しく生きるならば、それはカルマの法則から言ってね、それこそがそのおまえたちに幸福をもたらすんだっていう、まあ基本的なね、教えをまずミラレーパは説くわけだね。はい。

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