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昼夜の別なく

 自分だって、昼夜の別なく、神への愛に没頭していたい! タクル、シュリー・ラーマクリシュナを眺めていると、自分はつくづく考えざるを得ない。――わたしは何をしているんだろう! このお方は、毎日毎日絶えることなく神様のことを思い考えていらっしゃるのに、それにひきかえわたしは、夜も昼も浮き世の俗事を思ってかけずりまわっている! このお方に会っているときだけが、ちょうど曇り空に一時覗いた青空の陽光のようなものだ。自分の陥っているこの人生のジレンマを、どのようにすれば解決することができるであろう。
 あのお方は、自ら示してくださっているのではないか。何を今さら疑問があるというのか。
 この砂の土手を壊してしまうことが、心の本当の望みなのだ! 砂の土手は真実だろうか。頼るべきものか? 否――。では、捨てきれないのはなぜだろう? 力が弱いからだ。もし神をあれほど愛したら、もう何の計算も入る余地がないはずだ。ガンガーに満潮の水が押し寄せるとき、誰がそれを防ぎ得るか。神への愛に狂うほど酔ったシュリー・チャイタニヤは、腰布一つきりになって他のすべてを捨てた。その愛のために、イエスは肉体を捨てて父なる神のもとに昇った。至高者へのその愛のために、仏陀は王位を捨てて出家修行者となられた。もしわたしの心に、その聖なる愛の一滴でもできたら、この非真実の生死流転の世界は、必然的にどこかへ脱落してしまうのである。
 そうだ、軟弱な精神を持つ者には、そのような聖なる愛(プレーマ)は満ちてこないのだ。それなら、マーヤーの鎖に足を繋がれて拘束されている世俗の人間に、救われる道はあるのだろうか? このような愛すべき世捨て人、この偉大な魂のそばから決して離れてはいけないのだ。さあ、このお方の仰ることを聞こう。

――マヘンドラナート・グプタ(『ラーマクリシュナの福音』より)

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